しずく
お寺まで戻ってくる頃には、もう全身がじっとりと汗に包まれていて、Tシャツが肌に張り付いて離れない。まるで服ごと空気に溶けてしまいそうで、不快でたまらなかった。
都会の暑さとは何か違う、島特有の暑さ。
言葉でうまく言えないけど、東京の夏は、上からも下からも熱がまとわりつくような、逃げ場のない暑さだけど、島のそれはもっと原始的というか、太陽が一方的に突き刺してくる感じ。
空が怒ってるみたいな、そんな暑さ。
「だめだー、もう溶ける……」
私がそう呟くと、横で咲がニヤッと笑って、肘で小突いてきた。
「も〜、ほんま東京っ子は軟弱やなあ」
咲が私を肘で小突く。
「咲、それは関係ないと思うよ」
蒼兄が真顔でそう返す。
その真面目な口調に、なんとなく笑いそうになる。
ジー、とか、ニイニイニイとかいっそう耳にこびりつく。
蝉が好き勝手に鳴いていて、まるで空気ごと熱しているみたいだ。
「ご苦労様でした。よければ少し、休んでいかれますか」
お堂の奥から、おじゅっさんの声が優しく響いた。
その声だけで、少し暑さが引いた気がした。
ありがたくその言葉に甘えて、私たちはお堂へと上がった。
木の床が足裏にひんやりと心地よい。
風の抜けがいいのか、エアコンはなくても、扇風機の風と通り抜ける空気が身体を撫でていく。
さっきまでの粘ついた空気とは違う、穏やかな涼しさがここにはあった。
親たちはテーブルを囲んで、おじゅっさんが出してくれたお茶とスイカを味わっている。私と咲と蒼兄は縁側に腰を下ろして、境内を眺めながら、冷えた麦茶を飲んだり、スイカを齧ったりしていた。
スイカは、シャキッと音を立てて歯にかかり、あっさりした甘さと、口いっぱいに広がるみずみずしさが、少し溜まった疲れを洗い流してくれるようだった。
そんなとき、咲がぽつりとつぶやいた。
「――春にな、うちのクラスの子が急にいなくなってん」
スイカをかじる音が、止まった。
その声はふいで、どこか水の底から上がってきたように、静かで、でも妙に耳に残った。
「咲……」
蒼兄がすぐに反応する。低く、けれど柔らかく咎めるような声音だった。でも咲は、そっと口を引き結んだあと、小さく首を振って、言葉を継いだ。
「結局、見つからんまま。……神隠しやって、言う人もおるけどな」
「神隠し……?」
思わず大きな声が出てしまった。
蒼兄が、そっと眉を寄せて人差し指を唇に当てる。
その仕草がまるで、何か“触れてはいけないもの”に指を差し出したように思えて、私は小さく肩をすぼめた。
「だって……」
咲がむっとしたように唇を尖らせ、膝を抱えながらそっぽを向いた。
すると、奥から足音と共に、気配がひとつ近づいてくる。
「やあやあ、スイカおかわりありますからね」
畳を踏む音すらやわらかい。
おじゅっさんが、丸いお皿にスイカを乗せたまま、私たちの並びにちょこんと腰を下ろした。
その背をなぞる風が、汗ばんだ首筋をなでていく。
「ありがとうございます」
私は反射的に礼を言ったあと、ついでのように、けれど確かに興味を引かれたままの声で口を開いた。
「あの……“神隠し”って、何ですか?」
その瞬間、蒼兄の肩がわずかに落ちるのが見えた。
困ったような、けれどあきらめたような、そんな溜息を落としながら、眉を寄せて天井を見上げる。
おじゅっさんは膝の上に置いた皿を軽く持ち直し、ほんのひと呼吸、空を仰ぐようにしてから、ぽつりと語り出した。
「昔からな、この村では時々“人が抜ける”ゆうんや」
“抜ける”という言葉が、ゾクッとした寒気と共に私の中に引っかかる。
目を伏せて聞き入る咲の頬が、ほんの少し強張っていた。
「場所は決まってる。『蛙が池』、『星見城跡』、『お輿の森』、それに『木津根ヶ淵』……」
どの名前も、耳にした瞬間、頭の中の地図のようなものにピンを打つように記憶の底へ沈んでいく。
どこか、底の見えない場所に。
「それって、誰でも、あることなんですか?」
思わず問い返した私の声は、意識していなかったぶんだけ、かすれていた。
おじゅっさんは、静かに頷いた。
「性別は関係ない。けどな、どこへ行ったかは、誰にもわからん。まるで、霧みたいに……消えてしもうたようになる」
語尾が、縁側を通り抜ける風にさらわれていく。
