【20】閑話 氷の皇子は独りで食べない
カイゼル・フォン・アステリアにとって、食事は罰に等しかった。
物心ついた頃から、世界は味に溢れていた。
溢れすぎていた。
パンの焦げた匂いが鼻を突く。スープの塩気が舌を焼く。肉の脂が口の中でぬるりと広がる度に、胃が拒絶する。
果物の酸味は針のように刺し、菓子の甘みは喉を塞ぐ。
他の人間が「美味しい」と笑って食べるものが、カイゼルには苦痛だった。
なぜ自分だけが、こうなのか。
幼い頃は、その理由すら分からなかった。
* * *
八歳の時のことを、カイゼルは今でも覚えている。
帝国大広間で開かれた秋の大宴。
皇族の子女として、出席は義務だった。
長いテーブルに並ぶ、豪華な料理の数々。
宮廷料理人が腕を振るった、帝国最高峰の美食。
大人たちはワインを傾けながら歓談し、他の皇族の子供たちは嬉しそうに料理を頬張っている。
カイゼルは——何も食べられなかった。
宮廷の料理は、味が強い。
香辛料をふんだんに使い、魔法で風味を増幅させた料理は、一般的な味覚の持ち主にとっては最高の贅沢だ。
しかし、カイゼルの過敏な舌には、それは暴力だった。
一口。ほんの一口だけ、ローストされた鶏肉を口に入れた。
苦い。辛い。熱い。
胡椒が舌を焼き、ローズマリーの香りが脳を殴り、メイラード反応の焦げ臭さが喉の奥をえぐった。
——吐き出した。
テーブルの上に、噛みかけの肉が転がった。
周囲の大人たちが振り返る。皇族の子供が、料理を吐き出した。
ざわめきと、嘲りと、困惑が入り混じった視線が、八歳の少年に降り注ぐ。
「第二皇子殿下、お行儀が——」
「まぁ、子供ですから……」
「しかし、皇族の宴席で……」
恥ずかしかった。悔しかった。
自分が壊れているのだと、この時はっきり理解した。
席を立って、広間の隅に逃げた。
柱の影に隠れて、唇を噛んだ。泣くまいと思った。皇族は泣かない。父上がそう言っていた。
でも、涙は止まらなかった。
「カイゼル」
温かい手が、肩に触れた。
母だった。
第二妃エリーザベト。穏やかな笑みを絶やさない、優しい人。
長い銀髪がカイゼルの頬に触れて、花の匂いがした。
母の匂いだけは——不思議と、不快ではなかった。
「おかあさま。ぼく、たべられない。みんなたべてるのに、ぼくだけ——」
「いいのよ」
エリーザベトがカイゼルを抱きしめた。
小さな体が、母の温もりに包まれる。
「あなたが悪いんじゃない。あなたの舌は、他の人より敏感なだけ。それは恥じることじゃないわ」
「でも、ぼく、おいしいって、わからない。みんながおいしいって言うものが、ぼくにはいたい」
エリーザベトの腕に力がこもった。
「……ごめんなさい、カイゼル。母さまにも、あなたに合うものを作ってあげられなくて」
母の声が震えていた。
エリーザベトは体が弱く、料理などできる状態ではなかった。それでも、我が子に「美味しい」を教えてやれないことを、この人は悔やんでいた。
翌年の冬、エリーザベトは病で世を去った。
最後の夜。
薄い指がカイゼルの手を握り、かすれた声が言った。
「いつか……あなたに、おいしいものを作ってあげたかった」
それが、母の最後の言葉になった。
カイゼルは、母の手を握ったまま、泣かなかった。
もう泣かないと決めていた。
「美味しい」の意味を知らないまま、カイゼルは成長した。
食事は義務になった。生きるために必要な最低限の栄養を、機械的に摂取する作業。
味は関係ない。どうせ何を食べても不快なのだ。ならば、味覚を殺して、ただ飲み込めばいい。
宮廷の料理人たちは代わる代わるカイゼルの食事を担当したが、誰一人として、彼が「完食」する料理を作れなかった。
