電子書籍化感謝SS いつだってあなたは
2019/02/28にアマゾナイトノベルズ様より本作品が電子書籍化されます。
応援して下さったすべての方に、感謝を込めて。
あなたの呼び声は、いつだって耳に心地よい。
まるで砂糖菓子のように甘くわたくしを蕩けさせ、真綿のように優しく包み込むの。
だからわたくし、いつも少しだけ悪戯をしていたわ。本当はあなたの呼ぶ声が聞こえていたのに、聞こえていない振りをしていたの。
だって、あなたの呼び声をいつまでも聞いていたかったから。
「アニエス?」
散々探し回ったであろうあなたは、わたくしをみつけるとホッとしたように柔らかく表情を綻ばせた。
「アーロン様、遅いですわ」
わたくしは少し拗ねたように頬を膨らませた。
本当は、ちっとも怒ってなんかいないわ。ただ、あなたに甘えていただけなの。あなたがあまりにもわたくしを大切にしてくれるから。
アーロン様は「ごめん、アニエス」と言うと、わたくしの顔を困ったように覗きこむ。
「どうしたら許してもらえるかな?」
「許してあげませんわ」
「それは困ったな」
アーロン様は本当に困り果てたように眉尻を下げた。わたくしは口元に手をあて、考えるような仕草をして上目遣いにアーロン様を見上げると、口を尖らせた。
「じゃあ、お詫びにぎゅっとして下さいませ」
両手を広げるように前に差し出すと、アーロン様はクスッと笑う。
「もちろん。喜んで」
そして、いつものようにわたくしを優しく抱き締めてくれる。
いつだってあなたは、まるで宝物を扱うようにわたくしを抱き締める。男性にしては細い腕をわたくしの背中に回し、優しく撫で、何度も髪をすく。
アーロン様は痩せている。あまり体が強くなく、これまでも床に伏しがちだったと言っていた。抱き締められると、その細さが直に伝わってくる。彼はそれを格好悪いとよく気にしていたけれど、何も気にすることなんてないわ。だってわたくし、あなたの全てが愛しいのだもの。
──ねえ、知ってる? わたくし、あなたの全てが愛しいの。
──なのに、どうしてきちんと言わなかったのだろう。
しばらくして腕を緩めたアーロン様は、わたくしの隣に置かれたものを覗き込んだ。
「アニエス、刺繍をしているの?」
「ええ」
「何を作っているの?」
「……クリスのタオルに木馬の刺繍を」
「ふーん」
クリスはわたくしの甥で、まだほんの赤ん坊だ。アーロン様は少しがっかりしたような顔をされた。きっと、自分へのプレゼントを作っていると思ったのだろう。けれど、すぐに気を取り直したようにわたくしに微笑み掛ける。
「アニエスは刺繍も上手だね」
「そうですか? お世辞はいりませんわ」
「本当だよ。クリスが羨ましいな」
「じゃあ、ついでにアーロン様の分も作って差しあげますわ」
「本当? ありがとう」
アーロン様は少年のように屈託なく笑った。わたくしはトクンと鳴る胸の音を隠すように、刺しかけの二つの刺繍布を胸の前で手に握る。その手をアーロン様の繊細な手が包み込んだ。
「アニエス、好きだよ」
「いつもわたくしが我が儘だから、お嫌いになってない?」
「まさか。いつもそんなことは有り得ないと言っているだろう? 僕を信じて」
アーロン様は極めて心外だと言った表情を見せてから、わたくしに顔を近づける。目を閉じると優しく唇が重なった。
暖かな風が髪を揺らし、小鳥が囀ずるのが聞こえた。
まるで、わたくしを包むこの人そのもののようだ。
素直じゃないわたくしを、いつだってあなたは優しく包み込む。
本当はね、刺繍はあなたのためで、クリスの分がついでなの。けれど、わたくしはそんなことすらきちんと伝えられない。
──どうして、きちんと言わなかったのだろう。
ねえ、アーロン様。わたくし、きっとあなたの思ってる以上にあなたのことが好きだわ。だって、あなたの全てが愛しいのだから。
素直じゃないわたくしを、包んでくれてありがとう。
いつも優しく、大切にしてくれてありがとう。
──あなたを心から愛してる。
──なぜ一言、そう告げなかったのだろう。
辛く苦しい死の淵で、脳裏に甦ってきたのはいつだってあなたの顔だった。わたくしを優しく見つめるその栗色の瞳も、落ち着いた語り口調も、男性にしては細い体つきも、あなたの全てが愛しかったの。
