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人魚姫の恋  作者: 春菜
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11

 いつものように帰ってシャワーを浴び、朝食後、送られてきた結婚式の招待状の返事を書くことにした。頭を捻ってうろ覚えの常識を思い出しつつ葉書を書き、家から駅まで行く道に立っているポストに投函した。これでもう後戻りは出来ない。その後は普段と同じように駅でお弁当を手渡されてファニと別れた。

 会社に着いてロッカールームへ行き、制服に着替える。そこで私は違和感を覚えた。

 昨日までは途中で引っ掛かってなかなか上がらなかったスカートのファスナーが下から上まで滑らかに動いたのだ。試しにもう一度やってみるが、結果は同じ。

「もしかして……痩せたから?」

 誰にともなくひとりごちた。制服のスカートのウエストがきついのは前から自覚があった。ところがある日突然ファスナーが上がらなくなった。のは自分の家の洗濯機で乱暴に洗い、歪んでしまって噛み合せが悪くなったせいだと思っていたのだが、実は歪んだ原因は洗濯機ではなく、自分の肉のせいだった。

 確かによく考えたら入社してから今日まで使い続けていた訳ではない。入社したときは痩せていて、太ってからサイズを変更して貰ったのだから、長くてもせいぜい一年か二年といったところだろう。洗濯も毎日ではない。週に二、三回程度、普通に洗濯していただけだ。

 最後に制服の交換をお願いしたとき、担当の人からはこれ以上大きいサイズは用意していない、特注になると脅されていた。それまで段々とサイズアップしていく体に合わせてしょっちゅう足を運んでいたこともあり、ファスナーが歪んで上がらなくなったから交換して欲しいなどとは言い出しにくかった。出社時と退社時に着替えるだけだし、着ている間は特に異常もなく、上がりにくいだけで脱ぐとき下ろす分には問題なかった。

 入社の時、初めて制服に袖を通して以来、久々に自分の制服姿を確認すると心なしか上着のボタンもいつもより緩くはないが張り詰めてはいない気がする。それを発見した私の心境は喜びというより、感動だった。

 だが、現実は理想からはまだ遥かに遠い。肉に埋もれた首や顎は未だに変わらないし、肌が綺麗になったと言ったって顔の中に二つ切れ目を入れたような細い目と腫れたように膨らんだ頬は相変わらずだ。

 現実から目を逸らすようにしてロッカールームの鏡に背を向け、ため息をつきながら仕事に向かった。

 とはいえ完全に落胆したわけではない。手応えを感じられたことが嬉しくて、トイレに行って鏡を見る度、ガラスに自分の姿が映る度、顔や腕や腹回りに朝とは違う変化が感じられないかと確かめてしまう自分がいた。

「そんな劇的に変化がある訳ないじゃない」

 口ではそう呟いていても背筋を伸ばして、体を捻り、背中まで眺める自分を止めることはできなかった。

 効果が現れたのだと思うと嬉しくて、お弁当を食べるのも楽しかった。一口五十回と言われていた回数を少し増やし七十回に変えてみた。おかげで食べ終わるのが遅れ、午後の仕事に危うく遅刻するところだった。

「やりすぎは禁物」

 口の中で呟いた。調子に乗るのは良くない。まだ変化の第一歩が見えたところなのだ。油断すればすぐに元通りになる。仕事に影響ない程度に気をつけながら前にテレビで見た、座っている間に出来る腹筋の運動をこっそりしてみたり、エレベーターより階段を使ったりと、ささやかな努力をこつこつ積み重ねることにした。

 その日、家に帰った私はふと思いついて押入れの奥深くからあるものを取り出してきた。

 埃にまみれた箱を見たファニが首を傾げて聞いた。

「それは何ですか?」

「これはね、認めたくない現実を数字にして見せ付けてくれる恐ろしい機械よ」

 私はホラー映画の説明をするかの如くそう言いながら箱の中身を取り出した。一人暮らしを始めたとき、母親が買ってくれた体重と体脂肪を一緒に測れる機能のついた体重計だ。すぐ貧血になる私のために健康管理の第一歩として冷蔵庫や電子レンジと共に買い与えられ、我が家に導入されたものだ。ファニは珍しそうに私が現在の身長と年齢を入力するのを見ていた。と言っても以前登録したデータが残っていたので、数値を変える必要はなかった。成長期はとっくに過ぎているので身長は変わっていない。年齢が少し増えたくらいだ。

