【14】皇子の寝顔と、温かいスープ
季節は晩秋に差しかかっていた。
帝都魔術学院の朝晩は、すっかり冷え込むようになった。
厨房の石床が裸足には辛い季節だ。わたしは前世で買い集めた靴下の温かさが恋しい。この世界の靴下は分厚くてごわごわして、正直あまり温かくない。
——そんなことはどうでもいい。
今日の問題は、フィンさんが血相を変えて厨房に飛び込んできたことだ。
* * *
「リーゼさん! すみません、お願いがあるのですが——」
夕食の仕込み中だった。
フィンさんの顔から、いつもの柔和な笑みが消えている。
「どうしたんですか?」
「殿下が……書斎で倒れて——いえ、倒れたというか、眠ってしまって」
「眠った?」
「今日の魔術訓練で、氷魔法を限界まで使い込んだんです。それから書斎に籠って論文を読んでいたのですが、いつの間にか寝落ちしてしまったようで……」
フィンさんが困り果てた顔をしている。
「起こせばいいんじゃないですか?」
「殿下は……寝起きが、その、大変よろしくないと申しますか」
「機嫌が悪いんですね」
「控えめに言って、氷河期が来ます」
物理的に。氷魔法で。
以前フィンさんが起こした時、書斎の壁が凍ったらしい。
「それで、殿下は夕食を召し上がっていなくて。温かいものを用意していただけると、目覚めた時に——」
「分かりました。すぐ作ります」
作ると言ったものの、少し考える。
疲れ切った体に必要なのは、消化が良くて、体が芯から温まるもの。そして、殿下の過敏な味覚を刺激しないもの。
——鶏と根菜の澄ましスープだ。
鶏骨を弱火で静かに煮出し、アクを丁寧に引いた澄んだスープ。
そこに、さいの目に切ったイムル芋と、薄切りのルーテを入れて、ことこと煮る。
仕上げに、ほんの微かな塩と、乾燥させた薬草をひとつまみ。
この薬草——ルッツ草は、この世界のパセリに似た香草だ。微量なら風味づけ程度だが、体を温める効果がある。前世で言えば、生姜湯の生姜のような役割だ。ただし殿下の味覚にはパセリですら強すぎるので、ごくわずかな量に留める。
二十分で完成。
澄んだ琥珀色のスープに、白いイムル芋と淡いオレンジのルーテが浮かんでいる。
シンプルだけれど、丁寧に取った出汁の香りが、ふわりと湯気に乗る。
「できました。保温は——」
保温が問題だ。
魔法で保温するのが普通だが、わたしには魔力がない。かといって、冷めたスープを殿下に出すわけにはいかない。
考えた末、厨房にあった二重構造の陶器の壺を使うことにした。
外側の壺に熱湯を注ぎ、内側の壺にスープを入れる。前世の保温ジャーと同じ原理だ。これなら一時間くらいは温かさが保てるはず。
「すごい、こんな方法があるんですね」
フィンさんが感心した顔で壺を受け取る。
「あの、わたしが届けましょうか? フィンさん、まだ他にやることがあるんじゃ」
「え、本当ですか? 実は殿下の訓練報告書を提出しなければならなくて……助かります。書斎は本館三階の東側です。扉に紋章が入っているので、すぐ分かります」
壺を抱えて、わたしは本館に向かった。
* * *
本館三階、東の廊下。
フィンさんの言う通り、皇族の紋章——交差した剣と氷の結晶——が刻まれた扉はすぐに見つかった。
ノックする。
返事はない。
そっと扉を開けた。
書斎は想像以上に広かった。壁一面の書棚に、革張りの本がぎっしりと並んでいる。窓際に大きな机があり、その上に羊皮紙や本が乱雑に積まれている。
そして——机に突っ伏すように、カイゼル殿下が眠っていた。
右手にはペンを握ったまま。左頬を論文の上に押しつけて、規則正しい寝息を立てている。
わたしは、思わず立ち止まった。
——殿下の寝顔を、初めて見た。
起きている時の殿下は、表情がない。いつも冬の湖のような碧眼が、全ての感情を凍りつかせている。
でも、眠っている殿下は——違った。
険しさの消えた顔は、年相応に若かった。
いや、年相応よりも幼く見えた。
眉間の皺がほどけて、唇がわずかに開いていて、黒い前髪が額にかかっている。
疲れている、と思った。
この人は、いつもこんなに疲れていたのだろうか。
氷の仮面の下で、ずっと——