「ただ――」
おじゅっさんの声が、ほんの少しだけ低くなる。
まるで言葉そのものが重くなったように。
「戻ってきた子は、一人もおらんかった」
ちりん。
風鈴が鳴った。まるでささやくように。
けれど、その音の涼やかさとは裏腹に、私の背筋には、氷のようなものが静かに這い登っていた。
言葉にならない寒さが、全身に伝っていく。
咲はなぜか、いつもよりも無口で。
蒼兄も、目を閉じたまま何かを噛みしめるように黙っている。
スイカの甘さも、麦茶の冷たさも、さっきまでのものとは違って、何かが私たちの間で“変わった”ような気がした。
その夜――
湯船に浸かりながら、私はぼんやりと天井を仰いでいた。
古びた木造の天井には、いくつもの水滴が小さな命みたいにしがみついている。
さっき聞いた“神隠し”の話が、頭の中で蛇みたいにとぐろを巻いていた。
今どき、そんなこと……あるわけ――
ガタガタッ。
風に煽られた窓ガラスが小さく震えた。
びくりと肩をすくめ、湯船の中で思わず膝を引き寄せる。
「あーあ……」
わざとらしく大きな声を出して、不安を押し込める。
こういう時って、変に耳が冴えて、普段なら気にもしない音とか、ありもしない気配に過敏になる。
浴室とかトイレって、とくに――自分しかいないはずなのに。
ガサ……ガサガサ……
草を踏むような音が、すぐ外から聞こえた。
まさか、足音?
湯の中で思わず丸くなり、口元まで浸かったまま曇りガラスに目をやる。
ぼやけた硝子の向こうに、影のような――人のかたちが浮かんだ気がした。
「……おかあさん!」
自分でも驚くほどの声が出た。
その瞬間、外の気配がサッ、サッサッサ……と、草を擦るような音とともに遠ざかっていく。
ドタドタッと足音が近づいて、風呂場の引き戸が勢いよく開け放たれた。
「澪! 大丈夫か!」
蒼兄だった。
眉間に皺を寄せ、目を大きく見開いて立っている。
裸足のままで、まるで私が怪我でもしたかのような勢いだ。
「蒼兄……たぶん、外に……誰か、いた」
「なんだって……!?」
蒼兄の顔がぐっと強張ると、戸をそのまま開け放して、脱兎のごとく駆け出していった。
「ちょ、ちょっと!」
こちらの状況はお構いなしなのか、行ってしまった。
入れ替わるように、母と咲が現れる。
二人に事情を話す。
「うち、脱衣所で待っとくからな」
咲はいつもの調子を少し抑えながらも、気を遣ってそう言ってくれる。
私はうなずいて、ふうっと長い息をついた。
「もう……なんなの……」
ゆっくりと湯船にもたれかかる。
脱衣所の気配が、ガラス越しにうっすらと伝わってくる。
家の外では蒼兄と母の声がする。
ぼやけた影が、曇りガラスに映っていた。
やっぱり“さっきの”も、人だったんだ。
チャポン。
水音がひとつ、静かに響いた。
ふと天井を見上げたその瞬間、
ぽた――。
水滴が頬に落ちた。
「……つめた」
ぽつりとこぼした声にかぶさるように――
『……たすけて』
誰かの声。
女性の……いや、もっと幼い感じ。
体が、冷えていく。
湯に浸かっているのに、手足の感覚がスッと引いていくような、そんな冷たさだった。
え……何?
耳をすます。
咲の声じゃない。
脱衣所からじゃない。
誰もいないはずの、風呂場の中。
その声は、水面の奥――まるで、水そのものが声を持ったみたいに、確かに響いた。
私は両腕で自分の肩を抱く。
それでも震えが止まらない。
水面を、見つめる。
ゆるやかに波打つ湯が、静かに、静かに、肩を包む。
なのに、どこかぞわついた感触が皮膚に残る。
『……きこえてるの?』
また声がした。
今度は、耳の奥に直接語りかけてくるような、ささやくような声だった。
水が……喋ってる?
「……うそでしょ」
そう言いながら、私は湯船から立ち上がっていた。
肌を伝う湯が、やけに重たく感じる。
もう一度、湯船の水面を振り返る。
何もないはずのそれが、今はまるで、底なしの目をこちらに向けているみたいに思えた――。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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