12
いつものように休憩後、食器を片付けてウォーキングに行く。その途中、私は思い切って言ってみた。
「ファニ、いつもありがとう」
「え? どうしたんですか? 急に」
「ううん。何となく言いたくなったの」
「そうですか。……どういたしまして」
私が何か言うとファニが聞いてくれる。何も言わずに微笑んで受け入れてくれる。それは当たり前のことのようで、信頼や優しさがなければなかなか出来ないことだ。そうしてくれる相手がいるのがくすぐったいほど嬉しくて、涙が出そうなくらい幸せだった。
それをからかうようにファニの首からぶら下がったニコが低い電子音を立てる。するとファニは私にカメラを向けてシャッターを切る。ファインダー越しに覗いた私の姿はどんな花としてニコに写されるんだろう?
何度も疑問に思うけれど、確かめてみたことはなかった。きっとそこには私の姿の代わりに幸せの感情を表す美しい花が咲いているのだ。それを想像するだけで十分だった。
公園に着くとミツコさんが待っていてくれた。仕事をするファニと別れ、ミツコさんと歩き出した。
歩きながら他愛もない話をする。制服に着替えたとき知ったファスナーの歪みの理由を笑い飛ばし、数年ぶりに体重計に乗った話をすると、ミツコさんは私のことを偉業を成し遂げたかのように褒めちぎった。
なので私もミツコさんのことを褒め返す。褒め上手だとか、聞き上手だとか、本当に些細なことを全力で褒め、顔を真っ赤にして二人で大笑いしていると、少し前をジョギングしていたおじさんがスピードを緩めて振り向いた。
「こんばんは」
目が合ったので私が挨拶をするとミツコさんもそれに続いて挨拶をした。おじさんはそのまま速度を落とし、ジョギングをやめて私たちと並んで歩き出した。
「こんばんは。楽しそうだね。何かあったのかな」
「ええ。この子がすごい勇気のある行動をしたのよ」
おじさんにミツコさんが答える。おじさんは首を傾げた。
「へぇ? 何をしたんだい?」
「久しぶりに体重計に乗ったんですよ」
問い掛けられた私は答える。するとおじさんは面食らったように言った。
「それのどこがすごいんだい?」
「あら、わかんないの?女にとって体重計に乗るっていうのは崖から飛び降りるくらい勇気のいることなのよ」
ミツコさんはそう言って大笑いした。私も笑った。飛び降りる、は言い過ぎかも知れないけれど、崖の上からバンジージャンプをするくらいの勇気は必要だった。
「そうなのか。わからないなぁ……」
おじさんは難しい顔を作りながら首を捻った。口元は笑っているので、どうやら本気で悩んでいる訳ではないらしい。そしてしばらくすると思いついたように言った。
「あぁ、僕で言うところの朝の枕を見るようなものかな?」
「朝の枕? それがどうして怖いんですか?」
今度は私が首を傾げる番だった。わからないのは私だけのようだ。ミツコさんは既に頷きながら笑いを堪えている。
おじさんも笑い始めた。本気で悩む私の表情が面白いらしく、私を見ながら大声を上げて笑っている。
やがて、先に落ち着いたミツコさんが教えてくれた。
「若い女の子、特にあなたは結婚してないからわからないわよね。歳をとった男の人は頭が薄くなるでしょう? 朝起きたときに見た枕についている髪の毛が多いと怖いのよ。このまま抜け続けて近いうちにハゲちゃうんじゃないかって」
納得した私は大きく頷いておじさんの頭を見つめた。おじさんは私の父よりも随分若く見える。会社で女子社員にちょっと人気の同僚と同い年くらいではないだろうか。
「でも、そんなことを気にするほど歳には見えませんよ」
正直な感想を言うとおじさんは満面の笑みを浮かべて私にお礼を言った。
「若い子にそう言って貰えると嘘でも嬉しいよ。ありがとう」
嘘ではないのだが、お世辞だと思われたらしい。なかなか上手く伝わらないな、と思ったが、おじさんが優しい表情になったのでお世辞も役に立ったのかもしれない。
色々な話をしている間に時間は過ぎ、ファニに呼び止められた私はミツコさんと一緒にコースを外れた。
並んで歩いていたおじさんが一緒に足を止めたのを見て、ファニが言った。
「その方は、新しいご友人ですか?」
「うん? そうなるのかな?」
名前を聞いていないので答えに詰まっていると、おじさんは言った。
「いや……ちょっと嫌なことがあって気晴らしに走りに来たんだけどね。二人があんまり楽しそうだったんで声をかけたんだ。ありがとう。たくさん笑ったおかげですっきりしたよ」
