1 不幸のはじまりと身代わりの結婚
クラリス=クラッセンは子爵令嬢だ。
幼い頃は、優しい父と、優しい母に囲まれて、幸せに過ごしていた。
流れが変わったのは、彼女が六歳になったときのことだ。
流行病で、母グラシアが亡くなってしまったのだ。
優しかった父エドワードは、酒に溺れるようになり、クラリスの話を聞いてくれなくなった。
乳母のリサリーだけが、ずっとクラリスの傍にいてくれて、寂しがるクラリスに色々な話をしてくれた。
「王都には、魔術師と呼ばれる人達が沢山いるんですよ」
「そうなの?」
「はい。これはその方々が使う、特別な道具の一つだと聞いております」
クラリスが手に握っている、懐中時計くらいのサイズの、褪せた金色の円形の箱。
中には魔石が入っていて、魔力を籠めると、懐炉として使うことができるのだ。
それは、若い頃に王都に住んでいたという亡き母が、幼いクラリスにくれたものである。
「この懐炉は、普通の人には使えないらしいです。だから、クラリス様がお使いになれるということは、他の方には秘密ですよ」
口元に指を立ててほほ笑むリサリーに、クラリスは素直に頷いた。
この懐炉を使うことができるということは、亡き母と乳母、そしてクラリスだけの秘密だった。
彼女にとって、自分ができることを自慢したいという気持ちよりも、三人だけの秘密を大切にしたいという思いのほうが強かったのだ。
◆
そうして日々が過ぎる中、父エドワードは後妻を迎えた。
子連れ同士の再婚である。
後妻となったのは、ベンジャミン男爵家の長女ベリンナ。
彼女には既に子が二人いたため、クラリスには義姉と義妹ができた。
義姉の名はエアリー、義妹の名はクリスティナという。
父は後妻を迎えた後、少し酒が遠のき、前と同じようにクラリスに笑いかけるようになった。
継母と義姉、義妹には好かれていなさそうだったけれども、クラリスは父が優しければそれでよかった。
◆
しかし、ある月夜のこと、夜酒を飲んだ父は、窓から落ちて死んでしまった。
クラリスが八歳のときのことである。
それからというもの、クラリスは使用人のようにこき使われるようになった。
食事は床でするように強要され、床磨きや洗濯だけでなく、まき割りなどの男性がする仕事も手伝わされるようになる。
使用人達も、大人の後ろ盾のないクラリスに表立って優しくすることはなくなった。
唯一、最後まで優しくしてくれたのは乳母リサリーだ。
当然ながら、彼女は継母ベリンナによって解雇され、故郷に戻ることになった。
一緒に行こうと言ってくれた彼女の申し出を、クラリスは断った。
リサリーは平民出身で、クラリスを養うだけの余力がないことを知っていたからだ。
「お嬢様、強く生きてください。いつかきっと、幸せに笑ってみせると、このリサリーに約束してくださいませ」
このとき、クラリスは約束をしなかった。
リサリーに嘘をつきたくなかったからだ。
「ありがとう、リサリー。あなたがいたから、今日まで私は生きてこられたわ」
それだけを伝えるクラリスに、リサリーは最後まで泣いていた。
本当に温かい人だった。
◆
こうして、クラリスは、一人になった。
服は新調してもらえず、使用人達の古着の布を使った、つぎはぎだらけのものを着ることとなった。
寝具も同様であったため、冬になると、ぼろぼろの服をかき集めるようにしながら、薄い毛布にくるまるようにして寝る。
冬の寒さが、部屋の壁を貫くようにして、クラリスに襲い掛かる。
けれども、クラリスには、母の懐炉があった。
不思議な文字が彫られた、色あせた金色の懐炉。
クラリスは継母達によってあらゆるものを奪われたけれども、この懐炉だけは、ずっとクラリスの手に残り続けている。
なにしろ、継母達は、この懐炉を起動させる方法を知らないのだ。
その機能を知らなければ、懐炉はただの薄汚れた金色のオブジェに過ぎない。
(今日も、眠れないくらい寒い……)
冬の夜になると、クラリスは、首から紐で下げて服の中に隠しているそれに、そっと魔力を籠める。
すると、懐炉はほんのり温かくなり、寒さをしのぐことができるのだ。
問題があるとしたら、クラリスがいつも飢餓状態にあり、魔力を作り出すことがままならなかったことか。
(五分、横になる。少し元気になるから、それをほんの少しだけ、魔力に変える……)
クラリスは、体の力を、ほんの少しだけ魔力に変えて、懐炉に籠める。
その匙加減が、とても難しく、しかし重要だ。
おそらく、これほどに疲労し、飢えた状態で魔力を作りすぎると、クラリスの体は機能を停止させてしまうことだろう。
実際にその域に踏み込んだことはないけれども、そこに行ってはいけないという、確かな手ごたえがある。
生と死のその際を、クラリスは毎夜、歩いている。
そして、それを止めるという選択肢はなかった。
暖が取れなければ、寝ている間に死んでしまうかもしれないから。
◆
数年が経ち、年を経るにつれ、懐炉に魔力を籠める作業に慣れてきた。
しかし、年々飢えが体に応えるようになってきた。
