第九十九話 いざ、異世界へ
朝のラッシュでパンパンに込み合っている電車を横目に、黒塗りの高級車とは思えない軽快な動きで、車の合間をすり抜けていく。
「しかし、驚きましたの。まさか宇喜多様の部屋に、魔王が宿泊していたとは……」
「はははああ! ちょっとばかし積もる話があってよおお!」
爺さんの話では、魔王を屋敷で接待する準備をしていたが、目を離した隙にいなくなっていたので、異世界に帰ったのかと思っていたらしい。
俺たちは今、送り迎えの車に乗っているが、これから出勤ではない。異世界に魔王と連れだって、出陣する真っ最中なのだ。
仕事を休む件は、城ケ崎が連絡してくれた。奪われたアルルを奪還するためだと説明したら、快く応じてもらえたとのことだ。しかもありがたいことに、異世界への移動ポイントまで、こうして送り迎えまでしてくれている。
「あっ、アルルの奪還のために休むことを了承してもらっている訳ですが、血眼になる必要はありませんよ? 富豪のコレクションなんぞのために、命を張ることはないです。頑張ったけど、叶いませんでしたと事後報告すれば、それで事足りますよ」
爺さんに聞こえないように、小声で耳打ちしてきた。最初からわざと失敗するために動くのは好きではないが、他のことに気をやっている余裕はないので、その案を進んで受け入れることにしよう。アルルというコレクションと会ったことはないが、戦うことになるかもしれない相手なのだ。
「あと、宇喜多様たちにお会い出来なかった件ですが、旦那様はたいそうガッカリしておられました」
「ははは……、その件は失礼いたしました……」
俺は申し訳なさげに何度も頭を下げていたが、言い出しっぺの城ケ崎は、無言のままで社外の景色に目をやっている。雇い主の富豪の方も、俺ではなく城ケ崎と会いたかったようだし、両者の間には、見えない壁が存在していると思われる。
しかし、この車は本当に広いな。いつも実感していることだが、今日は格別に感じているよ。
何せ、巨大なヘビが我が物顔で乗車している隙間に、人が三人乗り込むことが出来るんだからね。……かなり狭く感じるがね。
マジックミラーのおかげで、外から中の様子を覗かれることはないが、周りの連中はまさかこの車に異世界の魔王が乗っているとは夢にも思うまい。どいつもこいつも平和ボケした顔で、運転を満喫してやがる。まあ、感づかれたら感づかれたで、面倒くさい喧騒に発展してしまうので、助かっているんだがね。
「あ~ん? また停まるのかよおお! あの信号という光る棒っ切れは不便でいけねえなああ!」
赤信号で停まる度に、嫌悪感を露わにしている。異世界の魔王様は、信号が大のお嫌いらしい。車に乗った時は便利だと上機嫌だったくせに、かなりの気分屋だ。
時々信号で停められるということは何度かあったものの、車は順調に都市部を抜けて、ぐんぐん人の生活していない山間部へと分け入っていった。
どうせ研究所の施設みたいなところに向かっていると思っていたら、富士の樹海の最深部みたいなところで停車した。辺りを見渡すも、建物の類は見当たらない。
「生憎と、ここから先は車で通ることは出来ませんのですじゃ。歩いていただけますかの」
到着したのかと思ったら、まだ進まなければいけないらしい。しかも、自分の足で。
申し訳なさそうに頭を下げられたが、車の周りは心霊動画も撮れそうな鬱蒼とした森の中。爺さんの卓越した運転テクニックがなければ、ここまで来ることは叶わず、歩く距離はさらに伸びただろう。こんな僻地まで粘ってくれて、本当にありがとうございますと言いたいところだ。
本当なら登山装備を万全に整えて踏み込んでいる領域に、コンビニに行くようなラフな格好で降り立つ。ぜいたくをしているのか、ものすごい暴挙に及んでいるのか、よく分からん。
「夜に一人で遭難していたら、幽霊が出そうなところですね。正直なところ、今は幽霊の方が何倍もマシですけど」
「幽霊より怖いやつらに喧嘩を売りに行くんだものな」
敵の親玉を売っ払ってやるとか、昨日は大きいことを散々口にしたが、だんだんとビビりの虫が蠢きだしている。さすが自身も認めるビビり。
深呼吸でもしたいところだが、魔王とシロは勝手に進み始めてしまった。心なしか、ホテルの廊下よりも、動きやすそうに見えてしまう。
こんな山の中に置いていかれたら大変と動き出そうとするが、後に続こうとする城ケ崎の前に、爺さんが立ちはだかった。
「……どうしました?」
「あなた様も行かれるのですかな?」
「ええ、お話した通りです。それが何か?」
「分かりませんな。同行したところで、戦力になるとは思えません。足手まといになるくらいでしたら、安全な場所で傍観なされるのが賢明かと思われますぞ……」
