【41】閑話 猫と賢者の最後の夜
百年前の話をしよう。
わしの名前は——もう忘れた。
エルヴィンがつけた名前は「ネル」だった。
由来は「ネルケ」——この世界の撫子の花だ。
「お前の灰色の毛並みが、霧の中に咲く撫子みたいだから」
くだらん理由だ。
でも、悪くない名前だと思った。
* * *
エルヴィンは、変な男だった。
平民の生まれで、魔力はほとんどゼロ。
それでいて、帝都の魔術学院に食い込み、宮廷に招かれ、ついには帝国随一の料理人と呼ばれるまでになった。
全ては、あいつの舌と手と——食材を理解する、あの異常な才能のおかげだ。
エルヴィンは食材に触れただけで、その食材の「声」が聞こえた。
どう切ってほしいか。どう火を通してほしいか。何と組み合わせてほしいか。
食材が教えてくれるのだと、あいつは笑って言った。
わしにはよく分からなかった。
わしはただの使い魔だ。契約によってエルヴィンの魔力の一部を共有しているだけの、灰色の猫。
ただし、エルヴィンの魔力はほぼゼロなので、わしが得たものも微々たるものだった。
長寿と、人の言葉を話す力。それだけだ。
でも、それだけで十分だった。
エルヴィンの隣で、あいつの料理を食べていられるなら。
* * *
エルヴィンの料理は、光った。
金色の、柔らかい光。
あいつが心を込めて作った料理は、必ず光った。
最初は誰も気にしなかった。
「エルヴィンの料理は魔法みたいだ」と、客たちは笑っていた。
だが、ある日、魔術師団の調査官が来た。
エルヴィンの料理から「既知の魔術とは異なる力」が検出されたと。
エルヴィンは正直に答えた。
自分は魔力を使っていない。ただ、食材の本質を理解しているだけだ。
その理解が、食材自身の力を引き出す。自分はそれを「エッセンス」と呼んでいる。
この発言が、あいつの運命を決めた。
魔力なしで魔法に匹敵する効果を生み出せる。
それが事実なら——魔力を持たない平民でも、エッセンスを使えるかもしれない。
貴族たちは震え上がった。
この世界の階級制度は、魔力に基づいている。
魔力の強い者が貴族となり、弱い者が平民となる。
それが千年以上続いてきた、絶対的な秩序だ。
エッセンスは、その秩序を根底から覆しかねない。
クラインヘルツ侯爵家を筆頭とする名門魔術師家が、エルヴィンの研究の「危険性」を訴えた。
帝国議会はエッセンスを「禁忌」と認定し、エルヴィンに研究の中止を命じた。
エルヴィンは従わなかった。
「食材の声を聞くことを、禁じることはできない。それは呼吸を禁じるのと同じだ」
馬鹿な男だ。
正しいことを言って、殺されるのは、いつだって馬鹿な奴だ。
* * *
逮捕の前夜。
エルヴィンは、わしのために最後の料理を作った。
焼き魚だった。
川で釣った小さなフルーレ。塩だけで焼いた、何の変哲もない焼き魚。
でも、それは——今まで食べた中で、一番美味い焼き魚だった。
金色の光が、魚の表面にうっすらと輝いていた。
「ネル。お前にだけは、本当のことを言っておく」
エルヴィンは、膝の上のわしの背中を撫でながら言った。
「わしはもう、ここから逃げられない。明日、連中が来る」
「逃げろ。わしが囮になる」
「無理だ。お前は猫だろう」
「お前の使い魔だ」
「使い魔にしては、少し太りすぎだな」
わしの尻尾が、ブワッと逆立った。
「やかましい。お前の飯が美味すぎるのが悪い」
エルヴィンは笑った。
穏やかで、少し寂しい笑い方だった。
「ネル。俺が死んだ後、お前は自由だ。契約は解除される」
「自由になんかなりたくない」
「聞け。俺の研究は、フリードリヒが密かに記録してくれている。いつか——百年後でも、二百年後でもいい。俺と同じ力を持つ者が現れたら、その者にフリードリヒの手帳を渡してくれ」
「……そんな奴が、現れるわけがないだろう」
「現れる。俺は信じている。食材の声を聞ける人間は、俺だけではない。いつか必ず、もう一人のエッセンスの使い手が現れる」
「百年も待てるか」
「待てるさ。お前は長寿だろう」
「……馬鹿め」
エルヴィンの手が、わしの頭を撫でた。
温かくて、大きくて、料理人の硬い手。
「ネル。ありがとう。俺の料理を、一番長く食べてくれた相手だ」
「……美味かったよ。ずっと、ずっと美味かった」
「そうか。よかった」
それが、エルヴィンの最後の言葉だった。
翌朝、兵士たちが来た。
エルヴィンは抵抗しなかった。
わしだけが逃げた。エルヴィンに「逃げろ」と言われたから。
三日後、エルヴィンは処刑された。
罪状は「禁忌魔法の使用」。
弁護する者は、誰もいなかった。
* * *
それから百年。
わしは待った。
エルヴィンが言った「もう一人」を。
街の厨房を覗いた。村のかまどを覗いた。貴族の食卓を覗いた。
エッセンスの気配を持つ料理人を、探し続けた。
見つからなかった。
十年。三十年。五十年。八十年。
もう駄目かもしれないと思い始めた、百年目の春。
帝都の路上で、小さな少女とすれ違った。
銀白色の髪。琥珀色の目。痩せっぽっちで、ぼんやりした顔。
何の変哲もない少女だった。
でも——その少女の周りの空気が、かすかに金色に揺れていた。
エルヴィンと同じ光だ。
わしは、追いかけた。
声をかけた。
「何だ、ただのガキか」
そう言った瞬間、少女が振り向いた。
琥珀色の目が、わしを見た。
その目に——エルヴィンの面影を見たのは、気のせいだろう。
容姿も性格も、何もかも違う。
でも、目の奥にある「食材への愛」だけは、同じだった。
* * *
百年前の、あの夜。
エルヴィンが最後に言った言葉を、わしは今でも覚えている。
「ネル。次のエッセンスの使い手は、きっと俺よりも上手くやる。俺みたいな不器用な男じゃなくて、もっと賢くて、もっと人に愛される奴がいい」
リーゼ。
お前のことだ。
お前は、エルヴィンより賢い。前世の知識とやらを持っている。
お前は、エルヴィンより不器用だ。殿下の前でモジモジしているのを見ると、イライラする。
お前は、エルヴィンより人に愛されている。殿下も、ソフィアも、マルクスも、ミーナも、フィンも、ヴェルナーも。
エルヴィンには、わししかいなかった。
だから——お前は死なせない。
百年分の後悔を、お前に繰り返させはしない。
わしの命に懸けて。
* * *
「ネルー、ごはんだよー」
リーゼの声が、厨房の窓から聞こえた。
わしは窓辺から飛び降りて、厨房に向かった。
今夜は何だ。焼き魚か。
百年ぶりに、あの味を思い出した夜から——焼き魚は、わしの一番の好物になった。
エルヴィン。
お前の後継者は、お前と同じくらい料理が上手い。
いや——もしかしたら、お前より上手いかもしれん。
悔しいか。
……きっと、喜んでいるな。お前は、そういう奴だった。