クラリスは育ちざかりだった。
体が小さいままなら、こんなにおなかがすかなかったのだろうかと、残念に思う。
同時に、体が小さいままだと、できることが少なくなってしまうので、困るとも思う。
いつもおなかがすいているクラリスは、生きるのはこんなにもつらいものなのだなと、やせ細った手を見ながら、毎日考える。
そんな彼女は、寝る前はいつも、懐炉を見つめていた。
不思議な文字の後に、「アルバート」と刻まれている、魔法の懐炉。
これは、この懐炉を作った人の名前なのだろうか。
ー◇ー◆ー◇ー
「クラリス! 手紙が来たから、返事を書いておいて」
十八歳になったクラリスが床磨きをしていると、義姉エアリーがそんなことを言って去っていった。
年頃になり、義姉と義妹は、夜会に出るようになった。
そうすると、彼女達に当てて、男達から手紙が届くようになったのだ。
義姉と義妹は、勉強が嫌いだ。
文字を書くのも嫌いで、筆もあまり綺麗ではない。
だから、返事を書くのは、主にクラリスだった。
(今日は何通かしら)
義姉が机に置いていった箱の中に、何通か手紙が入っている。
上質な紙で作られた、繊細な封筒だ。
家紋を押した蝋で封をされていて、クラリスはそれを開けるのが好きだった。
(エイベル様、ギルベルト様に、ハロルド様……)
クラリスは、それぞれの相手とどんなやり取りをしたのかを思い返しながら、手紙をしたためていく。
時候の挨拶を入れ、日ごろの出来事、そしていかにあなたにお会いしたいか……。
そうやって、作り事の世界を広げるとき、クラリスはいつも笑顔だった。
母を亡くし、父を亡くし、乳母が去った後も、クラリスはずっと、本を読むことをやめなかった。
勉強をやめてはいけないというのが、リサリーに言われた決まりごとの一つだったからだ。
リサリーのおかげで、クラリスはこうして、文字を読み、想像の世界を広げ、そしてそれを文字に落とすことができる。
そのことに感謝しながら、義姉や義妹からの情報をもとに、会ったこともない男の人を思い浮かべつつ、手紙を代筆していく。
そんな日々をすごしていたところ、ある日、継母ベリンナがクラリスに告げた。
「お前の結婚が決まったわ」
結婚。
あまりに唐突な宣言に、クラリスは驚きを通り越して、ただ、そうなのかと思った。
結婚という言葉は、クラリスの人生にやってこないものだと思っていた。
それくらいには、クラリスは女性として身なりを整えていないし、外に出かけることが許されたためしがない。
「相手は、ハロルド=ハワード伯爵よ」
「……伯爵」
「そう。パッとしない坊ちゃんよ。ここより少し北に領地があってね。クリスティナを所望しているみたいなんだけれど」
ベリンナが義妹クリスティナに視線を投げると、居間のソファでくつろいでいたクリスティナから声が上がる。
「この子爵領でも寒いのに、もっと北に行くなんていやよ!」
「というわけだから。あなたが嫁ぎなさい」
「……でも、お相手様は、私を望んでいないのに」
「クラッセン子爵家の『クリス』を望んでいるらしいから、大丈夫でしょ」
(そんな適当なことで、いいのかな)
そう思ったけれども、継母がいいと言ってしまえば、クラリスに反抗する権限はないのだ。
(ハロルド、ハロルド……ハワード、伯爵。どんなやり取りをした人だったかしら)
複数の男達との手紙のやり取りを思い返し、クラリスはようやく、ハロルドなる男とのやり取りを思い出す。
そうだ、義妹が去年、王都の夜会に出席した際に出会った男だ。
夜の庭園で声をかけられ、名前を聞かれたので、クリスとだけ名乗って去ったのだと言っていた。
そのころ、義妹クリスティナは、別の侯爵令息に夢中だったから、ハロルドには興味を抱かなかったのであろう。
けれども、ハロルドはクリスティナに一目ぼれをしたらしく、手紙が頻繁に送られてくるようになった。
その返事をしていたのは、クラリスだ。
(それにしても、なぜ結婚の申し込みを受けたのだろう)
義姉と義妹は、それなりに婚約申し込みを受けていて、いくつか断っていた経緯があったはずだ。
なのに、なぜ今回に限って、身代わりにクラリスを差し出してまで、結婚の申し込みを受けたのだろう。
この疑問は、すぐに解消された。
要は、金だ。
ハロルドは、それなりに婚約申し込みを受けている義妹クリスティナを手にするために、金を積んだということらしい。
(そんな状態で私が嫁いだら、怒られるだろうな……)
手紙のやり取りをする度に、ハロルドの熱が上がってきていることは、クラリスも感じていた。
おそらく、この身代わり婚は、うまくいくことはないだろう。
けれども、それに反対する術も、今のクラリスにはないのだ。
窓の外をぼんやりと見ながら、クラリスは、服の下に隠してある懐炉に、そっと手を当てる。
(これが持っていけるなら、それでいいか)
きっと、ここに居るのも、嫁ぐのも、変わらないはず。
ちょっと殴られて、外に捨てらるかもしれないけれど、それはそれで、きっと仕方がないことなのだろう。








