【22】手帳に記された禁断のレシピ
エルヴィンの友人フリードリヒが遺した手帳。
わたしはその日から、毎晩寝る前にページをめくるようになった。
百年前の筆記体は読みにくかったけれど、ソフィアさまに手伝ってもらいながら(古語の読解は彼女の専門だった)、少しずつ解読を進めていった。
そこに記されていたのは——まさに、わたしが求めていた知識だった。
* * *
手帳の内容を要約すると、こうだ。
■エッセンス理論の基礎■
第一原理:すべての物質には「本質」がある。
第二原理:本質を理解した者は、物質に働きかけることができる。
第三原理:この働きかけは、魔力を必要としない。
これだけ聞くと、抽象的でよく分からない。
でも、フリードリヒは具体例を記してくれていた。
『エルヴィンが林檎を手に取った時、彼は林檎の中にある糖の配列を「見た」と言った。彼はそれを指先で触れるように操作し、酸味を甘味に変えた。魔力は一切使っていない。ただ、理解しただけだ。』
糖の配列。
前世の言葉で言えば、糖の分子構造だ。
フルクトースとグルコースのバランスを変えれば、同じ果実でも酸味と甘味の比率は変わる。
それを——「理解するだけで」変えられる?
「ネル、これって……」
「あぁ。エルヴィンにはそれができた。食材の本質を『見る』ことができた」
「見る? 肉眼で?」
「心の目で、と言った方が近い。お前が食材の性質を頭で理解するように、エルヴィンは直感で『見た』のだ。やり方は違うが、結果は同じだ」
わたしの場合は前世の科学知識がある。だから、食材の分子レベルの構造を「知識として理解」している。
エルヴィンの場合は、それを天才的な直感で「感覚として把握」していた。
アプローチは違うけれど、到達点は同じ——食材の本質の理解。
そして、その理解が深ければ深いほど、エッセンスは強くなる。
「手帳には、エルヴィンが開発したレシピも記されているんだけど……」
わたしはページをめくった。
そこには、普通のレシピとは全く異なるものが記されていた。
『記憶のスープ』——飲んだ者の最も幸福な記憶を呼び起こす。
『安眠のパン』——食べた者に深い安らぎの眠りを与える。
『勇気の燻製肉』——食べた者の恐怖を和らげ、勇気を与える。
料理が、人の心に直接働きかける。
それは——もはや料理の範疇を超えている。
「これ……魔法じゃなくて、もっと根源的な何かだよね」
「そうだ。エルヴィンはこう言っていた。『食は命そのものだ。命を理解する者は、命に語りかけることができる』と」
命に語りかける。
大げさな言葉だけれど、考えてみれば当然だ。
人間が生きるためには食べなければならない。食物は体内に取り込まれ、血肉になり、エネルギーになり、生命を維持する。
食は——生命の一部なのだ。
だからこそ、食の本質を理解する者の料理は、食べた者の生命に直接響く。
「ネル。わたし、試してみたいことがある」
「何だ」
「『記憶のスープ』。これを再現できるかどうか」
ネルが怪訝な顔をした。
「レシピの再現は難しいぞ。エルヴィンの時代と今では、食材の品種が変わっている可能性が高い。同じ材料が手に入るとは限らん」
「品種が違っても、化学組成が近いものを探せばいい。前世の知識があるから、成分分析はできる……たぶん」
「たぶんか」
「やってみないと分からないでしょ」
ネルは呆れたように尻尾を振った。でも、止めはしなかった。
* * *
翌日の放課後。
わたしは厨房の隅で、こっそり実験を始めた。
『記憶のスープ』のレシピは、三つの食材で構成されていた。
一つ、「涙の根」——食べると涙が出る根菜。おそらく玉ねぎの一種。
二つ、「銀月草」——月明かりの下で採れる薬草。鎮静作用がある。
三つ、「竜の骨粉」——竜の骨を砕いた粉。魔力の触媒。
一つ目は、ゼーベル(この世界の玉ねぎ)で代用できそうだ。涙が出るのは硫化アリル系の揮発成分だから、同じ効果は得られる。
二つ目は、学院の薬草園に似たような薬草がないか探してみよう。鎮静作用のある植物は多い。
三つ目が問題だ。竜の骨粉なんて、どこで手に入るのか。
「ネル、竜の骨粉って……」
「あの小僧に頼め」
「あの小僧って、殿下のこと?」
「皇族なら竜の素材くらい手に入るだろう」
確かにそうだけれど、「竜の骨粉をください」なんて、どう頼めば……。
* * *
夕食をカイゼル殿下に届けた時。
いつものように無言で食べ始める殿下の前で、わたしはもじもじしていた。
「……何だ」
「えっ、あ、いえ」
「用があるなら言え。食事中にもじもじされると落ち着かない」
落ち着かない、と言いながら殿下はもぐもぐ食べ続けている。
最近は、わたしの前では食べるのに抵抗がなくなったらしい。少しだけ、嬉しい。
「あの……殿下。お願いがあるんですが」
「何だ」
「竜の骨粉を……少しだけ、分けていただけないでしょうか」
カイゼル殿下の匙が止まった。
「竜の骨粉?」
「はい。調味料として使いたいんです」
嘘は言っていない。レシピの材料だ。調味料の一部と言えなくもない。
殿下は碧眼でわたしをじっと見つめた。
嘘を見抜こうとしているのか、ただ考えているのか。
「……調味料に竜の骨粉を使う料理人は初めてだ」
「わたしも初めて使います」
「何を作るつもりだ」
「まだ分かりません。でも、きっと美味しいものができると思います」
殿下は三秒ほど沈黙した後、フィンに目配せをした。
「フィン。竜素材の保管庫から、骨粉を少量取ってこい」
「かしこまりました」
こんなにあっさり。
「あ、ありがとうございます! 殿下!」
「次の食事に期待する」
それだけ言って、殿下はまた黙々と食べ始めた。
……プレッシャーだなぁ。
でも、嬉しい。
「期待する」。殿下がわたしの料理に期待してくれている。
それだけで、頑張れる。
厨房に戻ると、ネルが鍋の上に座っていた。
「もらえたのか」
「うん。殿下、案外あっさりくれた」
「あの小僧、お前に甘いな」
「甘い? いつも怖い顔してるけど」
「甘いから怖い顔をしているのだ。照れ隠しだ」
「……それは、ないと思う」
ネルは「にゃぁ」と、やけに人間くさい溜息をついた。
まぁ、とにかく。
材料は揃いつつある。
百年前の禁断のレシピ——『記憶のスープ』の再現実験。
料理人として、科学者として。
わたしの挑戦が、始まる。