「そうですか? 何もしていませんけど、お役に立てたならよかったです」
私はよくわからないまま答えた。いつもと同じように他愛のない話をしただけで、おじさんを慰めたり、励ましたりした覚えはなかった。するとニコでおじさんの写真を撮っていたファニが横から脇腹を小突いた。顔を見上げるとにっこりと笑って目線でおじさんを示した。その様子を見て私は思い出す。ファニがこういうときにいつも言っていた言葉だ。
「えっと、神のご加護がありますように」
慣れない言葉を言って照れ笑いを浮かべる私に、おじさんは笑いながら
「ありがとう」
と言って、手を振り、再びジョギングに戻っていった。ミツコさんと別れ、ファニから貰ったボトルの水で水分補給をして帰路につく。
「難しいことじゃないでしょう?」
歩きながらファニが言った。
「人を幸せにするっていうのは難しいことのように思われるかもしれませんが、実は簡単なんです。ただ誰かの傍に誰かがいて互いに認め合い、気持ちを思い遣ることが出来ればそれだけで人の笑顔を引き出すことが出来ます。天使でなくても出来ることです。幸せにするのに特別なものは必要ありません」
「じゃあ、どうしてファニは私のところへ来たの?」
「私たち天使が派遣されてくることは稀です。どうしても叶えたい、だけど自分だけではあと一歩届かない願いの声が神界から人界を見ている神々の耳に届き、気まぐれによって天使が派遣されるのです」
「神様は聞いた願いを叶えるために天使を派遣しているんじゃないの?」
「神によって天使が集める感情は違いますから、願いを聞いた神が誰かによります。バドルのような天使が派遣されることもありますし、私のような者が来ることもあるのです」
「じゃあ、たまたま幸福を食べる神様の目に留まったってこと?運がよかったんだね、私って」
「アルセレノス様はとてもお優しい方ですから、悲しんでいる女性が目の前にいると知って放っておけなかったのでしょうね」
ファニがそう言って空を見上げた。私は空に向かって両手を広げた。灰色の雲が浮かぶ紺色の空の真ん中に端が少し欠けた月が浮かんでいる。風に流される雲は月を避けるようにして進んでいて、それはまるで月が雲を掻き分けてファニを見守っているようだった。
「ありがとうございまーす」
月に向かってお礼を言った。宇宙の遥か遠くで光り輝く月に私の声は届いただろうか?美しい神様がファニを見守るついでにでも聞いていてくれたらいい。
私は鼻歌を歌うほど上機嫌で晴れやかな笑顔を浮かべたまま家に帰った。それはすぐに腹筋と背筋、お風呂上りのストレッチによって苦悶の表情へと変わることになったが、少なくとも家に帰るまでは満ち足りた気分だった。
翌日から私はファニから貰ったノートを持ち歩くことにした。仕事に行く電車の中で朝食べたメニューを書き込む。今朝は洋風だった。タマネギのスープと卵と豆腐のサラダ。ドレッシングも手作りで、戴き物の果物とレモンの果汁をベースに塩と胡椒であっさりした味に仕上がっていた。
思い出しながら一通り書き終わった頃には涎が出そうだった。職場に着いてロッカーの中に荷物を入れ、制服に着替える。以前はロッカールームの鏡を見ながら化粧直しをしていたけれどウォーキングにメイクなしで行くようになってからはその習慣もなくなった。
ファンデーションで隠さなければならない肌荒れやニキビの赤みはなくなったし、どれだけ濃くアイラインを引いたって細い目を強調するだけで大きくは見えない。家でしてきた以上のメイクに時間をかける必要はない。必要なのは蛍光灯の光の下でも顔色をよく見せるためにほんの少し発色のいい口紅をつけることと、陰気に見えないように俯かず、明るい笑顔を絶やさないことだ。
太っていて美人に見えないだけでも第一印象が悪いのに、その上、愛想が悪くとっつき難い女なんて例えスレンダーな美人でもお断りだ。
そう思った私は化粧で顔を隠すのをやめて、鏡を見て口角を持ち上げ、笑顔の練習をするようになった。すると、以前よりも人付き合いがしやすくなったような気がし始めた。これまでは同僚とあまり関わりを持たなかったので話したことのない人が結構いた。何度か仕事の話をしたことのある人でもなかなか打ち解けられずにそれ以上仲良くなれず、ぎこちない関係が続いていたのに、話しかけるとき一番最初に笑顔で挨拶をするようにしたらこれまでの関係と苦労が嘘のように気軽に話せるようになった。話してみると今まで苦手だと思っていた職場の人たちは優しい人たちばかりだった。
