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【21】ヴェルナー教授の秘密の書架

 リヒト粒は、南の港から樽で入ってくる細長い米だ。

 帝国では病人の粥にしか使われない。だから学院の食料庫でも、小麦の棚ではなく薬草の棚の隣に置かれている。


 朝の五時。研いだリヒト粒を大鍋に入れ、水を張る。まだ胃の弱い生徒の分は、米一に水十。

 米の澱粉は、水と一緒に温めると糊になる。糊になった澱粉は、弱った胃でも崩しやすい。前世の病院食の手引きには、同じことが三行で書いてあった。三行を守るのに、鍋の前で一時間かかる。


 木べらで鍋底を一の字にさらう。焦げは、いつも見ていない場所から来る。


 湯気の奥で、ちらりと金色がのぞいた。

 わたしは蓋をした。


 見なかったことにする技術だけが、最近やけに上達している。



 * * *



 作業台の端では、殿下が立ったまま椀を持っている。


 三日前の夜、殿下は自分の粥の椀を持って厨房の裏口に現れた。後ろのフィンさんは、なぜか水の杯を持っていた。

「ここで食う」

 それだけ言って、まかないの輪の端に立った。


 マルクスさんは黙って丸椅子を一脚出した。

 殿下は座らなかった。わたしたちが全員、立って食べていたからだ。

 マルクスさんは黙って丸椅子を片付けた。


 それ以来、朝と夜、作業台の端がひとつ埋まっている。

 ゲルトさんは最初の二日、匙を落とした。三日目は落とさなかった。人間は慣れる。


「今朝のは、鶏か」


「はい。回復食の組は米だけです。殿下の分は、鶏の骨でとった出汁で炊いてます」


 殿下は小さく頷いて、また黙った。杯の縁に、霜はできていなかった。



 * * *



 二限は魔術理論概論だった。


 ヴェルナー教授のチョークは今日も容赦がなく、黒板は矢印で埋まり、教授の右袖はいつも通り白かった。

 わたしは一言も発さず、ノートの行だけを増やした。先月の失敗は、まだ耳の後ろに熱として残っている。


 終業の鐘が鳴った。


「ヴァイスフェルト。少し残りたまえ」


 筆箱を閉じかけた手が止まる。隣でミーナが「え、また何かしたの」という顔をした。していない。今日は、たぶん。


 学生が全員出ていくのを、教授は教壇の上から待った。

 最後の足音が廊下に消えると、丸眼鏡を外し、布で拭いた。


「食中毒のあと、三日目の昼だったかね。配膳口で、粥の椀がひとつ光るのを見た」


 息が止まった。


「それから、先月の君の問いも覚えている。魔力とは別の触媒が存在する可能性は、ないのか」


 教授は眼鏡をかけ直した。


「教壇の上では、ああ答えるしかなかった。……少し、上まで来てくれるかね。見せたいものがある」


 マルクスさんの声が、頭の奥で鳴った。この厨房の外で、見せるな。

 けれど、もう見られている。


 わたしは頷いた。



 * * *



 教授の研究室は、東棟の最上階にあった。


 螺旋階段は長く、教授の柔らかい室内履きはゆっくりしか上がらない。わたしはその歩幅に合わせて、一段ずつ上った。


 扉を開けた途端、乾いた紙とインクと古い革の匂いが押し寄せた。

 壁一面の書架。床から生えた本の塔。机の上は、開いたままの本が地層になっている。


 入ってすぐ、わたしの鞄の角が塔のひとつに触れた。

 塔が傾く。

 教授は振り返りもせずに片手で押さえた。


「三十年この部屋にいると、どの山がいつ崩れるか分かるようになる。妻には、崩れる前に片付けろと言われるがね」


 緑の笠のランプに火を入れると、教授は窓際の隅へ行った。

 書架に挟まれて、ひときわ古い細身の戸棚がある。教授は膝を軋ませてしゃがみ、真鍮の小さな鍵を回した。


 かちり、と乾いた音。


 中には、色褪せたリボンで束ねた封筒の山と、一冊の手帳があった。

 黒ずんだ革の表紙は、角がひび割れている。


「私の曾祖父、フリードリヒのものだ」


 教授は封筒の束から、一通を抜いた。

 黄ばんだ紙に、大きくて癖のある字が走っている。書き出しは、『友 フリードリヒへ』。


「曾祖父は学生の頃から、下町の食堂に通い詰めていた。そこの料理人が、エルヴィン・ラウだ。曾祖父は彼の親友で、彼の研究を誰より早く信じた男だった」


 教授は、もう一通を開いた。折り目が擦り切れて、布のように柔らかい。


『いつか、わしの後に続く者が現れるだろう。その時は――どうか、見守ってやってくれ。お前にしか頼めない』


「告発の直前に届いた、最後の一通だ」


 教授の指が、少しだけ震えていた。


「曾祖父は、果たせなかった。エルヴィンが裁かれた時、何もできなかった。死ぬまで、それを悔いていたそうだ。……わしもな。教壇の上で、君の問いを切り捨てた。同じことを、ひ孫がやったわけだ」


