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人魚姫の恋  作者: 春菜
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 全てが順調だったある日のことだった。きっかけは職場で海外旅行に行った人が持ってきたお土産が原因だった。

 こんがりと日焼けして帰ってきたその人は有給休暇をとって家族と旅行に行ってきたらしい。普段、個人的な旅行や出張に行って買ってきたお土産は部屋の隅にあるテーブルの上に名前と一言メッセージが書かれた紙と共に並べて置かれ、欲しい人だけが勝手に取っていくことになっているのだが、その人はご丁寧にも出社してきた人全員に手渡しで配っていった。お菓子はファニから禁止されているのできちんと断ったのだが、

「美味しいから食べて!」

 と、強引に手の中に押し込められてしまった。それはチョコレートの焼き菓子だった。

 密閉された袋の中に入っているので受け取ってしまっただけなら持って帰って捨てるか、ウォーキングのときに持って行ってミツコさんが食べるようならあげようと考えていたのだが、問題は周りの人たちも全員同じ物を貰ったということだった。

 周りの人たちは貰ったその場で封を開け、仕事の合間に食べ始める。あっという間に甘いお菓子の匂いがオフィスの中に充満した。

 私はファニのダイエットをして初めて知ったのだが、甘い物が好きな人間はずっと甘い物を禁止しているとチョコレートやお菓子の香料の匂いに敏感になる。店の売り場に並ぶお菓子は袋を突き破ってグミやチョコやガムの匂いがする。スナック菓子の油っぽい匂いもする。そこまで敏感になった鼻を使えば密閉されているはずの袋の上からでも中のお菓子の匂いが嗅ぎ取れる気がする。周囲から匂い責めにあった私はそこから逃れようと席を立ってトイレに入った。

 やっと無臭地帯に逃げ込んだ後は何度も大きく深呼吸を繰り返し、誘惑と邪念を振り払おうとする。が、鼻腔に残ったチョコレートの甘い香りは簡単には消えない。

「……香水でも持ってきておけばよかった」

 私は洗面台に手をつき、うな垂れてひとりごちた。お気に入りの香水は爽やかな柑橘系の淡い香りがして、匂いこそ弱いけれど食欲を減退させる効果があり、肌につけず直接嗅げばチョコレートの香りを退けてくれたはずだ。だけど、その香水はメイクに拘りがなくなってから使用頻度が落ちてしまい、カバンに入れていても邪魔になるという理由から今は自宅の洗面台の上に置かれている。

 とりあえず水道水をがぶ飲みしてお腹を満たしてトイレを出る。最後にもう一度深呼吸して息を止めつつオフィスに戻り、一度頭を真っ白にして気持ちを切り替えることにした。

 が、その作戦は上手く行かなかった。私の苦手なやたら語尾を上げる女子社員が話しかけてきたのだ。

「マリさん、あのお菓子食べましたぁ? チョー美味しいですよぉ!」

 と、満面の笑みで余計な報告をしてくれる。滅多に話すことなんてないのに、何と空気の読めない女だろう。そんなものはただの逆恨みだったが、苛立ちと憎しみを他に何処へぶつけていいかもわからず、私は彼女を睨みつけた。睨んだくらいでは空気の読めない彼女は怯まない。自分の食べかけのお菓子を見せ付けるかのように私の鼻先に翳してくる。

 まるで一口如何ですか、とでも言いたげなその仕草に私は首を振った。

「まだ食べてないの」

 願わくば、それで納得して引き下がって欲しい。でも彼女はまだ私の斜め後ろに居続けている。そこで私はこの誘惑から逃げる手段を思いついた。

「もしよければ、これも食べる?」

 そんなに美味しいのなら応じてくれるだろうと祈りにも近い思いで言った。これが成功すれば私の分のお菓子はなくなり、周りに匂いが漂って私の胃や脳を刺激しても自分の分はないのだから、と諦めることが出来る。我ながら名案だ。そう喜んだのも束の間、彼女は両手を体の前で広げて横に振った。

「そんな、いいですよ! 食べて下さい! 絶対、食べなきゃ損ですって!」

 遠慮のポーズを見せる彼女に口の中で舌打ちをし、心の中で思い切り悪態をついた。そこは空気読んで貰っとけよ、馬鹿女!

 しかし彼女からすれば私に対して図々しくならないように気を遣ったつもりなのだ。私は頬がヒクヒクと痙攣するのを隠そうともしないまま、大人しく引き下がる他なかった。

 このお土産をくれた人のような積極性が欲しい。遠慮する相手に無理矢理押し付けるような、強引さが欲しい。だが、それをするのは憚られた。同じ部屋の何処かにこれをくれた相手がいるのだ。ここで同じように無理矢理相手に押し付ければ、その人の耳に入るだろう。せっかく親切でくれた人に対して失礼になってしまう可能性がある。

 そう思った瞬間、私の心はポッキリ折れた。鼻から侵入した甘い香りが脳まで漂い、口が目の前にあるお菓子の甘さを求め続けている。これ以上、我慢し続けることなんて出来なかった。

 心の中で不幸を集める天使の囁き声が聞こえる。小さなお菓子だ。この一ヶ月以上を耐え抜いてきた自分にたった二口分くらいの贅沢、許してもいいじゃないか。

 たったこれだけのことで一ヶ月減らした体重の全てがリバウンドする訳でもないし、昼食の量をいつもより減らして調整すればきっと大丈夫。

 大丈夫だと思った次の瞬間には何かに操られたかのように指が勝手に動き、袋を破って開けて、二本の指で摘んだ中身を口まで運んでいた。ふわふわのスポンジが唇に触れた。歯で噛み切ると口の中に甘くほろ苦いチョコレートの味が広がり、噛むたびに唾液と混ざって溶けるように消えていく。その瞬間はまさに恍惚の境地だった。