 あまりにファニが興味を示すので、好奇心と作動確認を兼ねて、体重だけを測れる機能に設定してファニを乗せてみた。

「この銀色の部分の上にまっすぐ立って……そうそう。じっとしてね」

 ピピッと電子音がして数字が点滅する。私はその画面を覗き込んで目を見開いた。

「え? 何で!」

「どうかしましたか?」

 一瞬、機械の故障かと思った。体重として画面に表示されていたのはファニの見た目からは想像もできないほど少ない数字だったのだ。

 背が高く、一般的な男子高校生くらいの体格をしているのに、ファニの体重は幼児並に軽かった。

 私はショックで開いた口が塞がらなかった。実は私にしか見えていない幽霊なのではないかと疑いを抱いた。本当に存在しているかどうか確かめようと手を伸ばして頬や肩に触れてみた。ファニは困ったように眉を寄せて首を傾げたまま、その手を静かに受け入れた。温かい。確かにここにいる。美形なのに人混みの中ではあまり注目されないが、一対一で会った人とはちゃんと話していたし、公園ではミツコさんにも認識されていたので、他の人たちが頭のおかしい女に話を合わせてくれているのでなければ私にだけ見えている幽霊や幻覚ではないはずだ。

 でもよく考えてみるとこの数字は当然なのかも知れない。

 ファニはそもそも人間ではない。神の世界から派遣されてきた天使だ。それに普通の食べ物は食べない。タバコ型のフィルターと呼ばれるものを通して濃厚な空気を吸って、山篭りをしている仙人と同じようにまさに霞を食べて生きているのだ。むしろ体重があることを不思議に思ってもいい。

「ファニって本当に人間じゃないんだねぇ」

 私は思わず呟いた。ファニは私の発言を今更だとバカにするでもなく、怒ることもなく、安心したようににっこり笑って体重計から降りた。

 次は私が乗る番だった。深く深く吸って、緊張を逃がすように吸った空気を吐き出した。

 そして登録しておいた自分のデータを呼び起こし、薄氷に足を乗せるかの如く恐る恐る爪先から乗った。音を立てて乗らなければ体重が軽くなるという訳ではないのに、人の心とは不思議なものだ。

 両足の下に感じる冷たい金属の感触。乗ってすぐに目を閉じた。いつ鳴るかわからない電子音が鳴るのを怯えながら待った。

 しばらくしてピピッと小さな音がした。聞こえなかったことにしてこのまま目を閉じていたかったけれど、この体重計はお節介にも勝手に前回と前々回の記録をメモリーに残してくれる。そんなことをしても確認を先延ばしにする以外の意味はない。片目を薄く開けて足元の画面に視線を落とした。心臓が高鳴って口から飛び出そうだ。大学受験の合否発表でもこんなに緊張しなかった。

 画面に表示された数字を見て、私はため息をついた。とりあえずは二桁だった。前回は危うく三桁の大台に突入する寸前だったので、一番の問題点は回避できた。その瞬間を見るのが恐ろしくてこれを押入れの奥に封印して存在しないことにしていたのだ。その封印を解いて使用し、結果を確認できたのでとりあえず、最初の難関は突破したと言っていい。

 それでも思っていたより数字が多かった。ダイエットの効果が出てもう少し減っていることを期待したのだが、現実から目を逸らし、これ以上体重が増えるはずがないと根拠もなく思っていた時期にも実際はファスナーに歪みが生じる程度には増え続けていたのだろう。その分がダイエットのおかげで落ちた結果、イメージとの誤差がプラスマイナスゼロ、と言ったところか。

「これが体重というものですか?」

 横から画面を覗き込んで、ファニが言った。これが他の男だったら悲鳴を上げて殴るか、突き飛ばすほどのトップシークレットだが、私の心は何故か平然と今の事実を受け入れてしまっていた。

 私がファニに対して今更、隠さなければならないことなんてない。出会ったときからメイクの崩れたみっともない泣き顔を見せているのだ。お風呂上りのノーメイクの顔、柔軟中の苦悶の表情に比べれば体重なんて恥ずかしくない。

 ファニは画面に交互に映し出される体重と体脂肪を見て、納得したように頷いた。

「初めて見ました。人間はこういう物を使って現状の数値を把握するんですね」

「え? 体重計見たことないの?」

「はい。神界にはないものですし、体重を測る必要がよくわかりません」

 体重を気にする神様なんていないだろうし、空気を糧に生きる天使が太るということも考え難いのでそれは納得だった。ということは、天使の体重を測ったのは私が世界初かもしれないし、少なくともファニの体重を知っているのは世界中で私一人だけということは確かだ。私は心のノートにさっき見た数字を書き残し、密かに一生覚えておこうと決めた。

