【9】殿下の朝食研究日誌
第二皇子カイゼル殿下の専属料理人(自称・厨房係)になって、三日が経った。
この三日間で、わたしが学んだことは二つある。
一つ。カイゼル殿下は、予想以上に食べられないものが多い。
二つ。カイゼル殿下は、予想以上に無愛想だ。
* * *
【一日目】
朝食に、鶏卵のふわふわオムレツを作った。
バターの代わりにミルヒ脂を極少量使い、卵液には空気を含ませてふんわりと。
塩は最低限。焼き加減は半熟のトロトロ。
前世なら、ホテルの朝食で出てくるような完璧なプレーンオムレツだ。
殿下の反応:三口食べて、止まった。
「卵の匂いが強い」
え、これで?
ほとんど無臭に近いはずなのに。
フィンさんが横で苦笑している。
「殿下は卵の硫黄臭に敏感なんです。昔から……」
なるほど。卵のわずかな硫化水素に反応しているのか。
前世の知識を総動員する。卵の硫黄臭を抑えるには——酢を少量加える。酢酸が硫化水素を中和する。
「……もう一品、作り直させてください」
十五分後。
同じオムレツに、焼く前の卵液に微量のリンゴ酢を加えたバージョンを出した。
殿下の反応:完食。
ただし、何も言わなかった。「美味しい」も「不味い」も。
食べきったということは、まぁ、合格なのだろう。たぶん。
* * *
【二日目】
昼食に、白身魚のムニエルを作った。
川魚のフルーレという、この世界の鱒に似た魚だ。
淡白な味わいで、味覚過敏の殿下にも合うだろうと思った。
薄く粉をはたいて、ミルヒ脂でカリッと焼き上げる。
仕上げに、レモンに似たツィトロの果汁をほんのひと絞り。
殿下の反応:一口で止まった。
「焦げている」
焦げて……ない。
ムニエルとして完璧な焼き加減だ。表面はカリッと、中はしっとり。
でも、殿下の味覚ではメイラード反応の香ばしさが「焦げ」として感知されるのかもしれない。
翌日、蒸し焼きに変更。低温で時間をかけて、メイラード反応が起こらないギリギリの温度帯で調理した。
殿下の反応:完食。無言。
フィンさんだけが、「殿下が魚を完食したのは三年ぶりです」と教えてくれた。
……三年。三年も魚が食べられなかったのか。
* * *
【三日目】
朝食に、焼きたてのパンを出した。
この世界のパンは、基本的に硬い。フランスパンよりも硬い。
原因は発酵時間が短すぎることだ。この世界のパン職人は、魔法で一瞬にして発酵させるため、グルテンの形成が不十分で、硬く詰まったパンになる。
わたしは魔法を使えないので、前世式にイースト菌(この世界ではビール酵母が近い)で自然発酵させた。
一晩かけてゆっくり発酵させたパン生地を、朝、低温でじっくり焼き上げる。
結果——信じられないほど柔らかい、ふわふわのパンが焼けた。
殿下の反応:
パンをちぎった瞬間、殿下の手が止まった。
中から湯気がふわりと立ち上がり、小麦の甘い香りが広がる。
ひと口。
殿下の碧眼が、わずかに見開かれた。
それは、粥を食べた時と同じ反応だった。
二口、三口。黙々と食べ続ける。
そして——
「……もう一つ」
言葉が出た。
「もう一つ」。それは、おかわりの要求だ。
フィンさんが目を見開き、わたしも思わず息を呑んだ。
おかわりを望むということは——美味しかったということだ。
「はいっ! すぐに持ってきます!」
わたしは厨房に走った。
走りながら、泣きそうだった。
嬉しい。
本当に嬉しい。
料理を作って、食べてもらえて、おかわりしてもらえる。
それだけのことが、こんなに嬉しいなんて。
* * *
三日分の記録を手帖にまとめながら、わたしは殿下の味覚パターンを分析していた。
窓辺で丸くなっているネルが、片目を開けてこちらを見る。
「何を書いている」
「殿下の味覚研究日誌。食べられたものと食べられなかったものの記録」
「ふぅん」
ネルが起き上がって、手帖を覗き込んできた。
わたしが三日間で分析した結果は以下の通り。
■カイゼル殿下の味覚傾向■
・苦味に極度に敏感(カフェインは完全アウト)
・辛味に極度に敏感(香辛料全般が駄目)
・メイラード反応の香ばしさを「焦げ」と認識する
・硫黄化合物に敏感(卵、ネギ類は要注意)
・酸味には比較的寛容
・甘味はほのかなものなら受容可能
・旨味(グルタミン酸系)には最も良い反応を示す
つまり、殿下が最も心地よく感じる味は——出汁の旨味だ。
前世のわたしが研究していた「究極のだし」。
まさか、異世界の皇子のために、その研究が役立つ日が来るとは。
「旨味か」ネルが呟いた。
「知ってるの?」
「食の賢者は、それを『第五の味』と呼んでいた。塩、甘、酸、苦の四つの味に加えて、五つ目の味があると。百年前、そんなことを言った者は賢者だけだった」
「前世では、それを『umami』と呼んでいたよ。日本人の科学者が発見したの」
「日本? それはお前の前の世界か」
「うん」
ネルは長い尾を揺らしながら、何かを考え込むように沈黙した。
「……リーゼ」
「何?」
「お前は気づいているか。お前の作る料理に、少しずつエッセンスが強くなっていることに」
「エッセンスって、あの金色の光みたいなやつ?」
「そうだ。お前が食材の本質を深く理解するほど、料理に宿るエッセンスは強くなる。あの小僧の味覚を研究すればするほど、お前は食材の本質に近づいている」
つまり——カイゼル殿下の料理を作ることが、わたしの「魔法」を育てている?
「いずれ、お前のエッセンスは隠しきれなくなる。その時が来たら……」
「来たら?」
「わしが全てを教えてやる。食の賢者の知識を。そして、お前に与えられた使命を」
「使命って……大げさだなぁ」
「大げさではない。百年前、食の賢者は殺された。エッセンスを恐れた魔術師たちに」
空気が、ピリッと張り詰めた。
「殺され——」
「今はまだ話す時ではない。寝ろ。明日もあの小僧の飯を作るんだろう」
ネルはぷいっと顔を背けて、窓から外に飛び降りていった。
残されたわたしは、手帖を胸に抱えて考え込んだ。
食の賢者は殺された。
エッセンスを恐れた者たちに。
わたしの料理に宿るエッセンスが、強くなっている。
それが知られたら——わたしも?
……怖い。
でも、殿下の「もう一つ」という声を思い出すと、料理をやめることはできない。
怖いけれど、やめられない。
だって、わたしは料理人だから。
手帖を開いて、明日のメニューを考え始める。
殿下の朝食には——旨味を最大限に引き出した、澄んだスープを作ろう。
鶏骨と、この世界の干し椎茸に似たトロッケン茸と、あの海藻の合わせ出汁。
グルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸の三種を組み合わせた、旨味の三重奏。
前世の研究成果の、集大成だ。
ペンを走らせるわたしの手帖の隅に、金色の光の粒がひとつ、ぽつりと浮かんだ。
それに気づかないまま、わたしはメニュー案を書き続けた。




