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【8】第二皇子の専属料理人(仮)(嫌です)

 鶏骨の匂いより先に、嫌な予感が鼻に来た。


 イムル芋の泥を落としていると、入口で靴音が止まる。振り向く前に、マルクスさんの低い声が背中へ落ちた。


「リーゼ」


「は、はい!」


「昨夜、二番調理室に勝手に料理を出したな」


 包丁の先が、まな板にこつんと当たった。

 やっぱり、バレた。


「す、すみません……フィンさんに頼まれて、つい……」


「頼まれて、つい、で皇族の食事を作るな。毒見も通していない。分かっているのか」


 湯気の向こうで、マルクスさんの眉間が深くなる。

 胃の底が冷えた。皇族の食事には毒見の工程がある。それを飛ばして皿を出せば、善意だろうが、最悪は暗殺未遂だ。


「本当に、すみませんでした……」


 頭を下げる。額に落ちた髪が、芋の水で濡れた指に触れた。

 マルクスさんはしばらく黙って、それから大きく息を吐いた。


「……で、何を出した」


「イムル芋と鶏骨の粥です。調味は塩だけで——」


「それだけか?」


「はい。本当に、それだけです」


 マルクスさんはますます顔をしかめた。

 怒りが増した、というより、計算が合わないものを見た時の顔だ。少なくとも、今ここで厨房から叩き出される空気ではない。


「リーゼ。お前に客だ」


「客?」


 顎で入口を示される。

 昨日のフィンさんが立っていた。相変わらず、にこにこと柔らかい。柔らかすぎて、逆に逃げ道がない。


「おはようございます、リーゼさん。突然ですが、殿下がお会いになりたいそうです」


 は?


「えっ……わたしに? なぜ?」


「昨夜の粥の件でしょう。殿下が食事を完食されたのは、ここ数年で初めてでして。厨房も護衛も、朝からその話でもちきりです」


 笑っている目だけが、妙に本気だった。

 嬉しそうなのが、逆に怖い。


「あの……断っても……」


「皇子の召喚は断れません」


 にっこり。

 怖い。笑顔が怖い。


 マルクスさんの手が、わたしの背中を押した。


「行ってこい。ただし、余計なことは言うなよ」


 余計なこと。わたしが言いそうな余計なこと。

 たとえば「殿下の料理の味付けは全体的にセンスがないと思います」とか、そういうことだろうか。

 言いません。たぶん。



 * * *



 二番調理室へ連れていかれると思っていたのに、通されたのは学院の貴賓室だった。


 重い扉が開く。朝の光が差し込む部屋の中央に、昨日と同じ黒髪の青年が座っていた。


 カイゼル・フォン・アステリア。

 近くで見ると、思った以上に背が高い。立ち上がっていないのに、存在感だけでこちらの首が固くなる。

 冷たい碧眼が、わたしを上から下まで測った。


 怖い。


 今のわたしの心境を料理に例えるなら、活きた伊勢海老を目の前に置かれて「さばけ」と言われた新人料理人である。せめて暴れないでほしい。


「お前が、あの粥を作ったのか」


 挨拶も前置きも、まとめて皿の外へ払われた。


「は、はい……リーゼ・ヴァイスフェルトと申します。厨房の実務奨学——」


「経歴はいい。どうやって作った」


「え……普通に、作りましたけど」


「普通に?」


 カイゼル殿下の目が細くなる。

 そのわずかな変化だけで、部屋の温度が二度くらい下がった気がした。


「俺が今まで食べたどんな料理よりも、味がした。宮廷の料理長も、帝都の名店の料理人も、誰一人成し遂げられなかった。それを、『普通に作った』?」


 声は平坦だ。怒鳴られているわけではない。

 けれど、皿の縁を指で押さえるみたいな切実さがあった。


 味がした。

 今までの料理は、味として届いていなかった、ということだ。


「殿下は……舌が、普通より鋭すぎるのではないかと思いました」


「……何?」


「普通の人が美味しいと感じる味付けでも、殿下には強すぎるのではないかと。香辛料や甘みを足すほど、輪郭が潰れてしまう。だから余計な味を削って、食材そのものの味だけ残しました」


