影
まーちゃんへ
私はいつも通り、執務に向かうオリヴィエ王を見送ろうとしたら、王は思いついたように言った。
「アニエラ。ローブ着ててよ。後で迎えに来るから」
「わかりました」
王は気分良さげに執務室に向かっていった。
何があるかは知らないけれど、私は知らなくても命令には逆らえない。
私は部屋に戻ると言われた通り、茶色い簡素な服からローブに着替えてから、王の書斎の片隅にある机で小説を書き出した。
私はペンを走らせる。
ようやく、アレクサンドロス大王の物語も終盤を迎えた。
アレクサンドロス大王は世界を変えた偉大な人物だったけど、若くして熱病に倒れ他界。
彼が築いた一大帝国は、その後、後継者争いが起こり、彼の妻子たちは全員が殺害された。
当然、彼の血筋が残ることはなかった。
ふと、冷たい風が頬を撫でた。
私が窓を見ると、いつの間にか窓が開けられ、女の人が一人立っている。
燃えるような赤い髪に、どこまでも冷たい青い瞳。
得体のしれない雰囲気をまとった長身の女は一言だけ、
「見かけによらず、勘が鋭いな」
私は驚いて、立ち上がった。
思わずインクが床にこぼれる。
女は足音一つさせずに、素早く私に近づく。
逃げられない。
私は恐怖した。
幼い頃の、前世や今世の記憶がフラッシュバックする。
痛みと恐怖で、逃げられないと諦めるしかなかった日々が蘇る。
くそ。
最悪。
声の一つも出ないんだけど。
女は私の口と鼻を塞いだ。
ツンと鼻の奥が刺激されるような薬特有の変な匂いがして、私の意識は、まあ、――途切れちゃったんだ。
※※※
僕は執務室に着いた瞬間、秘書に言った。
「あのさ、急で悪いけど、神殿にアニエラも連れて行くことにした。だから、準備を進めておいてくれ」
「かしこまりました」
神殿では国家の安寧を祈る行事が行われるけれど、その光景がきれいなんだ。
アニエラもきっと喜んでくれるに違いない。
僕は仕事を始める。
大抵は書類にサインを書くだけだ。
手を動かしつつも、頭の中では行き帰りの馬車の中で、アニエラに春になったら植える花をどうするか話をしようと思っている。
正直、アニエラは花にはあまり興味がないけど、彼女の大事な友だちである僕の話だけはニコニコと聞いてくれる。
僕は、そんな彼女を喜ばせたくて、日本の桜に似た花や木を手に入れられないものかと考える。
春には、その樹の下でお花見をしたい。
そんな事を考えていたら、神殿へ向かう時間が近づいてきた。
僕は早足で、アニエラを迎えに行った。
でも、彼女は書斎にはいなかった。
窓は開けられていて、冷たい風が入ってくる。
部屋はすっかり冷え切っていて、床にインク瓶が落ち、乾きかけの黒い墨が広がっていた。
僕の直感が、囁く――影だ。
今まで感じたことのない色々な感情が、心の奥底から渦のように、無限に湧き上がってきた。
アニエラを連れて行ったやつを、命じたやつを、僕は絶対許さない。




