【40】敗者の涙
料理対決の翌日。
朝四時に目が覚めた。
体は疲れ切っているのに、神経が高ぶって眠れなかった。
ネルが枕元で丸くなっていた。老猫の寝息が、静かな部屋に響いている。
昨日のことが、まだ現実とは思えない。
勝った。帝国最高の料理人に、飯と味噌汁で。
嬉しいはずだ。
でも——グスタフの背中が、頭から離れなかった。
全てを食べ終えた後の、あの沈黙。
赤い目で「明日、話がある」と言って去っていった背中。
あれは——敗者の背中だった。
二十年間積み上げてきたものを、一膳の飯に覆された男の背中。
料理人として、あの痛みが分からないわけがない。
* * *
約束の時間も場所も聞いていなかったが、グスタフは宮廷の厨房にいるだろうと思った。
早朝の宮廷は静かだ。
夜明け前の廊下を歩き、東棟の厨房に向かう。
扉を開けると——やはり、グスタフがいた。
厨房の調理台の前に、腰かけている。
その前には、小さな鍋が一つ。
グスタフはわたしに気づくと、顔を上げた。
昨日とは別人のようだった。
帝国最高の料理人としての威厳は消え、ただの疲れた中年の男がそこにいた。
「……来たか」
「おはようございます、グスタフ料理長」
「座れ」
グスタフが向かいの椅子を示した。
わたしは言われるがまま座った。
沈黙が流れた。
グスタフの前の鍋から、微かに湯気が立っている。何か作っていたらしい。
「昨夜、一晩中考えていた」
グスタフが口を開いた。その声は、低く、掠れていた。
「お前の料理を食べた時——何が起きたのか」
「……」
「あの白い穀物を噛んだ瞬間、俺は——十歳のガキに戻った」
グスタフの目が、遠くを見ていた。
「孤児院の厨房で、マルタ婆さんという賄い婦がいた。あの婆さんが作る玉ねぎのスープが、俺の人生で一番美味い料理だった」
「玉ねぎのスープ……」
「粗末なもんだ。玉ねぎとバターと塩と水。それだけだ。技術もクソもない、ただの田舎料理だ。だがな——四十年以上経った今でも、あの味を超える料理に出会ったことがない」
グスタフの声が、僅かに震えた。
「俺は——あの味を再現したくて、料理人になった」
わたしは息を呑んだ。
「マルタ婆さんのスープを、もう一度作りたかった。だから技術を磨いた。魔法を学んだ。宮廷料理人になって、最高の食材を使えるようになれば、きっとあの味が再現できると思った」
「……できなかったんですね」
「ああ。四十年間、一度もな」
グスタフが、前の鍋の蓋を開けた。
中には——玉ねぎのスープがあった。
琥珀色の、美しいスープ。プロの仕事だと一目で分かる。
「昨夜も作ってみた。同じレシピで、最高の食材を使って、魔法で完璧に仕上げて」
グスタフが匙でスープを掬い、一口飲んだ。
「——美味い。技術的には完璧だ。だが、マルタ婆さんの味じゃない。いつも、そうだ。何かが足りない。何が足りないのか、四十年間分からなかった」
グスタフがわたしを見た。
「昨日、お前の飯を食って——分かった」
「……何が、ですか」
「足りなかったのは——心だ」
その言葉が、厨房の空気を震わせた。
「マルタ婆さんは、孤児院の子供たちのためにスープを作った。金にもならない、誰に褒められるわけでもない。ただ、腹を空かせた子供たちに温かいものを食べさせたくて、毎日台所に立った」
グスタフの声が、とうとう割れた。
「俺は——いつからだ。いつから、『誰のために作るか』を忘れた。技術を追い、魔法を極め、貴族に賞賛され——その間に、料理から一番大事なものが消えた」
グスタフの手が震えていた。
「お前の飯には、あった。マルタ婆さんのスープにあったものと、同じものが。言葉にできないが——温かさだ。食べた人間を、包み込むような」
「グスタフ料理長……」
「小娘」
グスタフが——帝国最高の料理人が、わたしの目を真っ直ぐに見た。
「教えてくれ」
「え」
「俺に——お前の料理を、教えてくれ」
時間が、止まったように感じた。
五十三歳の帝国最高の料理人が。
