第九話
「オレは一人っ子だけど、歩美には兄弟いるの」
カラオケで兄弟をテーマにした曲を歩美がちょうど歌った後だった。
タイミングよく自然な感じで、きり出せた。
「弟がいるの。今、アメリカにいて、もう何年も会ってないわ。どうしてるんだか」
歩美は懐かしそうな顔をした。
Mのメール通りだなと道生は思った。
「アメリカにいるんだ。まだ学生かい?」
「コンピューター関係の仕事をしてるらしいわ、詳しくは知らないけど」
やっぱり、そっちの専門家か、ふざけやがって。
「へえ。アメリカの大学をでたの?」
「うーーん、実は、弟は高校中退なの。いろいろあって……」
興信所の情報通りか。これ以上聞くのは無理だな。
「ゴメン、ゴメン。聞いて悪かったね。この話は、もう止めよう」
歩美は、少し考えているようだったが、道生を見つめて言った。
「聞いてもらえる、長い話になるけど」
道生も歩美を見つめ、大きく頷いて言った。
「もちろんだよ」
歩美は、弟のことを話し出した。
それは弟の話であり、歩美の話でもあった。きっと、自分の身の上をもっと早く、道生に話したかったのだろう。弟の話題は、よい誘い水になったのだ。
弟は、歩美と二才違いだった。幼い頃は、ごく普通の男の子だった。歩美は小さい頃から、エレクトーンを習っていた。一人で幾つものパートをこなす演奏方法が、まるで手品師のようで歩美は夢中になった。弟は音楽には興味を示さず、友達と外遊びをして毎日を過ごしていた。
小学校の高学年になると、弟の容姿は西欧風になっていった。髪や目は黒かったが、肌はピアノの白鍵のように白くなった。鼻が高く彫の深い顔立ちで明らかに周りの子と違っていた。手足が長く背も高くなり、一重でうりざね顔の歩美とは、対照的だった。
弟は自分の容姿に違和感を覚えたようだが、クラスの女の子には人気だった。父方の家系に白系ロシアの血縁があると、母から聞かされたが、父や時々やって来る北海道のお爺ちゃんやお婆ちゃんにそんな血は感じられなかった。歩美は美しい弟が自慢だったが、できれば自分もロシアの血を継ぎたかった。
歩美が中学の時、パソコンで音楽の打ち込みを始めた。歩美は、直ぐ飽きてしまったが、弟はパソコンに興味を示した。小五の時だ。
弟は、初めの内はパソコンを使って、家庭用ゲーム機のデータ改造などして遊んでいたが、次第にプログラミングに興味が移っていった。
中学に入学すると、映画のマトリックスに触発されて、あの有名な画面を落ちてゆく文字を、自分も直接読みたいとアセンブリ言語やマシン語を習い、ハードウエアよりのプログラムを作るようになっていった。電子工作をして、ロボットやパソコンの周辺機器を自作した。パソコンの周りは、基盤むき出しの機器が取り囲んでいて、まるで実験装置のようだった。弟の部屋に入ると、電子工作でするハンダ付けのヤニの臭いがした。
次第に学校にも行かなくなった。自分で勝手にカリキュラムを組み、プログラミングに必要な数学と英語の時間だけ登校し、早退した。親に注意されると、大泣きして部屋に閉じこもり、ハンガー・ストライキを決行して、親を困らせた。しかし、迷路を解くロボット競技に参加して、大人達を破って地区優勝したり、英語と数学の成績はいつもトップクラスだったので、先生や両親も、これも個性の現われだろうと、容認するようになっていった。
弟は、姉の歩美にプログラミングの話をよくした。人に教えると、さらに理解が深まると、何かの本で読んだようだが、歩美は好きでもない話を延々と聞かされ、いい迷惑だった。
中学時代の歩美は、軽音楽部に入り、キーボードを担当した。グループ演奏にハマっていた。エレクトーンを一人で演奏する時には得られない、ノリがあった。楽器で会話するような面白味があった。クラブ活動のほかに、好きな仲間とバンドも始めた。
歩美の家族が住む地域には、高校が一つしかない。中学の同級生は、そのまま高校の同級生になった。歩美は高校でも音楽を続けた。クラブ活動はせず、好きな仲間とバンドを組んで、ライヴをしたり、コンテストに出たりしていた。
歩美が三年のとき、弟が入学してきた。弟は、もう学校には行きたくなかったが、それなら働けと父に言われ、しぶしぶ入学してきた。中学と同じように最低限の出席で卒業するつもりらしかった。
