02 アルメダの星
魔術研究施設『アルメダの星』は、ベルメール西の学術区にどっしりと構えている、最先端の魔術研究所である。学術区のど真ん中に鎮座していて、地上五階、地下二階建てだ。
所員は約二百名。日々、魔術の深奥を見極めんと欲し、研究を重ねている。
あるひとりを除いては。
「……高い」
そう呟いたのは、ロモモ・アルシュタインである。彼女はいま、『アルメダの星』の屋根にいた。
これが新しい仕事の、ある一部分である。ここの所長はロモモに「屋根の点検」を頼んだのだが、それは手っ取り早くいえば、「屋根の上を歩き回って飼い猫のチェムを探してきてほしいな」ということだ。それが仕事のなかみである。
チェムとは、ロモモとは因縁深い、あの黒猫である。羽ペンはあのあと、しっかりと手元に返ってきたのだけれど、いきなり後ろから飛び掛かってきて、大切な所持品を奪い去ったあの猫を、ロモモはまだ許していない。
「……チェムー。出てきてー。お願いだからー……」
高いところは、苦手だった。
チェムを呼ぶ声が震えたのは、仕方がないだろう。なにせ、地上五階である。もし落ちたら、助かるかどうか。
ちなみに、ロモモはいま、白衣姿だった。いちおう、研究所員だからということで、所長から渡されたのだけれど、庶務しかしていないから白衣に似合った仕事はしたことがない。
いや、実験に立ち会ったことはあるから、それっぽい仕事はした。が、ロモモ自身、実験風景を眺めていただけである。
まぁ、それも仕方がない。研究所では、所長の助手として採用されたものの、要は所長のお世話係に過ぎないのだ。
屋根の斜面をへっぴり腰で歩きながら、どこかに黒猫の、尻尾か足かないものかと、ロモモは探す。すると、見つけた。黒いちっちゃな背中があった。
チェムは屋根の端っこにちょこんと座って、なにやら、下のほうを眺めているみたいだった。『アルメダの星』は、ベルメール西学術区の、噴水のある円形の広場に面して建てられている。広場には、『アルメダの星』の所員をはじめ、学術区のどこかでお勤めのひとだったり、学生だったりが、つかの間の休息を求めてやってくる。
そういった、広場に集まるひとたちを見るのが、チェムはどうやら好きなようだった。ロモモが出勤するときも、入り口から屋根のほうを見上げると、チェムの真っ黒な顎が見えることがある。
「おーい、チェムー。こっちにおいで、所長が探してたからー」
と、声をかけてみる。
チェムは長い尻尾を縦に振った。了解の意に、見えなくもない。
「はやく降りてくるんだよー」
「ぐるにゃあ」
今度は声で返してくれた。ここではたらき始めてからわかったこと、あの黒猫は、けっこう賢い。
さて、チェムは戻るといってくれたのだろうし、それでは中に戻ろうか。ロモモは後ろを振り返った。高くて怖いし、さっさと降りたかった。ロモモは最初に上がってきた、屋根のドーマーへと戻っていく。
でも、へっぴり腰だったのが、悪かった。
右足を前に出した瞬間、ロモモはバランスを崩して、屋根の上で滑ってしまった。
単にこの娘がどじを踏んだだけだが、あえて、弁護するならば、この前日には雨が降っていた。そのことも、ロモモが簡単に足を滑らせてしまった理由のひとつだろう。
ただ、もうずいぶんと乾いてはいたし、やはりどじなだけである。
で、転んでしまったロモモは、腹ばいの状態で、そのまま屋根の上を滑走した。
「え、いぁ、死ぬぅー!」
と、叫んでいた。
再度いうが、ここは地上五階の、屋根であるから、さらに上である。もし落ちたとすれば、命はないかもしれない。
ロモモはどうにかして、屋根をどんどんずり落ちていくのを、止めようとした。けれども、腹ばいの状態から、屋根の洋瓦に背中をつけた姿勢になるので、やっとだった。
滑る速度はぐんぐん上がっている。ロモモは必死になって、もうよくわからない悲鳴をあげていた。これでは天国へダイブしてしまう。死にたくない。
が、どうすることもできない。ロモモの脳裏に走馬燈がよぎった。あ、もう、だめだこれ、と思った。
そんなとき、腹の上に、なにかが乗った感覚があった。黒猫のチェムだった。
