第十二話
道生は階段をかけ降りると、隣のアパートの表にまわった。幅四メートルほどの私道に面したアパートは、三十年以上経っているように見えた。一階に玄関ドアが六つ並んでいる。テラスハウス型のアパートだ。奥から二つ目がその部屋だった。私道は、すぐ行き止まりの道で、誰も歩いていない。住人もまだ気づいていないようだ。
道生は火元の部屋の玄関ドアを叩いた。五号室とプレートが貼られていた。
「誰かいますか。火事です。火事です」
二回、呼んだが、応答は無い。ドアノブを回したが、鍵がかかっていた。留守か。
玄関わきの掃きだし窓から室内をのぞく。遮光カーテンのすき間から中が見えた。リビングが煙で充満していた。煙でよく見えないが奥の方にオレンジ色がゆらめいている。炎のようだ。かすかに、火災報知器の電子音が聞こえた。
歩美が追っかけてきた。道生は言った。「百十九番してくれ、五号室だ」
まずは、住人の避難誘導だ。道生は隣の四号室のドアを叩いた。
「火事です。火事です。非難してください」
二回呼ぶと、おじいさんが、ビックリした顔で出てきた。
「五号室が火事です。非難してください」
道生は、お爺さんの腕をつかんで、有無を言わさず外へ引っ張り出した。
ごたごた説明している暇はないのだ。そして、お爺さんに叫んだ。
「三号室に知らせてください。避難させてください」
それから出火元をまたいで六号室に向かったが、外が騒がしいので、向こうから出てきた。
「五号室が火事です。非難してください」
道生が大声で叫んでいるので、人が集まりだした。道生は叫んだ。
「大家さんはいませんか」
「大家は一号室に住んでる」あのお爺さんがぼんやり立ったまま言った。
見ると、消防に通報の終えた歩美が、代わりに三号室に非難を呼びかけていた。
「大家さんを呼んできて下さい。五号室の鍵を持ってきて下さい」
さすがに、お爺さんはかけて行った。
「消火器はありませんか。無ければ、バケツに水を入れて持って来て下さい」
向かいの一軒家の人が庭の方へ取りに行った。
よし、このまま消防が来るのを待つか、もうすぐ来るだろう。
大家さんが駆けてきた。鍵を持っている。
二階に子供が寝ているかもしれないと、大家は叫んでいる。
待つ時間はないか。道生は鍵を受け取り、玄関ドアを手で触った。
熱くはない。
「私は消防士です。これからドアを開けます。危ないですから、下がってください」
手振りを交えて叫んだ。アパートの住人もいるのだろうが、取り囲んでいた野次馬が、後ろに下がった。歩美が心配そうに見ている。
鍵を開け、ゆっくりドアを開けた。ドアの隙間から煙が勢いよく立ち昇った。野次馬が喚声と共に、更に後ずさりした。バックドラフトなし。ドアを全開にして煙を排出させた。
あたりは暗くなり始めていた。リュックからペンライトと消防アポロキャップを取り出し、リュックを大家さんに預けた。耳を済ませたが、サイレンの音は聞こえない。
行くしかない、迷ってはダメだ。大家さんに部屋の間取りと子供について聞く。捜索対象は二歳の女の子だ。道生は帽子をかぶり、お爺さんが頭に巻いていたタオルを借りて、マスク代わりに巻いた。すえた汗の臭いがした。よし、こんな時、汗の臭いがわかるなら冷静だ。訓練通りにやれば、うまくいく。
道生は、イグアナのように姿勢を低くして玄関から侵入した。リビングの煙はだいぶ薄くなっていて、視界がきいた。リビングに人はいなかった。キッチンへのガラスの引き戸を開けた。猛烈な煙が押し寄せてきた。道生は更に姿勢を低くした。床から十センチぐらいの空気を吸う。視界はほとんど利かないが、キッチンの奥の方が赤かった。風呂場が火元のようだ。まだ、時間はありそうだ。匍匐でキッチンへ侵入した。
聞いていた通り、左に二階への階段があった。ここは息を止めて上るしかない。煙で全く何も見えなかった。持ってきたライトは用をなさない。法令で階段に設置が義務付けられている火災報知器がうるさく鳴っている。煙が目にしみて痛い。涙が出てきた。道生は目を閉じた。どうせ視界は無いし階段は一本道だ。息を止め、手探りで階段を数えながら上る。二階まで十二段ぐらいのはずだ。十三段目で二階に着いた。予想以上に時間が掛かってしまったのか、止めた息が苦しくなってきた。
引き戸を開ける。畳の部屋だ。ここもすでに煙が充満していた。しかし畳から十センチに煙の無い空気の層があった。ありがたい。息をしながら周りを見た。その十センチの視界を通して布団で寝ている子供を発見した。しかし全く動かない。寝ているのか、気絶しているのか。助ける前に、窓を開けよう。視界はなかったが、窓と思われる方向が明るかった。道生は立ち上がって腕を前に伸ばし、その方向に歩いた。三歩進むと、伸ばした手にガラスが触れた。手探りでロックを外し、窓を開けた。出口を見つけた煙がどんどん排出されていく。外から野次馬の歓声が聞こえた。道生はその時、自分が煤だらけになっていることに気が付いた。
子供を毛布ごと抱き上げ、階段を降りようとしたが、下から煙が押し昇ってくる。窓を開けたせいだろう。まるで煙突のようだ。とても降りられそうにない。道生は今開けた窓にかけ寄り、身を乗り出すようにして煙を避けた。このまま消防が来るまで待とう。
窓には転落防止用の柵があった。道生は煙をもっと避けようと、柵に体重をかけた。確かに転落防止用ではあったが、老朽化した柵は、もう重さに耐え切れなかった。柵は根元から外れた。
支えを失った道生は、子供を抱いていて手が使えず、なす術もなく二階から転落した。道生は子供の頭を手で支え、子供を包むように背中を丸めた。出来れば足から着地と思い、体をひねった。その瞬間、腰から背中に衝撃が走り、鞭打つように後頭部が打撃された。
道生は、みんなが見ている前に落下した。しかし衝撃で、かえって意識が覚醒したように思えた。新鮮な空気を吸えたからかも知れない。歩美が、かけ寄ってきた。道生の名を連呼している。しかし、その動きは緩慢だった。大家さんが、道生の腕から、子供を抱き取った。笑えるぐらいスローモーションだ。そうだ、子供の容態はどうだ。歩美が道生の体をゆすって泣いている。ケガ人をゆすっちゃダメだろ。道生は、二階あたりからその光景を眺めているように感じた。
そして子供の泣く声が聞こえた。あの子が気がついたようだ、よかった。
生存確認。
道生の視界が黄色くなっていく。周囲の音も聞こえなくなった。そして、意識がフェイド・アウトした。




