【12】食堂の反乱(未遂)
厨房の空気が、少しずつ変わっていた。
わたしが殿下とソフィアさまの食事を作り始めてから一週間。
最初は「変わった子だな」程度だった厨房スタッフの視線が、最近どうも、二種類に分かれている。
興味深そうにこちらを見る目と、面白くなさそうにこちらを見る目。
その火薬庫に火をつけたのは、木曜日の朝食の仕込み中だった。
* * *
「おい、リーゼ。そのゼーベル、なんでそんな薄く切ってるんだ」
声をかけてきたのは、厨房の古参料理人、ゲルハルト爺さんだった。
六十過ぎの痩せた老人で、白い口髭をたくわえ、背筋がピンと伸びている。学院の厨房に三十年以上勤めているという大ベテランだ。
「飴色になるまで炒めるので、薄い方が早く火が通るんです」
「飴色? ゼーベルを飴色にしてどうする。あれは粗みじんにして鍋にぶち込むもんだろう」
「いえ、薄切りにして弱火でじっくり炒めると甘みが——」
「誰に教わった、そんな馬鹿なことを」
ゲルハルトさんの声が鋭くなった。
周囲の空気がピリッと張り詰める。厨房のスタッフたちが、手を止めてこちらを見ている。
「わたしの……独学、です」
「独学だと? 料理は師匠から学ぶもんだ。勝手な我流は厨房の規律を乱す」
ゲルハルトさんの言い分は、この世界の常識では正しい。
料理は徒弟制で伝承されるものであり、師匠のレシピを忠実に守ることが料理人の美徳とされている。
でも、わたしには師匠がいない。前世の食品科学と、この世界での試行錯誤だけが頼りだ。
「しかもお前、魔法を使わないそうじゃないか」
来た。この話題だ。
「火力の調整に魔法を使わない。味の強化にも魔法を使わない。保温にも魔法を使わない。それで料理人を名乗るつもりか?」
この世界の料理人にとって、魔法は基本技能だ。
火力を魔法で一定に保ち、味付けに微弱な魔力を込めて素材の風味を底上げし、保温や保存にも魔法を使う。
魔法なしの料理は、前世で言えば包丁を使わずに料理するようなものらしい。
「魔法を使わなくても、美味しい料理は作れます」
「小娘が。三十年この厨房に立ってきたわしに、料理を語るのか」
ゲルハルトさんの目が据わっている。
これは、単なる料理論争ではない。三十年のキャリアを、たかが十二歳の小娘に否定されたという、プライドの問題だ。
わたしは——正直に言えば、謝って引き下がることもできた。
でも。
ゼーベルの飴色炒めが間違いだとは、絶対に言えない。
食品科学的に正しいものを、慣習のために曲げることはできない。
前世の研究者としての矜持が、それを許さなかった。
「すみません。でも、わたしのやり方が間違いだとは思いません」
厨房が、しん、と静まった。
「……面白い。なら、証明してみろ」
ゲルハルトさんが腕を組んだ。
「同じ食材で、同じ料理を作れ。わしと、お前で。どちらが美味いか、厨房の全員に食べ比べてもらう。それで決めよう」
料理勝負。
しかも、三十年のベテラン対十二歳の小娘。
周囲のスタッフたちがざわめく。
「おいおい、爺さん、大人げねぇぞ……」
「でも、リーゼちゃんが勝ったら面白いかも」
「無理だろ。ゲルハルトさんは元宮廷料理人だぞ」
元宮廷料理人。
聞いてない。そんな情報、聞いてない。
「……いいですよ」
口が勝手に動いた。
「やりましょう」
* * *
勝負の料理は、マルクスさんが決めた。
「根菜のポタージュだ。学院の定番メニューで、食材は同じものを使え。制限時間は一時間」
根菜のポタージュ。
以前作って、厨房中を唸らせたあの料理だ。あの時のレシピはもう手に馴染んでいる。
問題は——ゲルハルトさんが「元宮廷料理人」だということ。
宮廷の料理人は、魔法による調理技術の最高峰だ。火力制御も味の強化も、学院の料理人とは格が違うはず。
「始め」
マルクスさんの合図で、わたしとゲルハルトさんが同時に動き始めた。
ゲルハルトさんの動きを横目で見る。
——速い。無駄がない。三十年の経験が手に刻まれている。
ゼーベルを手早くみじん切りにし、指先から小さな火球を飛ばして鍋を一瞬で適温にする。イムル芋を大きく切り分け、ルーテと一緒に鍋に入れる。右手を鍋にかざすと、淡い光が食材を包んだ。味の強化魔法だ。
素材の風味を魔力で底上げするこの世界の技法。食材そのものは変わらないが、舌が感じる味の印象が数段階上がる。
なるほど。これが魔法料理の真髄か。
一方、わたしは——ゼーベルを薄切りにして、弱火でじっくり炒め始めた。
周囲から小さなため息が聞こえる。「また飴色炒めか」「時間切れにならないか?」
無視する。
わたしにはわたしのやり方がある。
ゼーベルを飴色になるまで十五分。
その間に、別の鍋でイムル芋を低温加熱する。六十度を保って、デンプンの糖化を促す。
ルーテは強火で短時間炒めて、カロテノイドを引き出す。