三口食べれば上出来。一口で止まることも珍しくない。
やがて、料理人たちは諦めた。
カイゼル殿下は味が分からない。
氷の魔力が味覚を狂わせている。
何を出しても同じだ。
——それが、宮廷の定説になった。
味が分からない。
その言い方は、少し違う。
分かりすぎるのだ。
あらゆる味が、鮮明すぎるほど分かる。分かりすぎて、脳が処理しきれない。他人にとっての「美味しい」が、カイゼルにとっては情報過多の暴風だった。
でも、そんなことを説明しても理解されない。
だから、黙っていた。
味が分からない殿下。
食事を残す殿下。
何を食べても表情を変えない殿下。
氷の皇子。
その名は、剣の腕前だけでなく——食卓での孤独にも、よく似合っていた。
* * *
あの白い粥を食べた日のことを、カイゼルは克明に覚えている。
白い椀に盛られた、何の変哲もない粥。
見た目は質素だった。宮廷料理とは比べものにならないほど、簡素な食べ物。
匙ですくって、口に運んだ。
——静寂が、あった。
それが、カイゼルの最初の感想だった。
いつもの暴風がない。苦味も辛味も酸味も、舌を刺す刺激が何一つない。
代わりにあったのは、限りなく穏やかな旨味だった。
鶏骨の清らかなスープ。芋のまろやかな甘み。塩の、ほんのわずかな輪郭。
それだけ。
それだけのものが、口の中でひっそりと、けれど確かに広がった。
これが——「美味しい」か。
十年間、言葉でしか知らなかったものが、舌の上に在った。
二口目を食べた。もっと味わいたくて。
三口目。四口目。匙が止まらなかった。
空になった椀を見下ろした時、カイゼルの胸に去来したのは——怒りだった。
何に対する怒りか。
十年間、宮廷の誰もこの程度のことができなかったことへの怒りか。
それとも、たかが粥一杯で心が揺れる自分への怒りか。
「——これを作った者は誰だ」
声に出した時、自分でも驚いた。
食べ物について、自分から尋ねたのは初めてだった。
* * *
リーゼ・ヴァイスフェルト。
十二歳。辺境伯領出身。魔力測定不能。実務奨学生。厨房配属。
調書に書かれた情報は、それだけだった。
何の変哲もない、平凡な——いや、平凡以下の経歴の少女。
しかし、あの少女が作る料理は、カイゼルの十年間を覆した。
朝食。昼食。夕食。
毎食、リーゼの料理を食べるようになって、カイゼルの世界は変わり始めた。
パンが柔らかいことを知った。
魚が美味しいと思えることを知った。
スープを全部飲み干したいと思える日が来ることを知った。
食事が苦痛ではなくなった。
いつからか、次の食事が楽しみですらあった。
それは、カイゼルにとって革命だった。
十年間、食卓は刑場だった。
今、食卓は——少しだけ、温かい場所になっていた。
* * *
食中毒事件の後、仮設の調理場で、リーゼは黙々と粥を炊き続けていた。
カイゼルは食堂の隅の席から、厨房の窓越しにその姿を見ていた。
銀白色の髪を結い上げた、小さな背中。
大鍋の前に立つその姿は、普段のおどおどした少女とはまるで別人だった。
リーゼは料理をしている時、変わる。
普段は臆病で、人の顔色を窺い、すぐに慌てる子供だ。
だが、鍋の前に立った瞬間——その全てが消える。
背筋が伸びる。目に光が宿る。手つきから迷いが消え、一つ一つの動作が精確になる。
それは、熟練の職人の佇まいだった。
十二歳の子供が持つには、あまりに不釣り合いな風格。
この少女は何者だ。
なぜ、魔力がゼロなのに、料理に不思議な力が宿る。
学院長室で、カイゼルはリーゼを庇った。
庇ったつもりはない。本当に、事実を述べただけだ。リーゼの観察力が優れていることは事実だし、自分の食事を作る人間を守るのは当然の判断だ。