 カイゼル殿下は黙った。

 横でフィンさんが、小さく「ほう」と息を漏らす。


「……今まで、そんなことを言った者はいなかった」


「え?」


「宮廷の医師も料理人も、俺の味覚を『異常』として治そうとした。味を感じられるように、味を強くしろと。あれもこれも足せと。誰一人、『引く』とは言わなかった」


 その言い方で、喉の奥がきゅっと詰まった。


 味覚過敏は、叩いて直す故障じゃない。皿のほうを合わせるものだ。

 食品科学者だった前の人生のわたしが、胸の内側でむっと熱を持った。


「殿下」


 マルクスさんの顔が頭をよぎる。

 余計なことは言うな。

 分かっています。分かってはいるんですけど。


「殿下の味覚は、異常ではありません」


「……何だと」


「普通の人よりも、ずっと細かく味を拾えるのだと思います。料理人から見れば、むしろ才能です。殿下に合わせて皿を作る人が、今までいなかっただけで」


 一拍、音が消えた。

 フィンさんが目をぱちくりさせている。


 やってしまった。

 釘を刺されたばかりなのに、抜くどころか自分で打ち直した気がする。


「……リーゼ・ヴァイスフェルト」


「は、はいっ」


「お前、毎食、俺の食事を作れ」


「はい?」


「聞こえなかったか。毎食だ。朝昼晩。今日から」


「えっ、ちょっ、わたし学生で、授業もあって、厨房の仕事も——」


「フィン、手配しろ。この者の授業スケジュールに合わせて食事の時間を調整する」


「かしこまりました」


「ちょっ、わたしの意見は!?」


「聞いていない」


 聞いて。

 すごく聞いて。


 カイゼル殿下は立ち上がり、窓際へ歩いた。

 背筋は相変わらず硬い。けれど肩の力だけ、さっきより抜けて見えた。気のせいかもしれないけれど。


「殿下。条件があります」


 殿下が振り返る。


「条件だと?」


「宮廷の指定メニューではなく、わたしが自由にメニューを決めさせてください。殿下の舌に合う料理を、わたしなりに研究して作りたいんです」


 ここは譲れない。

 胡椒まみれの子羊肉や、砂糖漬けのコンポートを作り続けるなんて、料理人として耐えられない。


 カイゼル殿下は、わたしを見つめた。

 氷の目。その奥で、何かが一度だけ揺れた。


「……好きにしろ」


 その場で、わたしは第二皇子カイゼル殿下の専属料理人に(勝手に)任命された。


 いや、ちょっと待って。

 わたし、まだ十二歳だし、授業もあるし、厨房の仕事もあるし。

 寝る時間あるの、これ?



 * * *



「……殿下の専属料理人になってしまいました」


 寮の部屋に戻るころには、足の裏までくたくただった。ベッドの上で膝を抱えると、ようやく息が出た。


「すっごーい! リーゼ、皇子様の料理人!? 何それ、物語みたい!」


 ミーナが目をきらきらさせて飛び跳ねる。ベッドがぎしぎし鳴った。


「物語って……わたし、ただの厨房係なのに」


「でもでも、皇子様って、あの氷の皇子様でしょ? 超カッコいいって評判の! 近づいただけで凍えるって噂の!」


「凍えるというか、実際に寒かった。あの人、無意識に冷気出してる気がする」


「きゃー! それって運命じゃない!?」


「運命って……ミーナ、ロマンス小説の読みすぎだよ」


 窓辺で、ネルが鼻を鳴らした。尻尾の先が、こつんと窓枠を叩く。


「あの小僧か。氷の魔力を持つ皇族の血筋……ああ、なるほどな」


「なるほど?」


「味覚過敏は、氷の魔力の副作用だ。強すぎる魔力が舌の感覚まで研ぎすましている。普通の食事では、塩も香りも刃みたいに刺さる」


「魔力が味覚に影響するの?」


「当然だ。魔力は骨にも血にも舌にも染みる。あの小僧が食事を楽しめないのは、自分の魔力が強すぎるせいだ」


 単なる好き嫌いや体質ではなく、魔法が舌を尖らせている。

 わたしは無意識に、自分の指先を見た。昨日の粥を混ぜた手だ。


「ネル、それなら……わたしの料理が殿下に合ったのは」


「お前の料理にはエッセンスが宿る。魔力で尖った舌を、あれが丸める。だから、あの小僧はお前の料理だけ味が分かるのだろう」


 エッセンス。

 わたしの料理に宿るという、よく分からない力。


「ネル。わたし、ちゃんと知りたい。エッセンスって何なのか。食の賢者って誰だったのか」


 ネルは長い尾を揺らして、わたしを見た。

 翡翠色の目に、懐かしさみたいな光が沈む。


「……時期が来たら、教えてやる。今はまだ早い」


「いつ?」


「お前が、あの小僧の舌を本当に満足させた時だ」


 カイゼル殿下に「美味しい」と言わせろ、ということだろうか。


 あの表情の乏しい氷の皇子に、「美味しい」と。


「……それ、結構ハードル高くない?」


「知るか。わしは寝る」


 ネルは尻尾で前足を隠した。返事をする気配は、もうない。


 ミーナも爆睡している。「ん〜……ぷりんたべたい……」と寝言を言っていた。プリンはこの世界にない。教えた覚えもない。


 わたしは枕の下から小さな手帖を取り出した。

 明日の朝食。粥の二番煎じではだめ。香りは弱く、味の輪郭は細く、でも水っぽくしない。


 ペン先が紙をひっかく。思いついたそばから書きつけるせいで、乾く前のインクが指の腹に移った。


 殿下が「美味しい」と言うかどうかは分からない。

 ただ、今夜の睡眠時間だけは、もう負けが決まっていた。

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