 教授は手帳を両手で持ち上げ、わたしの前に置いた。


「リーゼさん」


 初めて、名前で呼ばれた。


「これを君に預けたい。ただし、条件がある。百年前、曾祖父は何もできなかった。私は同じことを繰り返すつもりはない。だから、預け方にもこだわらせてもらう」



 * * *



「ひとつ。この手帳は、君の部屋から出さない。読むのも、写すのも、君の部屋の中だけだ」


「はい」


「ふたつ。読んで分かったこと、試して分かったことは、すべて私に話すこと。私が記録する。今日から、君と私は共同研究者だ」


 共同研究者。

 前世の研究室の、インクの滲んだ実験ノートが目の裏をよぎった。条件を書く。結果を書く。失敗も書く。それを読む誰かがいる。

 胸の奥で、何かがはっきり弾んだ。


「みっつ」


 教授の声が低くなった。


「自分が何を抱えるのかを、知っておくこと」


 教授は手帳の後ろのほうを開き、余白を指で示した。

 料理の手順の横に、細い字で書き込みがある。フリードリヒの字だろう。几帳面で、途中から乱れていた。


『帝暦八百七十五年刈月八日。魔術評議会、エルヴィンの術を異端と断ず。議長クラインヘルツ侯、自ら告発状に署名す。私は傍聴席にいた。何も言えなかった』


「帝国魔術法第七十三条。食材の本質に働きかける術の行使と、その伝授を禁ずる。百年前に定められて、一度も改められていない。この手帳は、燃やせと命じられた紙の燃え残りだ。見つかれば、君は退学では済まん。私もな」


 わたしは余白の一行から目を離せなかった。


 クラインヘルツ。


 ソフィアの顔が浮かんだ。夕焼けの部屋で、二人で抱えましょうと言った声。片方が落としたら、もう片方が拾うの。

 ソフィアは、自分の家の記録を何度も読んで、抜け落ちた行を探していた。その抜け落ちた行が、今、わたしの目の前にある。


「教授。この手帳のこと、話したい人がいます」


「クラインヘルツの令嬢かね」


 わたしは顔を上げた。


「先月、教室で君をかばった子だろう。クレメンツの『魔術辺境論』に、第七章はない。あの本は六章で終わっている」


「……え」


「私も話を合わせた。教授が学生の嘘に乗るのは、あまり褒められたことではないがね」


 教授は少しだけ笑って、すぐにその笑みをしまった。


「教授に嘘をついてまで、友を守れる子だ。立派なことだと思う。だが、あの家の跡取りに、燃え残りの紙がここにあると知らせるかどうか。それは私には決められん。今夜の君にも、決められんだろう」


 返事ができなかった。


「決まるまでは、話さない。それを約束してくれるかね」


 手帳の革は、ランプの熱で少し温まっていた。

 わたしは長いこと黙ってから、頷いた。


「……約束します」


「では」


 教授は封筒の束を戸棚に戻し、鍵をかけた。


「最初の報告は、次の日曜に聞こう。リーゼ君」


 呼び方が、もう変わっていた。



 * * *



 手帳は前掛けで二重に包んで、鞄の底に入れた。

 東棟の螺旋階段を下りきったところで、廊下の向こうから淡い金色の髪が歩いてきた。


「リーゼ」


 ソフィアだった。本を三冊、胸に抱えている。


「ヴェルナー教授に残されていたでしょう。廊下から見えたわ。あなたと教授だけ、教室に残っていたの。何の話?」


 鞄の底が、急に重くなった気がした。


「先月の授業のこと。また、ちょっと」


「叱られたの?」


「……うん。授業中の発言は考えてからにしたまえ、って」


 口から出たのは、先月教授に言われた言葉だった。本当のことを、少しだけずらして並べる。前世の学会でも、こういう答え方をする人はいた。わたしはその人たちが嫌いだった。


「だから、疑問は紙で渡してと言ったのに」


 ソフィアは呆れた顔で、わたしの額を指先で軽く押した。


「明日の研究会、忘れないでね。前回のデータ、全部あなたのクッキーに食べられてしまったんだから」


「食べたのはソフィアだよ」


「被験者の責任ではないわ」


 ソフィアは笑って、一般寮のほうへ歩いていった。

 その背中が角を曲がるまで、わたしは鞄の紐を握ったまま動けなかった。


 嘘の味は、思っていたより薄かった。薄いから、いつまでも舌に残った。



 * * *



 地下一号室に戻ると、ミーナは風呂に行っていて、窓辺にネルだけがいた。


 わたしは机に手帳を置き、表紙をめくった。

 見返しの右下に、小さな署名がある。


 『フリードリヒ』


 ネルの動きが止まった。

 尻尾が止まり、耳が止まり、首輪の鈴が鳴らなくなった。蝋燭の芯が燃える音まで聞こえた。


「……エルヴィンの友人の名前だ」


 ネルの声は、いつもより低くて、かすれていた。


「眼鏡の若造でな。毎晩、あいつの鍋を覗きこんでは、何か書いておった。わしの尻尾を踏んだことが、三回ある」


「ネル」


「百年前、あいつに頼まれたことがある。この手帳が、いつか来る者に届くよう、見ておけと」


 ネルは窓辺から降りて、机に上がった。手帳の角に、鼻先を一度だけ近づける。


「わしは見ておらなんだ。見ておらんうちに、届いておった」


 しばらく、どちらも喋らなかった。


「リーゼ。読め。全部読め」


 わたしは手帳の表紙に手を置いた。

 かすかに、温かかった。

 蝋燭からは遠い。ランプの熱は、階段を下りるあいだに冷めたはずだった。火を落としてから何時間も経った鍋蓋みたいな、奥のほうに残る温かさだった。


 一頁目を開く。

 細い字で、下町の食堂の献立が並んでいた。黒パン、豆のスープ、焼いた川魚。その横に、フリードリヒの字で『今夜、スープが光った』。


 指先が、勝手に次の頁をめくりたがった。


 その前に、机の端の自分の手帖が目に入った。明日の欄に、自分の字でこう書いてある。


 『放課後 ソフィアの部屋 研究会。クッキー多め』


 わたしは自分の手帖を、裏返して置いた。


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