喪失した記憶 後編
言葉を切るとともに前方へ跳ぶ。
足運びも何もなっちゃいない無作法で力任せな突進。
それでも、奴との距離は嘘のように縮まっていく。
身体が軽いわけじゃない。いや、むしろ身体は逆に鉛のように重いはずなのに、俺の駆ける速度、体感している速度はかつてないほどに高まっている。
壺装束を着ているため女王の顔色は分からないがこれなら……
「——死ね」
この速度、この距離なら必ず獲れる!
「ふーん、なるほどね……よっ!」
……っ!? 切っ先が奴の喉元を捉えたその瞬間、視界が反転し、俺の身体は空を舞う。そしてそのまま……
「がはっ……!」
相応の高さから落下し、一瞬息が止まる。
合気の要領か? いや、奴はあの場から動くどころか、一手足りとも放っていない。両手を下げたまま、今もただそこに立っているだけ。何が起こった、何をされた——いや、今は考えているだけ時間の無駄だ。躱されたのなら、躱しきれぬ死を放つのみ!
「あーーーーー、ちょっと待ってちょっと待った」
機先を制そうと今一度刀を構え直した俺に向け、女王はようやくその手を動かし、手の平を向けたかと思うと——何故か俺の師匠へと問い掛ける。
「巴——あんた、どうして黙ってたの?」
表情こそ見えないが、その声には明らかに怒りの感情が篭っている。まぁ、俺から言わせれば、それがどうしただ。
「違うなよ、女王。おまえの相手は俺だ。弟子の不始末は師匠の責任だとでも言うつもりか? なら師匠、今すぐ俺を破門に……」
「キミはちょっと黙ってて…………答えなよ、巴。どうしてこの子のことを隠してたの?」
くそっ、単語だけで俺の身体は締め付けられ、身動きすら取れなくなる。
「…………」
だが俺と同等の剣気を浴びているにも関わらず師匠は微動だにせず、素知らぬ顔を貫き通している。横にいた文官はすでに泡を吹いて倒れ伏してるっていうのに。
「巴…………」
「…………」
重い——言葉少なく挙動すら起こしていないっていうのに、体全体に重圧がのし掛かってくる。
「…………………………ふぅ。ほんと頑固者はこれだから困るのよね。まぁいい、然すればこれも因果。どうなろうと文句は言わないでよ、巴御前綾女」
何がどうなったのかは知らないが、根負けしたのは女王。そこでようやく俺へと向き直り、
「——歓迎しよう、狂人。今宵は月が綺麗かい?」
女王は腰の得物を解き放つ。
いや、それすら俺には視認出来なかったし、斬られたという感覚すら無かった。
それもそのはず、女王が斬り放ったのは……
「うんうん、良い月だ、良い顔をしてる」
城の天部が勢いよくガラクタとなって落ちてくる。
あの一閃——いや、ガラクタの数からしてあの一瞬で放たれた斬撃は複数。しかもここから天井までどれだけの距離があると思う。
文字通り天を堕とす剣閃をもち、女王は天井を切り裂いた。その先に広がるのは夜の闇と満点の星空。
「——化け物が」
知っていたとはいえ、分かっていたとはいえ、この国を治める女王の実力は常軌を逸している。
——だからどうした?
震えはない。むしろ内から込み上げてくる感情はなお強くなり、あの首を欲する。身体から剣気が溢れ出していく。
「いいね、その様子じゃあ気付いてないだろうけど、今のキミは最高に狂ってる。妖姫の言葉を借りるなら、人間を辞めてるってやつかな。来なよ——それは正しい在り方だ。雅流一仭が極意、一刀に一心を込め、私を討ち取りにきなさい」
俺には女王の言ってることの欠片すら理解できないが、理解する必要もないよな。何せ、俺はこの感情だけを頼りに動いているのだから、余計な言葉はもはや不要。
節々が痛むが、身体はいつもより遥かに速く駆ける。
だがこれじゃあダメだ。これじゃあ先の二の舞。
剣術に関して一段二段飛ばしは不可能。
なら、俺が女王へと届くには自身の身体能力を叩き上げるのみ。
心を染めろ——一つのことだけに執着し、一つのために剣を震え。
真意——雅流の理はとはいかに
踏み込んだ足が木造の床を粉砕する。足の筋肉が幾らか切れた。
——構わない
握り込んだ鞘がきしみを上げる。指があらぬ方向に折れ曲がる。
——構わない
視界が女王のみを捉える。他の何もが映らなくなる。
——構わない
君は姉のために刀を振るう。
それが尊く、君の雅流となって欲しい。
間違えてもとらわれてはいけない。
君は道を違わず、守るために刀を振るえる侍になって欲しい。
律、君は何のために剣を振るう?
無論、俺は『怨讐』のみを刀に込め、雅流とする。
「がぁあああああああああ——!」
薙いだ腕はおそらく根元から引き千切れて飛ぶ。
——構わない、それで女王の首が獲れるなら、俺は……っ!
「————どうして————師匠————」
女王のみを捉えていた俺は気付かなかった。
師匠の刀が俺の腹を薙ぎ払う。
それだけで全てが終わった。
視界が急速に色を失う。
「巴ぇえええええええ!」
——俺は死ぬのか。
「弟子の不始末は師である私が。御前の手を煩わせるまでもありません」
「いまさら言うにことを欠いて! 知っていれば此奴をおまえには任させなかった! これなら武蔵に預けた方がまだ……闇に堕ちた人間は所詮は闇にしか生きられない! それを知ってなお、おまえは……」
「御前、この罰はいかようにでも……」
「五月蝿い! 興が冷めた!」
女王が部屋から出ていく。
くそっ、まだ一矢も報いていないのに……すぐそこに奴の首があるっていうのに……
届かなかった。
届かないまま、俺は死ぬ。
ごめん、姉さん。俺はいつまでたっても、姉さんの望みを叶えられない。
ごめん……ごめん、姉さん。
「律——紫苑が——死んだのですか?」
遠くで声が聞こえる。
「愛弟子を守れず、あまつさえ愛弟子にこのような行動を取らせてしまった。私の罪は重く、一生涯をもっても償うことは出来ないのでしょう」
声が掠れている。
「律、君はまだここで死んではなりません。ただ、かといってこのまま生きても君はまた同じように怨讐に囚われたまま、女王の首を狙い続けるのでしょう」
もう——声も聞こえなくなってきた。
「罪を重ねましょう。君に陰の道を歩ませぬよう、私はここで禁忌を犯す。雅流一仭 無音 鈴鳴」
頭の中が白くなる。何もかもが消えていく。
ああ——これが死ぬって感覚なのか。
「律。あなたは紫苑の望んだ通り、陽の道を歩むべきです」
「はっ……!」
脳が覚醒する。
目の前には剣を交わし続ける上泉妖姫と武蔵守狂夜の姿が。
何だよ今のは……。
あれが俺だって?
確かに単身城へと乗り込んだところまでは覚えているが……
鈴鳴が俺を狂わした。
俺は師匠に——騙されていたのか?
俺は師匠に——我が雅流の真意は—————————
「っ、何じゃこの剣気は!?」
「ハッ、化けやがったか……坊主!」
身体から溢れ出したものが止まらない。
身体が重い、それなのに頭は妙にスッキリとしている。
ああ——これがそうか、これこそが——
「一刀に一心を込める。俺が望むのは怨讐。倭国を焼いた貴様らだけは、この刀で殺し尽くす」




