【61】殿下との距離
最近、カイゼル殿下の足音を聞き分けるのが、妙に上手くなった。
廊下の先から近づいてくる、乱れのない靴音。殿下は相変わらず表情を動かさないし、言葉は短い。近くに立つだけで氷の魔力が空気をきゅっと冷やす。
そこまでは、いつも通りだ。
引っかかるのは、研究所の扉を叩く回数だった。
「リーゼ。この部屋の室温を確認しに来た」
月曜日。そう言って、殿下は地下の研究所に現れた。
「室温……ですか?」
「食材の保管に適切な温度かどうか、確認すべきだろう。俺の氷魔法で温度を感知できる」
なるほど。殿下の氷魔法は温度に敏感だ。温度計代わりになると言われれば、たしかに筋は通っている。
殿下は壁際を一巡りし、棚の前で一度足を止めてから「十七度。問題ない」と言った。
その視線が、作業台に並べた試作品のスープで止まる。
「味見が必要なら、する」
もちろん、していただいた。
殿下は二杯飲み干し、「悪くない」とだけ残して帰っていった。
「……殿下、忙しいのでは」
「今日は午後の公務がない」
翌日の昼前。
「リーゼ。研究所の壁に結露が発生していないか確認しに来た。地下室は湿度が高いからな」
その次の日。
「書架の配置が非効率に見える。整理の助言をしてやろう」
木曜には、書類の束を抱えて現れた。
「フィンに渡す書類を、ここで書く。静かだから集中できる」
金曜の夕方。
「……特に用はない。通りかかっただけだ」
通りかかっただけ。
地下一階の突き当たり、行き止まりの部屋まで。
……どの道を通れば、そこを偶然通れるのだろう。
どう考えても、おかしい。
* * *
「リーゼ、あなた本当に気がつかないの?」
ソフィアさまが、呆れを紅茶に溶かしたような声で言った。
昼休み。中庭のベンチで、わたしとソフィアさまとミーナは茶器を囲んでいた。
風が芝の匂いを運び、カップの縁で薄い湯気が揺れている。
アリアは研究所でネルと自習中だ。
「気がつくって、何に?」
「殿下が毎日研究所に来ている理由よ」
「それは……研究の進捗を気にしてくださっているんだと思います。殿下はエッセンスの認可に尽力してくださいましたし、成果に関心があるのは当然——」
「リーゼ」
ミーナが、わたしの両肩をがしっと掴んだ。
「あのね。『通りかかっただけ』って言って地下一階の突き当たりまで来る皇子がどこにいると思う?」
「え……殿下、散歩が好きなのかなって……」
「散歩好きの皇子が毎回あなたの作業台の横に座るの?」
「そ、それは……作業台の横が一番涼しくて——」
「殿下の氷魔法でどこでも涼しくできるでしょう!」
ミーナの声が跳ねた。隣のベンチの生徒が、菓子を摘まむ手を止めてこちらを見る。
「つまり何が言いたいの?」
「殿下が、あなたに会いに来ているの!」
「……え」
カップの中の紅茶が、急に遠くなった。
殿下が。わたしに。会いに。
「それは——ないよ。殿下は皇族で、わたしは料理人で——」
「身分は関係ないわ」
ソフィアさまが、紅茶をすすりながら言った。
「カイゼル殿下は、あなたの料理で人生が変わった人よ。十八年間味が分からなかった人に、初めて『美味しい』を教えた——それがどれほどのことか、あなた自身が一番分かっていないのね」
「で、でも……」
「リーゼ。好きな人の近くにいたいと思うのは、変なことじゃないわ。殿下の理由が下手くそなのは……まぁ、あの方は不器用だから」
ソフィアさまは、困った弟を見る姉のように口元を緩めた。
わたしは、膝の上で指を握ったり開いたりするしかなかった。
前世では三十歳まで生きた。けれど恋愛経験はゼロ。研究室と自宅を往復するだけの日々に、甘い寄り道は一度も挟まらなかった。
今世でも、頭の中は鍋と食材と火加減でだいたい埋まっている。恋の火加減なんて、触ったこともない。
殿下が、わたしを……?