 それにしても体重とは恐ろしい数字だ。私は身震いしつつ、ファニに体重と体脂肪のことを説明した。

「最初に表示されてる数字が体重で、次に表示されるのが体脂肪率。体重って言うのは体全体の重さを表した数字、体脂肪率はその体重の内、何割が脂肪で出来ているかっていうのを表してるの。詳しくは知らないんだけど、多分そんな感じ」

 私の適当な説明を聞いてファニは感心したように頷いた。

「ではこの数字が減れば脂肪と体重が落ちて、ダイエット成功ということになる訳ですね。以前はどのくらいだったんですか?」

「以前って? いつのこと?」

「和樹さんと付き合う前です。私には体重というものがよくわかりませんから、どのくらい減れば良い結果と見做されるのか判断できません。目標にする数字を決めるためには基準値を知る必要があります。それにはマリさんが自分で太っていないと感じていた時期の数字を知るのが一番です」

 ファニは自信満々にそう言うけど、正直なところ昔の体重なんて大体しか覚えていなかった。二桁目を思い出すだけでやっとだ。痩せていた頃の記憶は写真や洋服と一緒に封印してしまった。

 それは押入れに封印した体重計よりも深いところに沈んでしまっている。それを出さなければならないのか、と必死で頭を捻っていると、ファニが体重計の箱の中から説明書と一緒に入っていた紙を取り出した。その紙は会社で毎年行われている健康診断の結果だった。私の名前、血液型、身長と体重、それ以外も書いてある。

「それ、入社した頃のやつだ」

 一番上に書いてある年度を見て私は呟いた。その頃はまだ和樹とは外でしか会っていなかったので太っていなかったはずだ。和樹がレストランに就職して家で手料理を食べるようになってから太り始めたので、間違いなく痩せていた。体重の項目を見ると今の体重のほぼ半分だった。大きなため息と共にその紙をファニに返した。

「この頃なら痩せてたから基準になるよ」

 ファニはそれを見て頷いた。そして小さなメモ用紙を持ってくると、そこに目標となる過去の私の体重を書き込んで体重計のモニターの横にテープで貼り付けた。

 そしてキッチンから厚みのある小さなノートを持ってきた。

「何、それ?」

「これはマリさんがダイエットを始めてから食べていたものを書き記したものです。毎日、朝昼晩に食べたものが全て書いてあります。元々は私の作る献立が似通ったり、同じになったりしないようにメモするために書き始めたものですが、これをマリさんに差し上げます」

「……うん? ありがとう。でもどうして?」

「今日からは自分でこのノートに食事の記録と体重の記録をつけてください。食事の記録は食べた物の種類と食べた時刻を必ず書き込んでください」

 私は頷いてノートを開いた。普通の横線が入ったノートに細かい綺麗な字できっちりと日付、料理名と料理に使った素材、食事の時刻が書き込まれている。一日に大体三行程度使用しており、一行目には朝起きた時の食事とウォーキングから帰ってきた時に食べる朝食のメニュー。二行目の昼間、私が会社に行っている日の昼食にはお弁当の中身のメニューと昼休み開始時刻が書き込まれており、三行目は夕食のメニューと時刻、隅の余白にその日食べたアーモンドの数まで書き込まれていた。補充するときに数えられていたのだろう。

「カロリーは書き込まないの?」

「私が管理しているので必要ありません。……私が作った物以外の食事をしているんですか?」

「してない! してないよ!」

 慌てて首を振って否定すると、ファニはクスクス笑った。

「わかってます」

 どうやら冗談のつもりだったらしい。私はホッと胸を撫で下ろした。ファニはあまり冗談を言わないし、真顔で言うので心臓に悪い。

 ファニがノートに書く内容の説明を続けた。

「体重の記録は数字よりグラフがわかりやすいでしょう。ノートを横にして折れ線グラフを書いて下さい。縦の数値は五百グラムずつ、横は十五日で一ページとして毎日書き込んで下さいね」

「はーい。」

 私は小学校でノートの書き方を習っている気分になり間延びした返事をした。ファニが笑った。

「それから、グラフの線の下か上の空白にその日運動した量を書き込んでおいて下さい。あの公園のウォーキングロードは一周で一.五キロくらいで家からの往復もありますから朝は五キロ程度、夜は七キロ近くになりますね。家に帰ってから行う腹筋と背筋の回数も忘れず記入して下さい。柔軟は運動に含みませんから書かなくていいですよ」