職場の近くで食事や飲み会をするのに丁度よさそうな安くて美味しい店を知っている人、人の話を聞くのが上手でアドバイスも適確な人望の厚い人、料理や掃除が得意で色々な豆知識を教えてくれる人など、それぞれに特技や個性があっていい人たちだ。何年も同じ職場で働いていたのに名前くらいしか知らなかったのが不思議なくらいだった。
家に帰ってから職場で接した人たちの話をしていると、ファニはとても喜んで聞いてくれた。いつもの褒め殺しも照れ臭かったが、意識して頑張っただけに素直に聞けた。ウォーキングに行って同じ話をするとミツコさんもまるで子供が学校の話をするのを聞く母親みたいに嬉しそうに聞いてくれる。そして不意に難しい顔を作って考える仕草をすると言った。
「あなた、変わったわね」
「変わりましたか?」
「ええ。初めて会った時は誰に対しても他人行儀で心を開いていなかったけど、最近は違うもの。誰にでも自分を見せようとするし、良く見せようとして見栄を張ったりしなくなったもの」
「……見栄張ってましたか?」
「そうね。ダイエットを頑張ってる自分に酔ってたっていうか……自分のことしか見えてなくて苦労話ばかりだったと思うわ」
包み隠さずはっきりと物を言うのはミツコさんのいいところだ。そう思うけれど、こういうときは少しオブラートに包んでほしいとちょっと思ってしまう。でもそう言われるようなことをしていた自覚があるので何も言い返せずに苦笑して見せた。
「それに、見た目も変わったわよね」
「え? そうですか?」
突然のことに驚きながらも嬉しい気持ちは隠せなかった。肌が綺麗になったのは自分でもわかる。ファンデーションのノリがいいし、お風呂上りにスキンケアをするときの手触りも変わった。前は表面に塗りたくってる感じだったのに、今は肌が水分を内側まで吸収しようとして手に吸い付いてくるのだ。私が照れ笑いを浮かべて黙っているとミツコさんはうんうんと頷いた。
「顎がシャープになったし、顔が細くなったわよね。周りから痩せたって言われてない?」
「本当? 初めて言われました!」
意外な言葉だった。制服がキツくなくなってきたので、もしかしたら痩せているかもしれないと期待はしていたけれど、人からそう言われたのは初めてだ。スリーサイズなんて測っていないし、体重も昨日から測り始めたばかりだ。今日はまだ計測していないのでわからないが、一日でそこまで劇的な変化があるとは思えない。
その日、帰ってシャワーを浴びた後、鏡に鼻先がつきそうな程近寄ってじっくりと自分の顔を見てみた。確かに変化を探そうとしてよく見てみると今までは首と顎の境界線が殆どなかったのに顎のラインが出来ている。
下着を足に通すとき、今までは息を詰めて下を向き、屈んでいたのが今日は心なしかすんなりと履けた気がした。ホックを止めるときも千切れそうなくらい引っ張っていたような気がするのに、そこまで力が要らなかった。試しに三つ並んでいる穴のいつも止めているところより、もう一つ内側の締まる方へ引っ掛けてみた。
「いける!」
私は鏡の前で思わずガッツポーズをした。無理矢理締められないこともなかったが、何度やっても窮屈で苦しくて諦めていたのに、少し締め付けられている感触があるくらいで窮屈ではない。
鼻歌を歌いながら体重計に乗り、コンマの後ろの数字しか減っていないことに納得しながらもがっかりしつつ、部屋に戻ってノートに記入を始めた。定規を使ってグラフを書き、空いたスペースに今日の運動量を書き込んだ。私は床に座ってテレビを見ているファニの横に座り、話しかけた。
「ねぇ、ファニ」
「はい。何でしょうか?」
「明日から朝のウォーキングと腹筋と背筋、少し増やしてもいい?」
「構いませんけど、辛いですよ?」
「いいの! 大丈夫!」
私が笑顔でそう言うと、ファニは困ったような顔をした。が、私が焦っている訳ではなく、やる気が出たから言っていることを悟ったらしくすぐに微笑んで頷いてくれた。
その後、ファニの指導の下ストレッチが行われた。痛くても息を止めてはならず、意識的に深く呼吸をしながら体を伸ばして解していく。筋の一つ一つが限界まで伸びて悲鳴を上げている状態がとても解れているとは思えなかったけれど、終わった後は血行が良くなり体が温かくなってすっきりするので何かしらの効果はあるようだ。
