【7】氷の皇子は味がわからない
帝都魔術学院には、触れてはならない話題がいくつかある。
一つ、学院長の年齢。
二つ、三階東棟の開かずの間。
三つ、第二皇子カイゼル・フォン・アステリアの食事。
三つ目について、わたしが知ったのは入学して三週間目のことだった。
* * *
「リーゼ、二番調理室に特別食を届けてくれ」
マルクスさんが、銀の蓋付きの盆をわたしに押しつけた。
見たことのない豪華な食器だ。普段の学食の皿とは明らかにランクが違う。
「特別食?」
「皇族の食事だ。第二皇子カイゼル殿下が、本日から学院に滞在される。殿下専用の食事は二番調理室で作って、護衛に渡す。いいか、絶対に粗相するなよ」
第二皇子。
名前だけは聞いたことがある。帝国最強と謳われる剣術の天才にして、氷の魔法を操る若き皇子。
「氷剣の皇子」という通り名は、その戦闘力と、人を寄せ付けない冷たい性格の両方を指しているらしい。
「了解しました。あの、中身は?」
「宮廷から指定されたメニューだ。胡椒焼きの子羊肉に、香草サラダ、パン、季節の果物のコンポート」
結構豪華だ。というか、学院の厨房で作るには勿体ないくらいの食材が使われている。
わたしは銀の蓋を少しだけ開けて、中を覗いた。
——顔をしかめた。
子羊肉の焼き加減は悪くない。でも、胡椒を効かせすぎて肉の旨味が死んでいる。サラダのドレッシングは酸味が強すぎるし、パンは冷めてパサパサだ。コンポートに至っては、砂糖で果物の風味を完全に殺している。
宮廷指定のメニューとのことだから、味付けにも宮廷の意向が反映されているのだろう。
けれど、これを食べて美味しいと思う人がいるとは、正直思えない。
……まぁ、わたしの仕事は運ぶだけだ。余計なことは考えない。
二番調理室は、食堂の奥にある小部屋だった。
扉の前に、軍服姿の青年が立っている。金髪を後ろで結んだ、にこやかな顔の好青年だ。
「あ、厨房の方ですか? 食事、お預かりします。ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる青年に、わたしは盆を渡した。
「お名前は?」
「リーゼです。リーゼ・ヴァイスフェルト。厨房の実務奨学生です」
「フィンです。フィン・グレーシア。殿下の従者をしています。よろしくお願いしますね、リーゼさん」
にっこりと笑うフィンさんは、皇子の従者にしては随分と気さくだ。
フィンさんが扉を開けた隙間から、部屋の中がちらりと見えた。
窓際の席に座っていたのは——黒髪の青年だった。
歳は十七、八だろうか。漆黒の髪に、冬の湖のような深い碧眼。
端正な顔立ちは彫刻のように整っているけれど、表情が全くない。感情の温度を感じさせない、凍りついたような美貌。
あぁ、あれが「氷剣の皇子」か。なるほど、確かに氷みたいな人だ。
フィンさんが食事を差し出す。
カイゼル殿下は無言でスプーンを取り、子羊肉をひと切れ口に運んだ。
咀嚼。
嚥下。
そして——皿を、押しやった。
「……殿下」
「下げろ」
短い一言。
フィンさんが困った顔をする。まるで、これが日常茶飯事であるかのように。
「殿下、せめてもう少しだけ……」
「味がしない」
味がしない?