「自覚していますよ。でも、向こうは何でもアリの世界のようですからね。何かをきっかけに強力な力を手に出来るかもしれませんよ。まあ、冗談はさておき、自分一人だけお留守番というのが性に合わないんです」
だからそこをどけという意味の微笑を讃えた眼差しで爺さんを見つめる城ケ崎。爺さんはしばらく困ったように黙り込んでいたが、やがて仕方なく道を開けた。
「あの……」
「どうか……、よろしくお願いいたしますぞ……」
居たたまれなくなって声をかけようとしたら、今度は俺に向かって頭を下げられてしまった。城ケ崎のことを頼んだという意味を含んでいることを察したが、雇用側の爺さんが、ただの社員である城ケ崎をここまで気にかけるのは、どうも妙だ。
「お兄ちゃ~ん! 魔王様、先に進んじゃっているよ! 置き去りにされたくなかったら、早く来て!」
「あ、ああ! すぐに行くよ!」
頭を上げてくれと頼んでも、爺さんは頭を下げたままだ。やむを得ず、言ってきますと言って、駆け出した。しばらく進んでから振り返ってみたが、爺さんは礼を続けていた。俺の姿が見えなくなるまで続けるつもりだろうか。
「なあ……。お前って、何者なんだ? 今のやり取りを見る限り……」
「だったら何だっていうんですか?」
さすがに二人の関係が無視出来なくなり、城ケ崎に話しかけたが、俺の予想を口にする前に、向こうから一刀両断されてしまった。
「宇喜多さん。向こうの世界に行ったら、こっちでの身分や前歴は全てリセットされるんですよ? 総理大臣だって、皇族だって、元野球選手だって、次元を超えてしまえば、等しく人なんです。当然私たちも例外じゃありません。そんな瞬間を前に、こっちでの経歴を根掘り葉掘りおさらいしたって意味がないでしょう」
話し出そうとする俺の言葉を遮って、異世界に行くことの弊害を述べる城ケ崎からは、これ以上詮索するなという明確な拒否が突きつけられていた。もうほとんど素性がばれているのに、今更そんなに頑なにならなくても良いと、俺は思うんだがね。
「もっとも……。借金で首が回らなくなった人、家族を事故で失った人、日々の生活に行き詰った人、ニート……。こっちでの自分を捨てたい人には、もってこいの条件かもしれませんけどね」
そう嘯く城ケ崎の顔は、どことなく弾んでいるようにも見えた。こいつもこいつで、こっちの世界の自分をリセットしたい人間の一人なのかもしれない。
「それでも聞き出したいというのなら……」
城ケ崎が俺の手を引いて、歩みを止めた。まだ歩こうとしていた俺は、前のめりになりそうになってしまった。
「私の彼氏になってくださいよ。自分のパートナーには、包み隠さずに話すと決めていますので」
「お前……」
突然の告白に、どこまで本気か聞こうとしたところで、シロから声がかかった。移動ポイントに到着したらしい。やれやれ。ここぞという時に邪魔が入る。憎たらしいまでのテンプレ展開だな。
辿り着いたのは、地獄への入り口を思わせる洞穴の前だった。大きな口をあんぐりと開けて、何も知らずにのこのこと踏み入った獲物を呑み込む瞬間を、よだれを垂らして待ち構えているようにも見える。
「でっかい洞穴だな……」
ビル二階分ほどの大きな穴がぽっかりと開いていた。中は真っ暗で、昼間だというのに、最深部は見えない。
「これくらいで圧倒されていたら、この先、お兄ちゃんの心臓はもたないよ! もっと気を強くもたないとダメだからね!」
既に何度もここを行き来しているシロは、俺がビビっていると決めつけて、胸を張って高笑いしているのが気に食わない。
「こんな穴……。一体誰が……」
「俺が掘ったんだよおお! 勇者を始めとした反抗勢力を、軒並みブッ飛ばして挑戦者がいなくなった時期があってなああ! 暇で死にそうになったから、山を一つ平地にしようと穴を開けまくっていたら、こっちの世界と偶然繋がったああ!」
これまた人騒がせな偶然もあったものだ。つまり、魔王の暇つぶしが高じて、異世界と俺たちの世界が繋がったということか? とりあえず繋がった先が、都市部でなくて心底良かったよ。このヘビは、戦闘大好きだからな。自衛隊相手に、いきなり戦争が勃発するところだった。
「この中に入ったらね! ひたすら真っ直ぐに進むの! もっとも中は前後左右の理が滅茶苦茶になっている空間だから、左に進もうが、中に入ってしばらく経った後で引き返そうが、結果的には異世界に辿り着くんだけどね!」
「そうか、そうか。灯りが必要かと思ったんだが、手ぶらで良さそうで安心したよ。それじゃあ、行こうか」
蝙蝠がいないか聞こうとしたが、根性なしと笑われそうなので、止めておくことにした。




