《それから二年後のとある晩》 - ワシ
深夜。小さい円卓に執事と差し向かいで座る。
ワシほどではないが、彼も十分、年寄りだ。最初の執事の息子だ。二代にわたって仕えてくれている。彼の息子は他の屋敷で執事をしているが、孫が最近、執事見習いとしてうちに来てくれた。
彼がいれてくれたホットミルクを飲みながら、窓外の大きな望月を見る。
「……静かだな」
「はい」
「以前に戻ったかのようだ」
以前、それはつまり、愛妻が亡くなった後の日々だ。屋敷からは温もりも明るさも消えて、ここだけ世間と隔離されているかのようだった。
時おり尋ねてくれる客がいるときだけ、往時の華やかさを取り戻し、彼らが帰ればまた寂寥に包まれる。
こうして淋しく最期の日々を送るのかと思っていたのだが。
一年半ほど前に若い夫婦が居候するようになった。ワシが縁を取り持った、ヴィンツェンツとナタリエだ。一度は破綻した二人だが、それを乗り越えるとその仲はより強固になり、似合いの夫婦となった。
ヴィンツェンツは叔父の所属する宮廷楽団の事務員をしているのだが、団員全員の奏でる音を聞き分ける才があり、ゆえに個性の強い楽団員に可愛がられているようだ。
ナタリエは女性の家庭教師を育てる教室を自分で経営している。教えるのは勉学ではなく、貴族の令嬢として必要な、完璧なマナー、優雅な立ち振舞い、惚れ惚れするダンス。
完璧令嬢として誉れの高いナタリエだ。なかなかに繁盛しているらしい。
彼らはワシを本物の祖父のように慕ってくれている。必ず一日一度は食卓に三人が揃うし、老人のつまらぬ話の相手を楽しそうにしてくれる。
おまけに彼らの友人が頻繁に屋敷を訪れ、その席にワシも呼んでくれるのだ。特にヴィンツェンツの交遊関係は幅広く、貴族以外でも学者から国境警備隊員まで多種多様で、大変に面白い。
二人のおかげで、人生の最期の最期に、賑やかさを取り戻すことができた。
「それにしても遅いな」
「はい」と執事。
「何かあっただろうか」
「そうですね。見て参ります」
執事がそう言って立ち上がったとき、扉を叩く音がした。
彼が扉を開けると、ヴィンツェンツが立っていた。
「殿下は?起きていらっしゃるか?」小さいけれど弾んだ声。
執事が首肯して彼を通す。
卓につくワシを見たヴィンツェンツは、満面の笑みで静かにやって来た。
「生まれました!女の子です!」
そう言う彼の腕の中には、小さな赤子がいる。
「連れて来てくれたのか」
「ええ、早くお見せしたくて」
だいぶ前に赤子の泣き声が聞こえたのに、なかなか生まれたとの知らせが来ないから心配していたところだったのだ。ワシに見せるために支度していたのか。
赤子は真っ赤な顔ですやすやと眠っている。
「可愛いなあ」
そっと頬にさわると、温かくぷくぷくとしている。
「おめでとう。ナタリエは?」
「問題ないそうです」
「それは良かった。よく頑張ったと伝えておくれ」
「はい。それで殿下。名前の件ですが」
ワシはちらりと壁の絵に目をやった。
「本当にワシが付けてよいのか?」
「勿論です」とヴィンツェンツ。
「妻がつけたかった名前でも?」
「ナタリエも望んでいます。どうか名を下さい」
ちらりと執事を見る。笑顔で頷かれる。彼が笑うなど、珍しいことだ。
「では。フェリーチェだ」
「フェリーチェ!なんて良い名前だ!」小声で叫んだヴィンツェンツはそれから、赤子に優しい声で「フェリーチェ!」と呼び掛けた。
あんなに頼りなかった彼が、もう父親の顔をしている。不思議なものだ。
「さあ、ワシはもう満足したから早く母親の元へ帰しておあげ」
「はい」
うなずいたヴィンツェンツを見て、執事が喜寿とは思えない颯爽とした動作で扉を開く。
若い父親と生まれたばかりの赤子がいなくなると、寝室に静寂が戻った。
壁に掛けられた絵を見る。そこでは若い頃の妻が微笑んでいる。
「奥様もお喜びのことでしょう」
「うむ……」
妻と二人で考えた名を、こんな晩年になって赤子に命名できるとは。
「フェリーチェの成長を見たいな」
「恐れながら、わたくしもでございます」
老執事が恭しく頭を下げる。
楽しい土産話をたんと持ってそちらに行くから。あともう少しだけ、待っていておくれ。
そう心の中だけで語りかけ、左手にある形見の指輪をそっと撫でた。
お読み下さり、ありがとうございます。
ヴィンツェンツとナタリエは、『結婚相手の探し方』で婚約破棄騒動を起こしていた二人です。
そちらの作品に出てきた老大公を幸せにしたくて、書きました。
砦の愉快な仲間も、いつかどこかで再登場させたいなと思います。
◇◇
《婚約破棄が流行している世界》シリーズ
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キャロラインとハンスウェルの話 (コメディ)
・短編『婚約破棄が連れてきた遊び人』
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リオネッラとミケーレの話