殿下の右手の指先が、うっすらと青白く光っている。氷魔法の残滓だ。限界まで魔法を使い込んだ証拠が、寝ている間も消えずに残っている。
胸の奥が、きゅっと痛くなった。
——起こしてはいけない。
わたしは足音を殺して机に近づき、論文の山を少しだけ横にずらして、保温壺を置いた。
それから、手帖から一枚紙を破って、書き付けた。
『温かいうちにどうぞ。』
紙を壺の横に置く。
もう一度、殿下の寝顔を見た。
……こんな穏やかな顔もするんだ。
少しだけ、殿下のことを知った気がした。
料理の好みだけじゃなくて、この人がどんな風に眠って、どんな風に疲れるのか。
そんなことを考えている自分に気づいて、慌てて頭を振った。
何をしているのだ、わたしは。相手は第二皇子だぞ。
足音を忍ばせて、書斎を出た。
扉をそっと閉める。
廊下に出た途端、自分の心臓がやけに速く打っていることに気づいて、もう一度頭を振った。
——寒いからだ。廊下が寒いから心拍が上がったのだ。
うん、そうに違いない。生理現象だ。前世の知識で説明できる。
早足で厨房に戻りながら、わたしは自分の顔が熱いことを必死に無視した。
* * *
カイゼル・フォン・アステリアが目を覚ましたのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
意識が浮上した瞬間、頬に紙が貼りついている不快感があった。剥がすと、論文の一ページだった。よだれで少し滲んでいる。皇子にあるまじき醜態だが、見た者はいないだろう。
体が重い。氷魔法の酷使で、全身の魔力回路が軋んでいる。
——と、机の上に、見慣れない陶器の壺があった。
その横に、小さな紙切れ。
『温かいうちにどうぞ。』
丸い、素朴な字だった。
カイゼルは、その字を見た瞬間、書いた人間が誰か分かった。
壺の蓋を開ける。
湯気が、ふわりと立ち上った。
——まだ、温かい。
置かれてから、おそらく二時間以上経っている。なのに、スープはまだ湯気を立てている。
魔法による保温ではない。壺の構造で保温している。あの少女は、魔法を使わずに、こんなことまでやるのか。
スプーンを手に取り、一口すくって飲む。
澄んだスープが、喉を通り、胃に落ちた瞬間——体の奥から、じわりと温かさが広がった。
冬の朝、暖炉に火を入れた時のような温かさ。
凍りついた指先を、誰かの手で包まれた時のような——
カイゼルは、スプーンを止めた。
この感覚は、何だ。
スープの味は、いつも通りシンプルだ。鶏の旨味と、根菜の甘みと、微かな塩気。それだけの、何の変哲もないスープ。
なのに——胸の奥で、何かがちりちりと疼いた。
それが何なのか、カイゼルには分からなかった。
分からないまま、スプーンを再び口に運んだ。
二口、三口。
黙々と飲み続ける。
冷えきった体に、温かさが染み渡っていく。
魔力の酷使で軋んでいた体が、少しだけ楽になる。
スープが半分ほどになった時、カイゼルはもう一度、紙切れを見た。
『温かいうちにどうぞ。』
温かいうちに。
——間に合ったな。
カイゼルはスープを飲み干した。
空になった壺を置いて、小さな紙切れを指で摘まんだ。
捨てればいい。
ただの書き置きだ。
カイゼルは紙切れを——論文の間に挟んで、本棚に戻した。
それが何の意味を持つ行為なのか、自分でも分からなかった。
分からないまま、窓の外の暗い空を見上げた。
疲労は、まだ残っている。
だが、体の芯には確かな温もりがあった。
小さな厨房の少女が残してくれた、魔法のような温もりが。
* * *
書斎の扉の隙間から、フィンは全てを見ていた。
殿下がスープを飲み干したこと。
書き置きを捨てずに本に挟んだこと。
空になった壺を、少しだけ名残惜しそうに見つめていたこと。
フィンは音もなく廊下を離れ、誰にも見えない場所で、小さく笑った。
六年間、殿下に仕えてきた。
殿下が食事を美味しそうに食べる姿を見たことは、一度もなかった。
殿下が、誰かの書き置きを大事にする姿を見たことも、一度もなかった。
「……リーゼさんには、感謝しないとなぁ」
独り言を呟いて、フィンは自分の報告書に戻った。
帝都の夜空に、冬の星座が瞬いていた。