十二歳の、魔力ゼロの少女に。
「教えてくれ」と。
その一言に込められた重みが——計り知れなかった。
プライドも、経歴も、地位も、全部捨てて。
ただ一人の料理人として、頭を下げている。
「俺の料理には、魂がない。二十年、宮廷で最高の技術を磨いてきたが——魂のない料理だった。皇帝陛下があの飯を食べて泣いた時、俺は自分の二十年間が何だったのか分からなくなった」
「そんな……グスタフ料理長の料理は——」
「慰めはいらん。事実だ」
グスタフの声は厳しかった。自分自身に対する厳しさだ。
「だが——まだ終わりにしたくない。俺はまだ料理人だ。マルタ婆さんのスープを再現する夢を、諦めたくない」
わたしの胸が、締め付けられた。
この人は——悪い人じゃなかった。
わたしを冷遇したのは、恐怖からだった。
自分の人生を否定されることへの、純粋な恐怖。
でも、その恐怖の奥に——料理への愛があった。
四十年間、マルタ婆さんのスープを追い続けた愛が。
* * *
わたしは立ち上がり、厨房の棚から玉ねぎを三つ取った。
「グスタフ料理長。一つ、作ってみてもいいですか」
「……何を」
「玉ねぎのスープです」
グスタフの目が見開かれた。
「わたしにはマルタさんの味は分かりません。でも——わたしなりの玉ねぎのスープを、作ります。それを食べて、何か感じてもらえたら」
わたしは玉ねぎの皮を剥き始めた。
魔法は使わない。使えないし、使うつもりもない。
まず、玉ねぎを薄切りにする。
包丁は、ゆっくり。急がない。
一枚一枚、丁寧に。
「料理長。玉ねぎを切る時、何を考えますか?」
「……何を、だと?」
「わたしは——食べてくれる人のことを考えます。この玉ねぎが、誰の口に入るのか。その人は今、お腹が空いているのか。疲れているのか。悲しいのか。嬉しいのか」
厚手の鍋にバターを溶かし、玉ねぎを入れる。
「火加減は弱火です。魔法で一瞬で飴色にすることもできるんでしょうけど——わたしはできないので、時間をかけます」
じわ、じわ、と玉ねぎが熱を受けて透明になっていく。
「この待つ時間が、大事なんです。玉ねぎは、急かすと苦くなる。ゆっくり、ゆっくり、甘みを引き出していく。食材のペースに合わせるんです」
グスタフは——黙って見ていた。
十分。二十分。三十分。
わたしは一時間かけて、玉ねぎを飴色にした。
その間、何度もへらで優しくかき混ぜた。焦がさないように。でも、しっかりとメイラード反応が進むように。
「ここで水を加えます。分量は——」
「手のひらで計るのか」
「はい。レシピ通りの分量より、今日の玉ねぎの水分量に合わせた方が美味しくなるので」
水を加え、塩をひとつまみ。
「塩も、味見しながら。玉ねぎの甘さとのバランスを、舌で確かめながら加えます」
ことこと、と鍋が静かに歌い始めた。
「あとは、待つだけです。三十分。鍋が歌っている間は、蓋を取らない」
「……なぜだ」
「食材が、自分のペースで美味しくなろうとしているからです。邪魔をしない。信じて待つ。それが——わたしの料理です」
三十分後。
蓋を開けると、湯気と共に——甘い、優しい香りが広がった。
琥珀色のスープ。
グスタフが作ったものと、見た目はそう変わらないかもしれない。
でも——匂いが違う。
時間をかけて引き出された、玉ねぎの深い甘みの匂い。
わたしはスープを器に注ぎ、グスタフの前に置いた。
「どうぞ」
グスタフは匙を取り、スープを掬った。
口に運んだ。
——グスタフの体が、固まった。
匙を持つ手が止まり、目が見開かれ、そして——ゆっくりと閉じられた。
長い、長い沈黙。
やがて——グスタフの目から、涙がこぼれた。
声を上げずに。
ただ、静かに。
帝国最高の料理人の頬を、涙が伝った。
「……これだ」
掠れた声。
「これが——マルタ婆さんの味だ」
「え……」
「違う。同じ味じゃない。だが——同じ温かさだ。同じ……心がある」
グスタフが二口目を飲んだ。三口目を。
涙を流しながら、止められないように飲み続けた。