確かに、あの料理は美味しくはなかった。
でも、「味がしない」と言うほどではない。胡椒はむしろ効きすぎだし、塩気も十分だった。
わたしは思わず、扉の隙間からもう一度中を覗いてしまった。
カイゼル殿下の碧眼が、こちらを捉えた。
「——何だ」
低い、冷たい声。
体温が三度くらい下がったような錯覚を覚える。
「ひっ……す、すみません! 失礼しました!」
わたしは慌てて扉から離れた。
心臓がバクバクしている。怖い。あの目、怖い。
でも——ふと、思った。
「味がしない」。
あの言い方は、料理が不味いから味がしない、というのとは違う気がする。
まるで——味覚そのものに問題があるような言い方だった。
* * *
その夜、わたしは厨房に残って仕事をしていた。
明日の仕込みを終えて、鍋を洗っている時。
二番調理室から、フィンさんが戻ってきた。手には、ほとんど手をつけられていない食事の盆。
「あ、リーゼさん。まだ残ってたんですね」
「はい……あの、殿下、あまり召し上がらなかったんですか」
「えぇ、まぁ……いつものことです」
フィンさんは苦笑しながら、残った料理を下げ台に置いた。
「殿下は……味覚が過敏なんです。普通の人が美味しいと感じるものでも、殿下には苦かったり、舌を刺すように感じたりするらしくて。宮廷の料理人たちも散々試したんですが、どれも駄目で」
「過敏味覚……」
前世の知識が頭の中で回り始める。
味覚過敏。スーパーテイスターとも呼ばれる症状だ。
味蕾の密度が通常の数倍ある人がいて、彼らは普通の人には感じられない微細な味まで拾ってしまう。苦味に特に敏感で、多くの食品が不快に感じる。
さらに、この世界の料理は魔法で味を「強化」する文化がある。
味覚が過敏な人にとって、魔法で強化された味は——拷問に近いかもしれない。
「リーゼさん? どうかしました?」
「あ、いえ……あの、フィンさん。ひとつ、試させてもらえませんか」
「試す?」
わたしは厨房の食材棚を開けた。
イムル芋。白い鶏肉。ミルヒ脂。塩。
シンプルな食材だけを取り出す。
「殿下に、もう一品お出ししたいんです」
* * *
三十分後。
わたしが作ったのは、白い粥だった。
イムル芋を裏ごしして、鶏の骨からとった澄んだスープで炊き上げた、極限まで優しい味の粥。
調味は塩のみ。それも、ほんの微かに。
仕上げにミルヒ脂をほんのひと垂らし。
普通の人が食べたら、「味が薄い」と文句を言うだろう。
でも、味覚が過敏な人にとっては——これくらいが、ちょうどいいはずだ。
前世の研究で学んだことがある。
味覚過敏の人に必要なのは、味を「足す」ことではなく、「引く」こと。
余計な雑味を徹底的に取り除き、食材本来の、最も純粋な旨味だけを残す。
鶏骨のスープから丁寧にアクを引き、イムル芋の澱粉をしっかり落とし、塩は不純物の少ないものを選んだ。
何も足さない。何も引かない。ただ、「丁寧に作る」。それだけ。
「これを……殿下に」
わたしは白い椀に粥を盛って、フィンさんに差し出した。
フィンさんは椀を覗き込んで、ちょっと首を傾げた。
「これは……粥、ですか? かなり質素ですが……殿下に出して大丈夫でしょうか」
「大丈夫です。多分」
「多分?」
「……七割くらいの確信はあります」
三割は賭けだった。
でも、あの皇子の「味がしない」という言葉が、ずっと引っかかっていたのだ。
味がしない。
それはきっと——今まで、誰も殿下の舌に合う料理を作れなかっただけだ。
* * *
フィンは、内心かなり困惑していた。
厨房の小さな少女——リーゼ・ヴァイスフェルトが差し出してきたのは、見るからに質素な白い粥だった。
皇族に出す食事としては、あまりにも簡素すぎる。
しかし、彼女の目は真剣だった。
十二歳の少女とは思えない、確信に満ちた目。
半信半疑で二番調理室に戻ったフィンは、カイゼルの前に椀を置いた。
「殿下。厨房の者が、もう一品作ってくれました」
「……いらん」
「まぁ、そうおっしゃらず。一口だけでも」
カイゼルは苛立たしげにフィンを一瞥したが、従者の粘り強さには長年の付き合いで慣れていた。
面倒そうに匙を取り、粥をすくう。
口に運ぶ。
——カイゼルの動きが、止まった。
「…………」
「殿下?」
碧眼が、僅かに見開かれている。
フィンは、その反応に息を呑んだ。
カイゼルが——食事中に、動きを止めたのだ。
それは、フィンがこの六年間従者を務めてきて、一度も見たことのない反応だった。
カイゼルは黙ったまま、二口目を口に運んだ。
三口目。四口目。
匙が止まらない。
「……殿下、お味は」
「黙れ」
いつもの冷たい声だ。
だが——匙を置かない。
白い粥は、静かに、着実に減っていった。
最後のひと匙を口に運んだ後、カイゼルは空になった椀を見下ろした。
そして、長い沈黙の後。
「——これを作った者は誰だ」
その声に、かすかな熱が混じっていたことを、フィンは聞き逃さなかった。




