狂人
抗うという選択肢は、最初から存在していなかった。
俺たちは無言で携帯を地面に置き、
ゆっくりと手を上げる。
その間も男のナイフは桜の喉元に吸い付いたように張りつき、
呼吸に合わせて刃先がかすかに揺れ、
そのたびに冷たい光がちらりと跳ねた。
「――上も下も脱げ。
パンツ一丁になれ」
低く濁った声が落ちてきた。
意味が飲み込めず、俺は思わず足を止める。
「脱げって言ってんだろォ!!」
怒号とともに、男は桜の首へ刃を“チッ”と押し当てた。
細い線のように赤がにじみ、
桜が小さく肩をすくませる。
「わかった!
わかったから!
やめろ!
今脱ぐ!」
俺たちは震える手で急いで上着を脱ぎ、
ズボンを足元へ落とした。
男はその様子を見るなり、腹を揺らして笑い出す。
「ギャハハハハッ!
マジで脱ぎやがった!
バァーカ!
アハハハハッ!」
瞳孔は開ききり、
目の奥は焦げついたみたいに黒く沈んでいた。
「ッハー……
笑いすぎて腹いてぇ……
もういいわ」
男は息を荒くしながら、指で俺をビシッと指す。
「じゃあ一人ずつこっちに来い。
まずはその青パンのガキからだ」
完全に“玩具を見る目”だった。
粘りつくような恐怖が背中から這い上がり、
全身の毛穴がざわりと開く。
――もう、賭けるしかない。
俺は男にゆっくり近づきながら、
必死に脳内でシミュレーションを繰り返した。
ナイフが桜の喉元から、
ほんの一瞬でも離れる瞬間。
その一瞬に——
全てを賭けて仕留めるしかない。