霞む視界で今日も届いたピンク色のバラを見つめながら、もうとっくに枯れきったと思っていたものが頬を伝った。
──あなたに会いたいの。
──でも、会わせる顔がないわ。
──あなたがわたくしを呼ぶ声が聞きたいの。
──拒否してるのはわたくしなのに、おかしいわね。
──あなたに抱き締めて欲しいの。
──穢れたわたくしに、もうそんな資格はないわね。
──なぜ、一言告げなかったのだろう。
──なぜ、一言だけでも……
──なぜ……
─
──
───
「……ナ」
「カ…ナ」
「カンナ」
軽く体を揺すられて、閉じていた瞼をゆっくりと開く。目の前には、こちらを覗き込むウィルがいた。
「カンナ、どうしたの?」
戸惑ったような表情のウィルは、心配そうな目でわたくしを覗き込む。伸びてきた大きな手は、優しくわたくしの頬を拭った。そこで、わたくしは自分が泣いていたことに、初めて気が付いた。
「怖い夢でも見た?」
まだ夜の闇に包まれた暗い部屋で、ウィルはわたくしの髪を何度も撫でる。かつて、アーロン様がアニエスにしたように。
「うん、怖い夢見た」
「そっか。大丈夫だよ。おいで」
ウィルは安心させるように微笑むと、わたくしを抱き寄せる。わたくしは悪夢を見なくなったとはいえ、未だに前世の夢を見ることがある。そんな日はとても心細くなり、なかなか眠れない。ウィルはそんな時、いつもわたくしを抱き寄せて包んでくれる。トン、トンと調子を取るように背中を規則正しく叩かれた。
「ウィル? わたくし、子供じゃないわ」
「知っているよ。けど、カンナがよく眠れるかと思って。いや?」
「……いやじゃないわ」
「よかった」
ウィルは空色の瞳を細めて、優しく笑う。
前世でも今世でも、いつだってあなたはわたくしを優しく包み込む。わたくしの方が年上なのに、どっちが子どもなのか分からないわ。
ウィルの腕の中にすっぽりと包まれながら、わたくしはしばらくウィルの寝間着のボタンを弄んでいた。ふと視線を上げると、優しく見下ろすウィルと視線が絡まった。
──なぜ、素直に気持ちを伝えなかったのだろう。
かつての後悔が蘇る。なぜ、その一言が言えなかったのだろう。言わなくても通じていた? そうかもしれない。けれど、わたくしは最期のとき、確かに後悔した。
「ねえ、ウィル」
「ん? なに?」
「わたくしね、ウィルのことが好きよ」
ウィルは驚いたように僅かに瞳を見開くと、嬉しそうにはにかんだ。
「うん。僕もカンナが好きだよ」
「あのね、多分ウィルが思ってるより、ずっとずっと大好きなの」
ウィルの顔に戸惑いが浮かぶ。
「──カンナ? どうかしたの?」
「言いたくなっただけよ。二人分言わなきゃって思って」
「あぁ、そうか。じゃあ、僕も二人分カンナに好きだって伝えないとだね。カンナ、好きだよ」
ウィルは納得したように微笑むと、嬉しそうにわたくしのお腹にそっと触れた。アニエスの分まで、のつもりの二人分だったのだけど、それを知らないウィルは違う方向の意味で捉えたようだ。まだ見た目には殆どわからないけれど、わたくしの中にはウィルの子供がいる。
「明日、刺繍をしたいわ」
「刺繍? 子供の物?」
「うん。それもしたいし、ウィルに何か作りたいの」
あの時のアニエスの刺繍は、とうとうアーロン様の手には渡らなかった。それも彼女の後悔の一つ。
「そっか。ありがとう。でも、目が疲れるから無理したら駄目だよ?」
「うん、わかってるわ」
嬉しそうに笑うウィルを見て、じんわりと胸が温かくなった。もしもあの時きちんと言えたら、アーロン様もこんな風に笑ってくれたのだろうか。
「わたくしね、ウィルのことを幸せにしたいの」
「僕は幸せだよ。カンナが側にいてくれるから」
優しく微笑んだウィルは、わたくしのおでこにキスをした。
「明日に響くから、もう寝よう」
「うん」
ウィルは私を包むように抱き直すと、再びトン、トン、と拍子を取りながら背中を軽く叩きはじめる。
いつだってあなたは、わたくしを優しく包み込む。
いつだってあなたは、わたくしを幸せにしてくれるの。
わたくしは、少しはあなたに幸せをお返しできているかしら?
心地よい温もりに寄り添い、その広い胸に顔を埋めた。
──この幸せが、いつまでも続きますように。
最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。