「駅と会社で階段を使うようにしてるんだけど、それも書いていい?」

「いい心がけですね。もちろん記入していいですよ」

 それを聞きながら私はノートにグラフを書き始めた。横にしたノートに定規で縦と横の線を引く。縦軸と横軸だ。そこに定規の目盛を見ながらグラフの目盛を書いていく。一番下の線が目標体重、一番上が現在の体重になるように計算しながら区切っていくと、かなり細かくて眩暈がしそうだった。

 ファニの提案で現在の体重に近い上の方の目盛は一目盛につき一キロ単位にしておく。目盛の間隔が細かいのでこれから劇的に減ることへの期待と劇的に減らさなければグラフが全く動かないという自分へのプレッシャーの意味もある。

 現在と目標の中間の数字から一目盛につき五百グラム単位にして、体重が増減する細かい動きを見られるようにする。一番下まで何とか書き終わり一息ついた私はペンを置いて首を回しつつ後ろに倒れた。細かい作業をするのは嫌いではないけれど、ずっと集中するのはやはり草臥れる。小さな字を見続けて疲れた目を閉じ、目の周りを軽く揉み解して大きく伸びをするとまた起き上がって机に向かった。

 横軸に十五個の目盛を等間隔で書き、今日から十五日後までの日付を書く。縦軸に比べれば簡単な作業だった。最後に現在の自分の体重である縦軸の一番上、横軸の今日の日付の上に小さくはっきりと黒い丸を書き加えた。

 今より上の目盛はないのでこれ以上は太れない。油断は禁物だともう一度自分に言い聞かせ、ノートから顔を上げるとテーブルの上にタイミングよく用意された夕食が並んでいた。

「終わりましたか? 冷めないうちにどうぞ」

 今日の夕食は野菜たっぷりのお味噌汁と小さな焼きおにぎりと豚肉と野菜炒めの黒酢餡かけだった。

「あれ? 焼きおにぎり?」

 最初の日にお米の残りを食べきってから冷凍していた分も処分した。電子レンジで温めるレトルトのご飯を買い置きする習慣はない。買い物は必ず二人で行くし、その際にもずっとお米なんか買っていないはずなのに、と不思議に思っているとファニが説明してくれた。

「先日、ウォーキングしている公園で知り合った方から野菜を戴いたときにお米も一合戴いていたのです。ご趣味で小規模な田んぼを所有していらっしゃるそうで、無農薬だと仰って自慢されていました。せっかく戴いたものを捨ててしまうのも勿体無いので食べてしまって下さい。残りは冷凍して明日の夕食に使うつもりです」

 私は大喜びで頷いた。お米やパン、麺といった主食は禁止されている訳ではなかったがファニの用意する食卓にはずっと並ばなかった。噛む回数が多くてゆっくり食事をするおかげで、少ないおかずだけでも十分お腹いっぱいになってしまうためそれでも不満は感じていなかった。だけど、やっぱり久しぶりのお米は体に沁みるようだ。

「美味しい!」

「そうですか? 味わって食べて下さいね」

「はーい」

 私は子供のように返事をして、焼おにぎりを味噌汁で流し込んだ。醤油の焦げた風味に胃がじんわりと温まってご飯の栄養が体中に染み出していくようだ。その幸せそうな顔を見てファニは微笑み、いつものようにフィルターを吸うためベランダへ行ってしまった。

 ふと、興味が湧いてノートを開いてみる。ページを捲るとファニが書いていた頃の文字が見つかった。それを見ているとファニと私が出会った日から始まった日記のようであり、照れ臭い。ファニが私に作って食べさせてくれたメニューの名前が細かくずらりと書き込まれている。

 フレンチトースト、焼きおにぎりと味噌汁、夜中に食べたアーモンドの数から翌朝のヨーグルトに一匙入っていたジャムのことまで漏らさずきちんと書いてある。

「マメだな……」

 私は思わず呟いた。栄養が偏らないように気を付けてくれているのも、献立に昨日の残り物などを使って二日連続で同じになることのないように気を遣ってくれているのも薄々わかっていたけど、こんなものを毎日書いていたなんて知らなかった。

 食事を終えて、文字が書かれている最後のページの昼食が書き込まれている続きに今日の夕食のメニューを書き加える。ファニの丸みを帯びて整った字に比べると雑で汚いけれど、これが私の新たな一歩になるんだと思うとそれも誇らしく思えた。

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