「美味しいね」

 そう呟くと女子社員は満足気に仕事に戻って行った。実はバドルの助手なのではないかと、その後姿を見ながら思った。

 食べ終わった後の罪悪感はこれまでにないほど酷かった。まず心の中で誘惑に負けた自分を叱り付けた。固いところに頭が割れるまで力いっぱい打ち付けたいくらい自己嫌悪に陥った。明日から一週間食事を抜くくらいの罰は甘んじて受け入れてもいいくらいだ。次にファニに何度も何度も謝った。私の健康と体重の管理のために自分には必要ない知識をたくさん仕入れてきてくれたのはどれもこれも私が我慢して諦めずに努力すると信じてくれているからだ。それを裏切るような真似をしてしまった。

 その日は一日、とても落ち込んだり、自己嫌悪で叫び出したくなったりを繰り返した。帰って玄関の前で待っているファニの顔もまともに見られない。ファニの言葉にぎこちなく返事をして、一緒にいるのが嫌でお風呂場やトイレ、洗濯などに逃げて会話を避けた。そんな私を見て様子がおかしいと気付いたファニが言った。

「今日、何かありましたか?」

「うん……いや、いいの……」

 正直に言ってしまおうか、どうしようか迷い続けていた。今言えばファニは少し叱っただけで許してくれるだろう。だけど言えなかった。怒られることは怖くないと言えば嘘になるけれど、それ以上に悲しい顔をさせるのが嫌だった。隠し通せれば一番いいのだけれど、と都合のいいことを思っていた。

 だが、悪事は簡単に露呈する。

 ウォーキングを終え、帰ってきてシャワーを終えた後、体重計に乗った私は大きなため息をついた。二口程度のお菓子だと油断していたのだが、小さくてもお菓子はお菓子である。

 これまで厳しい食事制限を続けてきた体は突如与えられた糖分と油分をとても素直に吸収し、順調に下がり続けていた体重という数値にしっかりと結果を残した。

 要するに、今日は一キロも減っていないのだ。

 数字を見て思わず大きなため息をついてしまってから、その音がファニに聞こえなかっただろうかと口を塞いだ。普段は体重を測ったらすぐにノートに書き込むのだが、躊躇して先にストレッチを始めてしまった。洞察力の優れているファニの前でいつもと違うことをすれば、それだけで怪しまれるのはわかっているが、一度始めてしまった以上、途中で止めるのもおかしい気がしてダラダラと最後まで続けた。時間を先延ばしにしてもノートに書けば知れてしまうだろう。

 コソコソとグラフに書き込めればいいのだが、私の家で定規を使って作業が出来るのはリビングにある食卓にしているテーブルしかない。リビングの床はカーペットが柔らかくて文字を書くには向いていないし、使ったばかりのお風呂場は湿気が充満していてノートがふやけてしまうだろう。わざわざ玄関に持って行って書けば何か隠していますと宣言しているようなものだし、仕方なくバレるのを覚悟していつものテーブルで書き始めた。

「あれ? 今日は減らなかったんですね」

 ノートを覗き込んだファニが言った。心臓が飛び跳ねて口から出そうなくらい驚いた。その日食べたメニューが全て書き込まれているか確認するのは習慣になっているのだ。なるべく冷静に私は頷いた。

「うん……」

「何故でしょう? 停滞期に入るにはまだ早いし……運動量が増えたから筋肉がついてきたんでしょうか? 脂肪より筋肉の方が重いと聞きましたからね。」

 ファニは呟きながら力ない微笑みを浮かべた。原因を考えているように見せかけて、体重が減らなかったことで落ち込んでいるであろう私を励まそうとしてくれているのだ。

 それを感じて尚、嘘をつき通せるほど私の心は強くないし、図太くもない。理屈では違うと理解していても、その言葉に裏があると感じてしまう自分がいて、甘い誘惑に負けた私に嫌味を言って責めているとさえ思えてしまう。愚かな自分が悲しくて、申し訳なくて、ファニの前に完璧な土下座のポーズでひれ伏した。

「ごめん! 今日、職場の人が旅行のお土産をくれたの。チョコレートのお菓子だったんだけど、食べるつもりはなかったんだけど、断りきれなくて……二口くらい、食べてしまいました……」

 今日あったことを正直に全て話し、体重が減らなかった原因の全ては自分にあると言って謝った。

 最後の方は自分でも情けないほど苦しい言い訳だとわかっていたので、小声になっていった。たった二口だけど、取り返しのつかないことをしてしまった。

 ファニは想像通り、とても困惑した顔を見せた後、想像以上に寂しそうな顔をして眉を顰め、俯いた。 その表情の移り変わりを目の当たりにした私の心はズキズキと痛んだ。きっといつものように静かに怒って、力のこもった声で叱られると思っていたのにファニは少しも怒らなかった。

「そうですか」

 小さな声でそう言っただけで私から目を逸らし、ベランダのテントまで行き、横になってしまった。

 テントの中に入って見えなくなったファニに向かってもう一度だけ謝罪の言葉を述べ、おやすみの挨拶をして電気を消し、布団に入った。

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