三つの鍋を同時に管理しながら、わたしは前世の研究室にいた頃を思い出していた。
あの頃も、こうやって温度計と時計を睨みながら、素材の化学変化を制御していた。
三十分後。
飴色のゼーベル、糖化したイムル芋、香り立つルーテを合わせて、鶏骨のスープで煮る。
仕上げに、海藻の粉末をひとつまみ。
ミルヒ脂をほんのひと匙。
塩は、最小限。
——できた。
わたしのポタージュは、淡い象牙色。
ゲルハルトさんのポタージュは、鮮やかな黄金色。
見た目は、正直、ゲルハルトさんの方が映える。
* * *
試食は、厨房の全スタッフで行われた。
マルクスさんの提案で、どちらが誰の料理か伏せた状態で味見をする。
銀の椀が二つ。Aの札とBの札。
スタッフたちが順番に味見していく。
最初の数人は、両方を交互に飲み比べて、うーんと首を捻っていた。
そして——五人目あたりから、空気が変わった。
「……B、だな」
「わたしもB」
「Bですね、圧倒的に」
投票が進むにつれて、Bに手を挙げる人が増えていく。
結果。
A:三票。
B:十四票。
圧勝だった。
厨房がしんと静まる。
ゲルハルトさんが、黙ってBの椀を手に取った。
ゆっくりとスプーンですくい、口に運ぶ。
長い沈黙。
「……これは、魔法を使っていないのか」
「はい」
「味の強化も、保温も」
「何も使っていません」
ゲルハルトさんがもう一口飲んだ。
皺の深い顔が、複雑な表情を浮かべている。
「……三十年やってきた。宮廷で腕を磨き、学院に来てからも毎日鍋を振ってきた。魔法を使った料理が最善だと、疑ったことはなかった」
ゲルハルトさんがスプーンを置いた。
「だが、この味は——わしの負けだ」
潔い言葉だった。
三十年のプライドを賭けた勝負に負けて、それを認められる人は多くない。
「小娘。お前、何者だ」
「ただの厨房係です」
「嘘をつけ。この味は、素材の本質を理解していなければ出せん。お前のやっていることは——料理というより、錬金術に近い」
また、錬金術。
ソフィアさまにも同じことを言われた。
「……教えてくれんか。その、飴色炒めとやらを」
厨房が、どよめいた。
三十年のベテランが、十二歳の小娘に教えを請うている。
「もちろんです! 温度管理のコツは——」
わたしが説明を始めると、他のスタッフたちも一人、また一人と集まってきた。
「リーゼちゃん、さっきの海藻の粉末って何?」
「低温で芋を加熱するとどうなるの?」
「ルーテの炒め方、もう一回見せてくれ」
気がつけば、厨房の全員がわたしの周りに集まっていた。
嬉しい。
料理の知識を分かち合えることが、こんなに嬉しいなんて。
* * *
片付けが終わった後。
マルクスさんに呼ばれて、食材庫の奥に行った。
厨房長は腕を組み、薄暗い棚の間でわたしを見下ろしていた。熊のような巨体が、わずかな光を遮っている。
「いい勝負だった。ゲルハルトを丸め込むとは、大したもんだ」
「ありがとうございます。ゲルハルトさんが潔い方で助かりました」
「あぁ。あいつは頑固だが、料理には正直な男だからな」
マルクスさんが、一拍、間を置いた。
熊のような目が、じっとわたしを見ている。
「リーゼ。お前に一つ、訊いていいか」
「はい」
「今日の勝負で、お前のポタージュを味見した。確かに美味かった。この学院で食った中でも、ぶっちぎりで美味かった」
「あ、ありがとうございます」
「だがな——」
マルクスさんの声が、低くなった。
「あの鍋から、金色の火花が散ってたのを、他の連中は気づいてないが——わしは見た」
心臓が跳ねた。
「金色の……」
「火花だ。お前が仕上げに塩を入れた瞬間、鍋の縁からぱちぱちと散った。あれは魔法の反応だ。だが、お前は魔力がゼロだと聞いている」
マルクスさんが一歩、近づいた。
「お前がどこで料理を学んだのか、わしは問わん。何の力を使っているのかも、追及しない。だが、一つだけ言っておく」
巨大な手が、わたしの肩にそっと置かれた。
見た目に反して、驚くほど優しい手だった。
「あの金色の火花を、この厨房の外で見せるな。厨房の中ならわしが守ってやれる。だが、外に知れたら——わしにも、守りきれん」
「マルクスさん……」
「行け。明日の仕込みの準備があるだろう」
マルクスさんは、それ以上何も言わなかった。
背を向けて、食材庫の奥に消えていく。
わたしは食材庫を出て、厨房に戻った。
——マルクスさんは、知っている。
金色の火花が何なのか。少なくとも、それが危険なものだということを。
でも、追及しなかった。守ると言ってくれた。
厨房に戻ると、ゲルハルトさんがゼーベルの薄切りに挑戦していた。「こうか? もっと薄くか?」と若いスタッフに訊かれている側で、不器用にも笑っている。
この厨房は、わたしの味方だ。
手帖を胸に抱きしめて、わたしは明日の仕込みに取りかかった。