わたしも——泣いていた。
目の前で、五十三歳の大男が、玉ねぎのスープを飲んで泣いている。
四十年間探し続けた味の答えに、ようやく辿り着いた人の涙だ。
その涙が——美しかった。
「小娘」
「……はい」
「教えてくれ。お前のやり方を。食材の声を聞くとか、食材のペースに合わせるとか——俺には意味が分からん。だが、この味は本物だ。俺の四十年を費やしても辿り着けなかった場所に、お前は簡単に立っている」
「簡単じゃないですよ。わたしも——いっぱい失敗して、ここまで来ました」
「……そうか」
「グスタフ料理長」
「グスタフでいい。料理長は——お前に敬語を使われると、居心地が悪い」
わたしは小さく笑った。
「じゃあ、グスタフさん。教えるなんて大げさなことはできません。でも——一緒に作ることはできます」
「一緒に?」
「はい。わたしも、グスタフさんから学びたいことがたくさんあります。宮廷料理の作法も、大人数への提供方法も、食材の目利きも。わたしが教わることの方が多いくらいです」
グスタフは——困惑した顔をしていた。
「俺は、お前をいじめた」
「知ってます」
「床掃除を押しつけ、端材を押しつけ、まともに料理をさせなかった」
「おかげで厨房の構造を完璧に覚えましたし、端材料理のレパートリーも増えました。結果的に勉強になりましたよ」
「……お前は、怒らないのか」
「怒ってましたよ。最初の三日間くらいは」
グスタフが力なく笑った。
この人が笑うのを、わたしは初めて見た。
「三日で収まるのか」
「料理を作っていると、怒りを忘れるんです。食材に集中していると、余計なことを考えなくなる」
「……それは、分かる」
グスタフが頷いた。
料理人同士にしか分からない、共感。
厨房に立つ人間だけが知っている、あの没入感。
「では——明日から」
「はい」
「朝五時。ここに来い。俺が——いや。一緒に、玉ねぎの皮を剥くところから始めよう」
「はい、グスタフさん」
* * *
グスタフが厨房を出た後、わたしは一人で片付けをした。
玉ねぎのスープの鍋を洗いながら、さっきのことを思い返す。
敵だと思っていた人が、涙を見せた。
傲慢だと思っていた人が、頭を下げた。
人は、変われる。
料理には、人を変える力がある。
ネルが棚の上から降りてきた。
「見ていたぞ」
「ネル、いたの?」
「最初から最後まで。いい場面だった」
「……泣いてたでしょ」
「わしは猫だ。猫は泣かん」
ネルの目が赤いのは、気のせいということにしておこう。
「リーゼ。お前は——エルヴィンに似ているな」
「エルヴィンに?」
「あいつも、敵を味方に変える力があった。料理で人の心を開く力が。だが——」
ネルの声が、少し沈んだ。
「エルヴィンは、ディートリヒの心を開けなかった。親友だと信じた相手の、闇の部分を見抜けなかった。それが、あいつの命取りになった」
「……ネル」
「お前は、違う道を歩け。人を信じることは大事だ。だが、目を曇らせるな」
ネルの言葉は、いつものように厳しくて、いつものように温かかった。
「分かった。肝に銘じるよ」
「よし。では——今日の分のスープ、わしにもくれ」
「猫もスープ飲むの?」
「わしを普通の猫と一緒にするな」
小さな器にスープを注ぐと、ネルはぺろぺろと舐め始めた。
「……美味いな」
「ありがとう」
「エルヴィンの味に、似ている」
ネルはそれ以上何も言わなかった。
わたしは鍋を片付けながら、明日からのことを考えた。
グスタフという、思いがけない味方ができた。
帝国最高の料理人が、わたしと一緒に玉ねぎを剥く。
滑稽なようで——これ以上心強いことはない。
宮廷の厨房は、もう戦場じゃない。
敵のいない厨房は——ただの、台所だ。
美味しいものを作る、温かい場所。
窓から朝日が差し込んできた。
宮廷の新しい一日が、始まろうとしている。
明日の朝五時。
わたしと帝国最高の料理人は、玉ねぎの皮を剥くところから始める。
全ては——そこからだ。