ロモモがチェムに気付いたのと同時に、身体が宙に浮かぶ感覚があった。屋根という名の滑走路が、途絶えたようである。
「いっ――」
ロモモは落下していた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
冷たい風が、勢いよく身体に吹き付ける。白衣が風に捲れて、片手で下に着ていたワンピースを抑えた。もう片方の手では、さっきお腹に乗ってきた黒猫をがっしり抱きかかえている。
ロモモはもちろん、錯乱していた。ものすごい速さで近づいてくる地面に向かって、言葉にならないほどの恐怖を、絶叫に変換して放出している。
「うわあぁぁぁぁぁぁあああああだらあぁぁぁぁぁぁああひぬぅぅぅうう!」
といった具合である。
あと数メートルで、大地とハグすることになる、といった頃には、もう意識が消えかけていた。ロモモは上記の絶叫に加え、「たすけてぇぇぇ!」とも叫んだ。
そして最後、藁にもすがる思いで、
「チェム、たすけてぇぇ!」
そう叫んだのである。
するとどうだろう、突然、ロモモの身体が、空中でがくんと停止した。広場の石畳と、あとすこしでお尻が激突してしまいそうな距離だった。
そしてゆっくり、ロモモは浮上していって、その間に体勢を整えてしまうと、シャボン玉が弾けるように、浮遊が終わった。両足で着地して、なにが起こったのか、すこしもわからず辺りを見回す。広場に来ていた数人が、不思議そうにロモモを見つめているだけで、自分の身体にも、広場にも、どこにも変わったところはない。
ふと思いついて、ロモモはチェムを探した。腕の中から逃げていたチェムは、彼女の足元で、毛繕いをしていた。
「ね、チェム。……たすけてくれたの?」
チェムはなにも答えない。当たり前だろ、みたいな雰囲気だった。
「……そっか。ありがとう」
どうでもよさげな目で、チェムはロモモを一瞥すると、『アルメダの星』のなかへ入っていった。尻尾が、右に、左に振れている。
「ちょ、ちょっと待ってってば!」
くえない猫を追いかけて、ロモモも『アルメダの星』へと入っていった。
◇
チェムに誘われて、ロモモが『アルメダの星』所長――オルトメニカ・ハンダレッドと出会ったその日に、ロモモは助手として採用された。採用理由は、チェムに選ばれたからだ、とオルトメニカはいった。
でも、さすがのロモモも、最初は疑った。
なんだかきな臭いぞ、と思ったのである。
そもそも、オルトメニカは最初、こういった。
「ようこそ、『アルメダの星』へ」
『アルメダの星』。ここベルメールに来た者が、その名を知らないわけがない。アイハで、いや世界で最大ともいえる、魔術研究の権威である。
しかし、内部はすべて機密であり、一般人は入ることはおろか、近づくことすらできない。一定階級の魔術師か学者、そして『アルメダの星』附属学校の生徒しか、近づくことはできないのである。
ロモモはもちろん、一般人である。『アルメダの星』に入れるわけもなく、そもそもからして、裏路地をさまよっていると、迷いこんだ場所が、そんなすごいところの所長室。信じろというほうが、無理だった。
「信じれない?」オルトメニカは笑った。「じゃ、付いて来て」
オルトメニカは立ち上がり、ロモモの横を通り過ぎて、ドアを開けた。蕩けるような甘い匂いが、彼女からはした。
ドアの向こうは、不思議なことに、暗い路地裏ではなくて、いくつもの機械が稼働している広い部屋だった。ロモモたちはその部屋を見渡せるような高い足場にいて、オルトメニカは、ある大きな機械を指差した。
その機械は部屋の中央にあって、どうやら、他の機械はすべてそれに繋がっているらしい、何本もの太いケーブルが床を這い回っていた。中央の機械には、紫色の液体で満たされたガラスの巨大な容器が設置されており、何人もの白衣を着たひとたちがその前に集まって、話し合っている。
「魔術の仕組みって、知ってる?」
いつのまにか白衣を羽織っていたオルトメニカは、この機械で埋め尽くされた空間に呆気に取られていたロモモへ、そう問いかけた。数秒遅れて、ロモモは首を横に振る。
