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ダンジョン+ハーレム+マスター  作者: 三島千廣
第14章「されど地に這う日々」
293/302

Lv293「魔竜タンガニカ」


「すまないな、小芝居につき合ってもらって」

「それは別にいいんだけどよっ。タンガニカってけったいな名前や、さっきから起こってるこの地震はなんなんだよ!」

「まとめて説明する。少し時間をくれ」

 蔵人はリーチャの手によって宮殿を脱出すると、はじめて出会った浜辺に来ていた。

 こうしてじりじりと突っ立っている間にも、街の方角からはもの凄い地響きや多数の人々の叫びが風に乗って聞こえてくるので、どうにも落ち着かないし納得ができない。

 がさごそと、森の茂みを掻き分ける音がしたかと思うと、見慣れたエプロン姿の犬耳メイドと水精霊(セイレーン)が飛び出してきた。

「ご主人さまっ」

「クランドーっ。あたしもいるよっ!」

「おまえらっ……て、ついに元の大きさに戻ったんだな! ポルディナ!」

「はいっ。ご迷惑をおかけしましたっ」

 蔵人は抱きついてきたポルディナとミリアを両腕で受けとめると、その場でくるくる回転しながら再会をよろこんだ。

 ポルディナにかけられていた呪いは時間の経過とともに解けたのか、いつもどおりの背丈に戻っていた。

「で、リーチャ。そろそろ事情を説明してもらってもよかんべぇか」

「ん。ポルディナは私が部下に命じて牢から解放させた。今からドロテアを見つけて、この浜辺まで連れてくるからミリアに地底湖の外まで連れて行ってもらってくれ。これが、私の精一杯なんだ」

 リーチャは悲しそうに眉を下げると、腰に下げた袋から小さな水色の塊を出し、手渡してきた。

「なんだ、これは?」

「これは水色サンゴという。息の続かない種でも、これを咥えていれば水中でも呼吸が苦しくならない。こいつを持っていけば、あとはミリアに任せておけばよい」

「クランド、お別れだね……」

 蔵人は鼻の頭にシワを寄せしゃくりあげそうになるのをこらえているミリアを見ながら、手渡された勾玉の形をしたサンゴを手のひらで弄びつついった。

「俺が聞きたいのはそんなことじゃねえ。それよりも、あの声はなんなんだよっ! 今、街で、宮殿でなにが起こっていやがるんだっ!」

「聞かねば納得できないという顔だな。仕方ない。今、都を襲っているのは魔竜タンガニカといって、我ら水精霊(セイレーン)にとっては不倶戴天の大敵だ。一ヶ月前も都を襲撃し、そのときはからくも撃退したのだが、傷が癒えたとなると再び襲って来たらしい。あの激しい地震は、タンガニカが起こしている。――さあ、これがすべてだ。わかったのなら、早くこの場所を立ち去ってくれ。私は、騎士団のみなと姉上、それに街の住民たちを助けにいかなくてはならないのでな……」

「そうじゃねえよ! ああっ、なにを頓珍漢なことをいっていやがるんだっ……!」

「な、なにを怒っているんだ」

「怒っている? ああ、俺は今ムチャクチャ頭にきてるッ。わかるか、ポルディナ!」

「はい、ご主人さま」

 蔵人はぐいと向き直るとリーチャの襟元をこれでもかと掴み上げ、それこそ今まで会ってから一度も見せなかった憤怒の表情で詰め寄った。

「わ、わからない……。もしかして、こうなる前に都から送り出さなかったことに腹を立てているのか?」

「そうじゃねえっ。そうじゃあねえったら! 俺はッ、おまえにっ! こんなときに限って、尻に帆立てて逃げ出す腰抜けだって思われてることに腹ァ立ててんだよ」

「あのな、クランド。姉上のことなら気にしなくていい」

「なにがだよ」

「姉上を抱いたろう。だから、おまえは気に留めているのだろうが、私がいうのもなんだが、気にしなくてもいい。なぜなら――おまえが姉上を抱いたのは、食事に一服盛ったからだ」

「なん、だって……?」

「実はな、姉上からどうしてもおまえと契りたいといわれてな。水精霊(セイレーン)秘中の秘である媚薬と強壮薬をしこたま料理にぶち込んだんだ。チョコラッタや料理番も承知の上で。おまえの気持ちを弄ぶようで悪かったが、どうしても大好きな姉上に思いを遂げさせてやりたかったんだ……。すまない、としかいえない」

 リーチャは子供のように唇を噛み締め「うっうっ」と涙を流しはじめた。善良な彼女はずっと黙っていたことが心のトゲとなって気持ちを激しく苛んでいたのであろう。水精霊(セイレーン)の涙は銀の雫となってこぼれ、白い砂に吸い込まれきらきらとほのかに陰を作った。