「やめてよ。からかわないで」
「からかっていないわ。事実を言っているの」
ソフィアさまとミーナが、そろってにやにやしている。
わたしは紅茶のカップに顔を突っ込みたい衝動をこらえ、熱くなった頬を両手で覆った。
* * *
その日の午後。
研究所で、アリアにルーテの加熱実験を教えていたら——案の定、扉が叩かれた。
「リーゼ」
「は、はいっ!」
声が見事に裏返った。昼休みの会話が頭の中で湯気を立てていて、殿下の顔をまともに見られない。
「どうした。顔が赤いが、熱でもあるか」
「い、いえ、竈の火が——暑くて——」
「そうか。冷やしてやろうか」
「けっ、結構です!」
殿下は、わずかに首を傾げた。
その仕草が、いつもよりやけに綺麗に見えるのは——気のせいだ。絶対、気のせい。
殿下は作業台の横の、いつもの椅子に座った。
「今日は、何の実験だ」
「ル、ルーテの加熱温度帯による色素の変化を……」
「ほう」
殿下が、実験を眺める。
碧い目が、包丁の先から鍋の縁まで、わたしの手元を追ってくる。
意識した途端、指先に力が入りすぎた。
ナイフがルーテの繊維を引っかけ、切り口がわずかに歪む。
——だめだ。手元を見ろ。
料理人の手に、余計な熱を混ぜるわけにはいかない。
息を吸って、吐く。
ルーテの硬さ、刃の重み、まな板に伝わる小さな音。そこに意識を戻す。
……よし。落ち着いた。
「リーゼさま、殿下がいらっしゃると、いつも嬉しそうですね」
アリアが無邪気に言った。
「ア、アリア!? そんなことないよ!?」
「でも、殿下が来ると、リーゼさまの料理がちょっと光りますよ?」
——光る?
作業台を見ると、さっきまで切っていたルーテの切り口が、淡い金色を帯びていた。
嘘。
エッセンスが、勝手に?
「なるほど。感情がエッセンスに影響するのか。面白い」
殿下の声だけが、妙に研究者めいていた。
「面白くないです!!」
わたしは両手でルーテを覆い隠した。指の隙間から漏れていた光は、すぐにしぼんだ。
ネルが棚の上から、ふぁ、とあくびをした。
「エルヴィンも、好きな女の前で料理すると光っていたな」
「ネル!! 余計なこと言わないで!!」
研究所が、どっと騒がしくなった。
アリアはきょとんと瞬きをしている。殿下は無表情のままなのに耳だけが赤い。ネルは棚の上で、知らん顔で前足を舐めている。
わたしは——穴があったら入りたかった。
地下室だから、すでに穴の中ではあるのだけれど。
* * *
翌朝。
研究所の扉を開けると、作業台の上に小さな木箱が置かれていた。
木目の濃い蓋に、簡素だけれど丁寧な文字の手紙が添えてある。
『南方諸島産の香辛料。研究の参考になるかもしれん。——K』
K。
カイゼルの、K。
木箱を開けた。
中には、見たことのない赤い粉が収まっていた。
鼻を近づけると——甘い。けれど砂糖の甘さではない。舌の奥を温めるような、遠い島の市場を思わせる香り。
これは……前世でいう、シナモンに近い? いや、違う。樹皮の甘さに、花と煙を混ぜたような奥行きがある。
南方諸島産。帝国の南端、海を越えた先の島々で採れる希少な香辛料だ。
めったに市場には出ない。おそらく、皇族のルートでしか手に入らない。
「研究の参考に……」
わたしは手紙をもう一度読み、親指で紙の端をなぞった。
これは、贈り物だ。
殿下からの、贈り物。
珍しい香辛料。わたしの研究に役立つもの。
わたしが喜ぶものを、考えて、選んでくれた。
宝石でもなく、ドレスでもなく。
香辛料。
この人は——わたしの喜ぶものを、ちゃんと知っている。
厄介なくらいに。
頬が熱い。
火を入れる前の研究所で、わたしだけが茹で上がっている。
「リーゼさま、顔が赤いですよ?」
アリアが、出勤してきた。
「う、うん……ちょっと竈の——」
「まだ火つけてないですよね?」
「…………」
返す言葉がなかった。
わたしは香辛料の木箱を胸に抱え、作業台に額を押しつけた。
十三歳。恋愛経験ゼロ。前世を足しても、数字は増えない。
こういう時にどんな顔をすればいいのか、まったく分からない。
それでも、手は先に朝食の段取りを考えていた。
今日の殿下の朝食は、この香辛料を少しだけ使った特別な粥にしよう。
ありがたい、を一匙に溶かして。
どうか光るなと、湯気に紛れさせながら。




