【39】料理対決(後編)
審査は、グスタフの皿から始まった。
十名の審査員と皇帝陛下の前へ、五品のフルコースが運ばれる。
広間の灯りを受けて、魔法料理の霜や光がきらりと返った。
一皿目は、海の幸のカルパッチョ。
審査員のひとりが、銀の匙を差し入れ、口元へ運んだ。
「……素晴らしい。鮮度がまったく落ちていない。口の中で氷の結晶がほどけた瞬間、海の旨味が広がる」
「魔法の扱いが見事だ。瞬間凍結の温度制御など、並の魔術師では手も届かん」
ポタージュでは、匙を沈めた審査員が眉を上げた。
「滑らかさが尋常ではない。舌の上で消える。キノコの風味が七層に重なっているぞ」
魚料理、肉料理。皿が下げられるたび、審査員たちの声は熱を帯びていった。
「完璧だ」
「帝国料理の最高峰だな」
「これ以上の料理が存在するのか、疑わしくなる」
最後のデザートの皿が空になる頃には、拍手が惜しみなく降っていた。
グスタフは表情を動かさない。ただ、伏せた睫毛の奥に揺るぎない自信があった。
技術で到達できる完璧。彼はそれを、迷いなく置いてきた。
* * *
次は、わたしの番だ。
審査員の前に、わたしの料理が並べられた。
白い飯の湯気。味噌汁の椀。皮目を焦がした焼き魚。小鉢の漬物。
広間の空気が、ひと息で冷えた。
審査員たちの顔に、困惑がにじむ。
「これは……何だ?」
「この白い粒は穀物か。パンではなく?」
「スープのようなものに……何か茶色い塊が浮いているが」
「焼き魚は分かる。分かるが……随分と質素だな」
ざわめきに、明らかな失望の色が混じった。
グスタフの華麗な五品の後で、わたしの四品はあまりに地味だ。
比べるまでもない。そんな目が、こちらを値踏みしている。
エレナ殿下の表情も、かすかに曇っていた。
カイゼル殿下は表情を消したまま、わたしの料理から目を離さない。
ソフィアが客席で拳を握り締めている。爪の先が白く見えた。
「では、ご試食ください」
自分の声が、広間の天井に当たって返ってくる気がした。
審査員たちは顔を見合わせ、味噌汁の椀へ手を伸ばした。
椀を持ち上げ、鼻先で湯気を吸う。口元へ。
一人目の審査員が、ひと口すすった。
「……ん?」
匙が止まった。
「何だ、これは。この……味は」
二人目が椀に口をつけた。
「温かい。腹の奥まで来る。この出汁は何だ? 海藻と……魚か? こんな組み合わせは初めてだが、旨味が深い」
「発酵した豆……? 癖はある。だが出汁と合わさると、角が取れるな」
三人目は椀を置き、白い飯をまじまじと眺めた。
「この白い穀物も食べるのか?」
「はい。そのまま召し上がってください」
審査員は匙の縁で飯を崩し、おそるおそる口へ入れた。
場が黙る。
噛む音さえ聞こえそうな、長い間。
「……甘い」
「穀物が甘い? 調味料は?」
「入れていません。穀物そのものの味です」
「嘘だろう。噛むほどに味が出てくる。こんな穀物があるのか。これは……」
審査員たちの手が止まらなくなった。
飯を含み、味噌汁をすする。喉を通ると、また飯に戻る。
誰かがそうしろと教えたわけではないのに、椀と皿のあいだを匙が行き来していた。
白い飯の甘みが、味噌汁の塩気と出汁を受け止める。口を替えるたび、どちらも新しくなる。
前世の台所では当たり前すぎた組み合わせが、ここでは審査員たちの手を勝手に動かしていた。
「焼き魚も、どうぞ」
審査員のひとりが、箸のない文化で持て余しながら、フォークの先で魚の身を押し割った。白い身から湯気と脂がにじみ、塩の香りが立つ。
「……簡素だな。塩だけか。なのに、魚の味が前に出る」
「表面は香ばしく、中は崩れるほど柔らかい。これは炭火か? 魔法の炎ではなく?」
「はい。炭火で焼いています」
「信じられない。魔法なしで、この焼き加減……」
小鉢の漬物に手が伸びた。
「これは、野菜の塩漬けか?」
「発酵させたものです。三日間、自然の乳酸菌で」
パリッ。
静かな広間で、その音だけが跳ねた。
「酸味がある。だが不快ではない。むしろ口の中がさっぱりする。飯と一緒に食べると……」
審査員は漬物と飯を、夢中で口へ運び始めた。
止まらない。
箸を知らない審査員たちが、フォークと匙で皿を追っている。
袖口が器に触れそうになっても気づかない。背筋も、礼法も、今だけどこかへ置いてきたみたいに。
美味しいものは、作法の隙間から人を引っ張り出す。
* * *
皇帝陛下の番が来た。
御付きの者が、わたしの料理を陛下の前へ運ぶ。
毒見役が先に一口ずつ確認した後、陛下に提供される。
皇帝陛下は、飯の器を見下ろした。
白いつやを帯びた粒が、互いに寄り添っている。