——そう、自分に言い聞かせている。
だが、あの時。
リーゼが「ありがとうございました」と言った時、何か——胸の奥で、小さなものが動いた。
面倒だ。
カイゼルはそう思った。
面倒だ。こんな感情は。
食事が美味しいと思えるようになっただけで十分だ。それ以上は必要ない。
——必要ないはずだ。
* * *
夕食の時間。
カイゼルは、いつも二番調理室で一人で食べていた。
フィンが給仕し、リーゼが作った料理を黙々と口に運ぶ。
それが日課だった。
しかし、食堂閉鎖中の今は、仮設の食事スペースで他の生徒たちと同じ場所にいる。
普段なら耐えがたい環境だ。周囲の喧騒、食べ物の匂い、人の気配。
だが——不思議と、我慢できた。
リーゼの料理だからだ。
仮設スペース全体に広がるリーゼの粥の香りは、他の料理の刺激を中和するように、穏やかに漂っている。
カイゼルは自分の粥を食べながら、窓越しに厨房を見ていた。
リーゼが大鍋をかき混ぜている。
額に汗が滲み、頬が蒸気で紅潮している。三日間ほとんど寝ていないはずだが、手は正確に動き続けている。
味見をする。小さく頷く。
生徒に配膳する。「お大事に」と笑って声をかける。
あの笑顔。
料理を食べてもらえた時の、心底嬉しそうな笑顔。
カイゼルは匙を止めて、その横顔を見つめた。
——いつから、こうして見るようになった?
最初は、料理の品質を確認するためだと自分に言い聞かせていた。
嘘だ。
カイゼルは自分に嘘をつくのが下手だった。
あの少女を見ている時、胸の奥の冷たいものが、わずかに融ける気がする。
それが何なのかは分からない。分かりたくもない。
ただ——
母が最後に言った言葉を、時々思い出す。
「あなたに、おいしいものを作ってあげたかった」
母が果たせなかったその願いを、見ず知らずの少女が——当たり前のように叶えた。
毎朝、毎昼、毎晩。
「美味しい」を、皿の上に載せて届けてくれる。
それがどれほどのことか、あの少女は分かっていないのだろう。
分かっていないから、あんなふうに笑える。
「殿下? お粥、冷めてしまいますよ」
フィンの声に、カイゼルは視線を窓から引き剥がした。
「……分かっている」
匙を取って、粥を口に運ぶ。
温かい。
穏やかな旨味が広がる。
ほんのわずか、金色の光が匙の上で瞬いた気がした。
美味い。
その二文字を口にすることは、まだできない。
だが、心の中では——もう何度も、呟いている。
食べ終わって、空になった椀を見つめた。
十年間、カイゼルは一人で食事をしてきた。
人と一緒に食べることに意味を見出せなかった。
味が分からないのなら、誰と食べても同じだ。一人の方が気楽だ。
今は——違う。
あの小さな料理人が厨房にいて、窓越しにその姿が見える場所で食べる。
それだけで、粥の味がほんの少し変わる気がする。
気のせいだろう。味に変化はないはずだ。
同じ鍋から盛った粥なのだから。
でも——不思議と、ここで食べる方が美味い。
カイゼルは椀を置いて、席を立った。
厨房の窓の向こうで、リーゼがスタッフの一人と何か笑いながら話している。
笑っている。
三日間ろくに寝ていない顔で、それでも笑っている。
あの笑顔が、目に残る。
カイゼルは背を向けて、食堂を出た。
廊下を歩きながら、ふと思った。
明日の朝食も、あの場所で食べよう。
厨房の窓が見える、あの隅の席で。
別に、特別な理由はない。
あの席が落ち着くだけだ。周囲の刺激が少ない席だから。
——嘘だ。
知っている。本当の理由を。
カイゼルは小さく息をついて、暗い廊下を歩いた。
俺は一人で食べたくない。
——いつから、そう思うようになった?