その頃、弟は仮想通貨のマイニングに凝っていた。パソコンで金を採掘して、アメリカで一人暮らしを始めると言っていた。グラフィックボードという基盤を何枚も買ってきてパソコンと接続し、冬でも扇風機で冷却していた。パソコンを一日中稼動し続け、電気料金が跳ね上がり、母が苦情を言っていた。しかし、採掘が成功した時、電気料金の何年分ものお金を渡して、母を驚かせた。自分のことを、サトシ・ナカモトと呼んでくれとか、歩美には、何をしているのか全く分らなかった。
それから、弟は新聞をよく読んでいた。読売・朝日・日経、その時だけは部屋を出て、ダイニング・テーブルいっぱいに紙面を広げ、端から端まで折込チラシまで、母のいれるコーヒーを片手に時間をかけて読むのが日課だった。
ネットで充分じゃないかと思うが、弟からすると、そうではないらしい。
―― オレ達はみんな、時間の中を飛行している
タイム・フライヤーなんだ。
未来に向かって飛行し、記録をたどれば過去へだって潜行できる。
オレのように、こもる性格の人間には、よく意識できるよ
部屋という宇宙船に乗って時間飛行している事が。
部屋で何も起こらなくたって、世界中でたくさんの事件が起こり
すばらしい発見や思考が繰り返されている。
それを知る事は、最高にエキサイティングだ。
みんな、自分のリアルな体験にこだわり過ぎだよ。
想像力を働かせれば、仮想も現実も大した違いはない。
そうすれば、すぐ隣に、もっと大きな世界があると気付くはずさ。
新聞は世界の事を万遍なく知らせてくれるからね、読むのは楽しいよ。
興味がわけば、その先はネットで深く調べればいい。
みんなは現在に汲汲として、なにも見えていない。
オレのように時間を垂直方向に使って、自分の時間を止めれば、
世界が良く見えるようになるのさ ――
いつも偉そうな事を言っている弟だが、こんな事もあった。歩美が学校に行っている昼間、弟が歩美の部屋に侵入している気配があった。思春期の弟が姉の部屋に忍び込み、やることは決まっている。歩美はチェストにある下着の位置に気をつけた。証拠を見つけて、とっちめてやる気でいた。
そんな時、事件が起こった。同じクラスの生徒が、弟を批判したようです。日直もやらず、たまに登校すれば、数学の先生に関係ない質問を繰り返し、授業を邪魔する弟を頭にきたようです。クラスの女子にイケメンと騒がれていたのも面白く無かったのでしょう。弟は始め聞き流していましたが、三度目の言いがかりで、制裁しようと決めたようです。
どうやったのか知りませんが、その生徒のパソコンに侵入し、内蔵カメラでパソコンに向かう生徒の顔を動画で撮り、メールでその生徒に送りつけました。黙らないと、お前の裏アカを全部公表する、と脅したようです。メールには裏アカウントが列挙されていました。
その後は静かになったので、そのまま弟は過ごしてしましたが、どうしてか、その動画と裏アカが拡散してしまいました。弟はやってないと言ってました。たぶん、ファイル共有ソフトの知識不足で、知らずに自分で拡散した事ぐらいしか考えられないと言っていました。しかしその子は、裏アカでひどい投稿を繰り返していて、それがバレて、みんなから無視されるようになりました。そして、あっけなく自殺しました。未遂で済みましたが、その時書いた遺書を、その子の両親が学校に持ち込み、厳正に対処してくれと抗議しました。そこには、いじめの首謀者として弟の名前が書いてありました。弟は無実を主張しましたが、弟が送ったメールが残っていたので、誰にも信じてもらえませんでした。弟は、ハメられた、と言っていました。あいつは本当に自殺する気があったのか、狂言じゃないのかと。
さすがに両親も、この件では弟を叱った。しかし弟は腹を立てて反論した。
誰だって、人の事をもっと知りたい時、相手の話に耳を澄ましたり、相手をよく見て観察するように、自分も能力を発揮しただけだ。
みんなとやっている事は同じなんだ。ただ自分には人に無い能力があっただけだ。読唇術で相手の唇を読むようなものさ。犯罪じゃない。
歩美は弟の主張が、あながち間違いではない気もした。
結局、弟は高校を退学させられ、同じ高校にいた歩美も居心地が悪くなりました。その子の両親は報道関係にも、いじめ問題としてこの事件を持ち込み、その地方のニュースで、陰湿ないじめ問題として取り上げられ、自宅に報道陣が来るようになりました。
弟は、家出してしまいました。歩美の部屋に置手紙がありました。アメリカに行く、金はあると。
歩美も高校卒業まで一ヵ月も無かったので、周りの奇異の目を避けるため、すでに就職の決まっていた東京に出てきました。バンドのメンバーには、東京で会おうと言い残しました。両親が自宅で防波堤の役を引き受けてくれました。