湯気は細くなっていたが、器の中にはまだ温かさが残っていた。
陛下が匙で飯を掬い、口に運んだ。
噛む。
一度、また一度。
皇帝陛下の手が止まった。
広間のざわめきが切れ、しんと落ちる。
陛下は目を閉じた。
深い皺の間に、押し込めていたものが浮かんでいる。
怒りか。不快か。いや、違う。
皇帝陛下の目の端から、一筋の涙がこぼれた。
「陛下!?」
椅子が鳴り、周囲が騒然となった。皇帝が泣いている。料理を食べて、泣いている。
陛下は片手を上げ、騒ぎを制した。
味噌汁を飲み、焼き魚に匙を入れ、漬物を噛む。
そのまま、また飯へ戻る。
ひと口ごとに顎を動かし、喉を通すたび、陛下の肩から力が抜けていった。
全てを食べ終えると、陛下は長く息を吐いた。
「……リーゼ・ヴァイスフェルトと申したな」
「は、はい」
「この料理は、朕の祖母を思い出させる」
広間がざわめいた。
「朕が幼い頃。まだ皇太孫として宮殿の奥に閉じ込められていた時分だ。夜中に腹を空かせてな。祖母が自ら厨房に立ち、何かを食べさせてくれたことがある」
陛下の声は、奥でかすれていた。
「あの時の料理が何だったか、もう覚えておらん。だが温かかった。祖母の手が作った料理は、世界で一番温かかった」
陛下がわたしを見た。
「この飯を食べた途端、あの夜の温かさが蘇った」
エッセンスではない。
わたしは、エッセンスを使っていない。
ネルとの約束通り、金色の光は一切込めていない。
それでも米を研ぐ指先には、前世の祖母の手つきが残っていた。
味噌を溶く湯気の向こうに、前世の母の台所があった。
焼き魚の煙を嗅いだ時、前世の朝の食卓が戻ってきた。
魔法ではなく、手の癖や息づかいとして。
わたしの記憶が、少しだけ料理に移ったのかもしれない。
それが、食べた人の中にある別の記憶を呼び覚ました。
陛下の胸には祖母の手料理が戻り、審査員たちの顔にも、それぞれの台所や故郷の食卓がちらついている。
「心の料理」。
掲げられたテーマが、皿の上で湯気を立てていた。
「陛下。審査の結論をお願いいたします」
エレナ殿下が静かに促した。
皇帝陛下は背筋を正し、広間を見渡した。
「グスタフの料理は、見事であった。技術の極致と言える。帝国料理の誇りだ」
グスタフが深く頭を下げた。
「だが」
陛下の声が、一段低くなった。
「リーゼの料理は、朕の心を動かした。技術ではない。華やかさでもない。ただ、温かかった。七十年以上の人生で忘れていた記憶を、一膳の飯が蘇らせた」
陛下がわたしを見た。
「審査員の意見を聞こう。グスタフの料理と、リーゼの料理。心に深く触れたのは、どちらか」
十名の審査員が、順番に口を開いた。
「……リーゼの料理です」
「私も、リーゼ嬢に」
「グスタフ殿の料理は完璧でした。しかし……あの飯を食べた時の感覚は、言葉にできません」
「故郷を思い出しました。三十年帰っていない故郷の……母の味を」
「リーゼだ」
「同じく」
「リーゼ嬢を推します」
「グスタフ殿には敬意を表します。けれど、心を動かされたのはリーゼ嬢の料理です」
「リーゼ」
「……リーゼ嬢」
十名中、十名。
全員一致。わたしの勝ちだった。
「リーゼ・ヴァイスフェルト。本対決の勝者は、お前だ」
皇帝陛下の宣言が、広間に響いた。
拍手が起こった。ぽつり、ぽつりと。やがて広間の天井を打つほど大きくなる。
ソフィアは客席で泣いていた。フィンさんは目頭を指で押さえている。
カイゼル殿下は表情を消したまま、手のひらを合わせていた。遅く、確かに。
わたしは膝が震えて、立っていられなかった。
勝った。
勝ってしまった。
帝国最高の料理人に。
飯と味噌汁と焼き魚と漬物で。
前世の日本の、何の変哲もない家庭料理で。
* * *
対決が終わった後、グスタフは自分の調理台の前から動かなかった。
審査員たちが広間を去り、片付けの布巾や皿の音があちこちで鳴っても、彼だけはそこに立っていた。
やがて、グスタフはわたしの調理台へ歩み寄った。
残っていた飯を、匙で一口掬い、口に入れた。
噛んだ。
黙って、噛んだ。
グスタフの表情が崩れた。
磨き上げた無表情に、細いひびが走る。砂の城が風に削られるみたいに、静かに。
何も言わなかった。
ただ、二口目を掬った。三口目も。
味噌汁も飲んだ。冷めかけていたのに、椀を空にした。
焼き魚も、漬物も、残さなかった。
食べ終えると、グスタフは空になった器を長いあいだ見つめていた。
わたしは声をかけられなかった。
あの背中に、何と言えばいいのか分からなかった。
グスタフが振り向いた時、その目は赤かった。
「……明日、話がある」
それだけ言って、帝国最高の料理人は広間を去っていった。