「まず……そうだね。わたしたちの身体には、魔力っていう極微小な粒子が含まれているの。それを扱うための、特殊な臓器があるんだけど、まぁそれは別にいいね。で、この魔力っていうのを、これまた微小な生命体である、『精霊』に餌として供給するの」
「精霊……ですか?」
「そう。肉眼では見えないけれど、空気中に何匹もいるよ。それでね、魔力を貰った精霊たちは、それを使って、不思議な反応を起こすの。それが、魔術」
機械の前で話し合っていたひとびとが動き出した。なにが始まるというのだろう。
「さて、今回の実験は、精霊結晶の人工だよ。聞いたことないでしょう、精霊結晶なんて? まず、精霊結晶というのはね、精霊が何匹も集まって可視化できるようになった『精霊群』を、さらに集めて、魔力を過度に供給して、互いに引き合わせることによって出来上がるものなの。『精霊群』はね、通常の精霊たちとは違って、魔力を与えると、大きな磁力を持つようになるんだ。その磁力が、互いを結合させるの。で、今回は、それを人工する。簡単そうでしょう? でもね、そーでもないの。磁力には正負があるのは……知ってるよね。正と負が引き合うの。そのときにね、『精霊群』に対して、きちんと正負を分けて磁力を与えて、そして結合するような配置に故意的にしなきゃいけない。これが難しいんだよ。これまで三十六回ほど失敗して、いまから三十七回目の実験だね。うちの秀才たちが、本気で考えてるんだけど……」
オルトメニカはそこまでいって、言葉を切った。実験が始まったのである。
機械が動き出す大きな音が聞こえ、紫色の液体からぶくぶくと泡が出始めた。そしてゆっくりと発光し始め、その光が最高潮の輝きに達したとき、途端に光が消えた。そこらじゅうから嘆息する声が聞こえる。
「惜しかったね」と、オルトメニカはいった。「あと六回かな」
それから、彼女は階段を降り、白衣の集団に近づいていった。ロモモもその後を追う。
集団のなかにいた、あるひとりに、オルトメニカは声をかけた。眼鏡をかけた若そうな女性で、すこしふくよかだ。茶色のボブショートと瞳は、チョコレートみたいだとロモモは思った。
「彼女はラフィ・ミレー。ラフィはここの実験長だよ」
「よろしくね」とラフィはにこやかに笑った。人の良さそうな笑顔だった。「それで、彼女は?」
「新しい助手だよ。ロモモちゃんっていうの」
「え、あ、はい。ロモモ・アルシュタインです。……えっと、わたし、助手なんですか?」
いつの間に助手にされていたのだろう、とロモモは首を傾げた。
それを見て、ラフィは苦笑を浮かべる。
「うん、所長、いいと思いますよ。採用しましょう」
「えっ、採用って……」
「ほかにお勤め先がある?」
「あ、いえ……」
逆にそれがなくて困っていたところである。
オルトメニカはそれを聞いて、にっこり笑うと、一枚の羊皮紙を取り出した。
「初任給はこれくらいで、労働時間は……」
「え、え、そんな……」
逃してはいけないほどの好条件だった。お給料はふつうのベルメール労働者の二倍、労働時間は多いほうだが、入る収入に見合っているどころか、逆に少ないのではないかと思うほどだ。
「できればすぐ採用したいの。ここにお名前を頂戴」
「え、あ、はい!」
とはいえ、書くものがない。あ、そうだったね、とオルトメニカはいって、羽ペンを渡してきた。あの黒猫に奪われた、大切な羽ペンだった。
さて、ふつうならここで一考する。即日採用、怪しさしかない。だいたい、こういうのはブラックがやることである。
しかしながら、このときのロモモには、ブラックでもホワイトでもグリーンでもなんでも、とりあえず働く口があれば上出来だった。えり好みもできない状態だったのである。どんな時代でも世界でも、明日の食が約束されるなら、だいたいみんな、なんでもやる。
だからロモモは、即署名した。結果的に黒い仕事ではなかったからよかったものの、こういうところ、やはり田舎娘である。
だがしかし、黒くないとはいえ、素晴らしくゆとりのある職というわけでは、もちろんない。ロモモを待っていたのは、マイペースで気分屋のオルトメニカに、ただただ振り回される日々だったのである。