それから私は腹式呼吸のやり方を教えてもらった。横隔膜を動かして肺にたっぷりと空気を入れる。臍の辺りに力を込めて吐き出す。
「横隔膜を動かすなんて自力では出来ないよ」
「吸うときにお腹を膨らませてみてください。普段よりたくさん空気を吸えるはずです」
試しにやってみる。普段、どのくらいの空気を吸っているか意識したことがないので多いかどうかはわからないが、確かに肺が限界まで膨らんでいる感じがする。
臍の辺りに力を入れる、というのも難しい気がしたが、実際にやってみると腹筋をしているときやストレッチ中に呼吸を止めないように意識しているときと同じような感覚だった。膨らませた風船から空気が抜けるときをイメージして勢いよく息を吐き出す。
練習として何回かやっていくうちに額に汗が滲んできた。それを見たファニは満足気に頷いた。
「運動中はもちろん、普段の生活でもその呼吸を意識して下さい」
「これもダイエットに効果があるの?」
「脂肪が燃焼しやすくなるそうですよ」
ファニは言った。私は頷いて納得の意思表示をしながら、ファニがこんな情報を何処で手に入れてくるのか不思議に思っていた。体重を気にしたことがないどころか知らなかったのだから本人がダイエットをした経験があるとは考え難い。だとしたらファニは今までにも私のようなケースを手がけたことがある、太っている女性を痩せさせる専門の天使なのか?疑問に思ったので聞いてみると、ファニに笑われた。
「そんな専門はありません。神界には人界でお亡くなりになった人間の方がたくさん来ますから、その方たちにお話を伺って来たんです。生前にテレビや雑誌を見て実践したという方が多くて、そういうことに詳しいので助かっています」
ファニは言った。最近よくテレビを見ているのも健康番組のダイエット特集を見て勉強するためらしい。
「死んだ人と話が出来るの?」
「もちろん。私は天使ですからね」
御伽話の世界だと思った。見た目は普通の青年なのでうっかり忘れそうになるが、私は天使と同居しているのだ。
ファニは優しすぎるし、人間と同じ食べ物は一切食べないのに料理上手だし、トイレやお風呂にも入らないのに汚れや臭いが気になったことはないし、カメラや月と話をするし、家の中にテントを設営して寝ているし、普通と呼ぶにしては変わり者な部分が多いかも知れない。
だけど、ファニと出会う前まで私が抱いていた金髪碧眼で白い羽根が生えた神秘的な天使のイメージとはかけ離れて過ぎていて、時々、普通の人なんじゃないかと勘違いする。
それでも天使であることを疑ったり、イメージと違ってがっかりしたことはない。神様のことまで本気で信じてる訳じゃないけど、ファニがいると言うのならいるんだろう。この頃ではそのくらいの認識だった。
ノートを書き始めて数日が過ぎると体重の移行を示すグラフはわかりやすく下がっていて、目標まではまだまだ遠いけれど湧き出したやる気を煽るくらいの効果はあった。
毎日何となく過ごしているだけでは気付かないが、穴が開くほどしつこく鏡を見ているおかげで見た目の変化もよくわかるようになってきた。顔の形が変わって、少し小顔になったようだ。アイラインを引いていて気付いたのが、埋もれて奥二重になっていた目が二重に戻って目がぱっちりと大きく開くようになっている。ついでに笑顔を絶やさないことで表情筋が鍛えられ、何となく人相が変わったようだ。
ボディラインも変わってきた。くびれらしきものが俄かに姿を現した。下着のサイズが合わなくなってきたし、今まで気に入って着ていた服は胸元や腰周りが緩くなって似合わなくなってしまった。
腹式呼吸とストレッチにも慣れてきて、最近では開脚した状態で肘が床に着けられるようになった。腹筋と背筋の回数は初めてやった時の倍にまで増えた。それでも辛くないし、今はもう筋肉痛にもならない。
ウォーキングは朝早すぎると仕事中に眠気が襲ってきて辛いし、夜寝る時間に影響があるのも困るので相変わらず同じくらいの時間やっているけれど、朝と晩、それぞれ一周ずつ増えるくらいの速度にした。
競歩と言ってもいいくらいの速さにミツコさんは息を切らしながら頑張って着いて来てくれる。
「無理についてこなくていいですよ。自分のペースでゆっくり歩いて下さい」
「いいのよ。あなたのおかげで三日坊主にならなくていいわ。最近少し体の調子もいいの」
そう言ってくれるので私も自分の速度で遠慮なく歩くことが出来た。