「だから、あのとき一芝居打って俺を逃がしたのか」

「すまない」

「だいたいよ、俺がはいそうしますっていっても、たぶんそうはなんないんだよね」

「それは、どういうことなの……?」

 リーチャは目元を手で覆ったまま、いう。

「どうって、なあ。ポルディナ。ドロテアがまずそんなん許さねえだろう」

「――はい。彼女は、まず百二十パーセントの確率で嫌じゃ! というでしょうね」

 蔵人はポルディナが目を伏せて返答するのに満足して、今度はポカンとしているリーチャとミリアに視線を移した。

「彼女はあれほど姉上と険悪になっていたのだぞ。私は、少しの間だけニンゲンの世界を見てきたが、ああなったあとで、そのようなことをいうととうてい思えないのだが」

「ま、普通ならそう思うよな。でも、俺らバカだもん」

「ご主人さまはともかく、ドロテアの気性からいえば死んでも納得はしないでしょうね」

「いったい、なにをいって――」

「さあ、リーチャにミリア。くるりと回って今来た道をゴーだ! 漢、蔵人綸言汗のごとしを地で行く男だぜ。さっさと出発してお味方に助成仕り候でござるよ」

 蔵人はぽかんとした全員を置き去りにするように、森のなかの道を猛ダッシュしはじめた。

 それにしてもリーチャのやつもいろいろと気を使い過ぎだ。自分にタンガニカの気配を悟らせぬよう、わざわざ後方の景色が見えないような入り組んだ小路を通るのだから。

 蔵人がアクセル全開で走り続けると、あっという間に街並みが見えてきた。

 被害は想像以上に大きかった。

 あれほど楽園を絵に描いたような、美しい街並みも巨大な戦車が無理やり通ったように、端から叩き壊されている。あちこちには、タンガニカに食い殺されたのだろうか、少なくない人民たちの血がべったりと塗りたくられ、上手く隠れて逃げ切れた水精霊(セイレーン)たちは水路の隅で縮こまって、小さくなり震えていた。

「おい、おまえら」

 蔵人が声をかけると彼女たちは振り返りもせずうずくまったまま、さらに身を寄せ合った。それは襲い来る暴風から身を守る術を知らない哀れな野に住む小動物を思わせた。 

 腹の底から、ジワジワと久々に怒りが湧き上がってきた。全身の毛が残らず逆立っていく感覚。火を吐くような荒い呼気を鎮めることができない。形相が一変した蔵人の覗き込んだリーチャとミリアが危機に合った小魚のように、びくんと身体を震わせる。

「リーチャ」

「なんだ、クランド」

「タンガニカってやつは、あれだ……。でっけえのか?」

「巨大だ。今は、騎士団のみなが食い止めていると思うが。前回も追い返したときに、かなりの被害が出た」

「なら、このムカムカは残らずその野郎にぶっつけてやろうじゃねぇか」

 蔵人は血走った目で立ち上がると、破壊された街並みに沿って走り出す。

 目指すは魔竜タンガニカの首。それ以外には、もう、なにも考えられない。






 バルバラが陣頭指揮に立ってのタンガニカ撃退戦であったが、思ったほど騎士たちの士気は奮わなかった。

 第一に、いつも彼女たちのそばにいる、実質的背骨であるリーチャがいない。これは、大きな痛手であり、市街地を我が物顔で歩き回るタンガニカの猛威に全員が引け腰になっていた。

 概算で、おおよそ被害は三十人を超えている。これを多いか少ないかと見れば、今までこの場に都を興してから、先月の魔竜襲撃を除けばほとんど争いのなかった楽園にとって壊滅的なダメージであるとしかいいようがないものだ。

「ええいっ。なにをやっているのですか! ひるまずいっせいにかかりなさいっ!」

 バルバラは勇ましくも馬上で扇を鞍に激しく打ち据えながら、声を嗄らして三軍を叱咤するが、状況はジリジリと押され気味だった。

 市庁舎を破壊され、大通りと魚蔵を放棄し防戦を続けたがタンガニカはまるで水精霊(セイレーン)たちとの戦いをレクリエーションかなにかを楽しむかのように、巨体をねじって進撃を続ける。

 彼は、射かけられる矢にすらボール遊びを楽しむ童子のごとき目を向け、凶暴過ぎる髭を鞭のようにひたすらしならせ、ぴしりぴしりと叩き落とし「ん。次はまだかな」といったように、不自然過ぎる間を作ってみたりするほど余裕があった。

 バルバラは破壊された家屋の瓦礫に陣地を構築し、騎士団の残存兵力百余騎を込め、魔術や投擲武器を投入しタンガニカに必死の抵抗を続ける。

(なんで、なんでこんなことに……!)

 つい、ほんのちょっと前まで。バルバラの体感時間からして、そう、それは昼前くらいのことだったが、そこまで遡れば確実に自分はしあわせだったと胸を張っていえる時間だったのに。

 バルバラにとって蔵人の第一印象はとてもではないが、いいものだったとはいえなかった。

 正直なところ、水精霊(セイレーン)であるバルバラにとって男女の美醜はそれほど重要ではなかった。なにせ、同胞は自分から見ればだが、たいして代わり映えのしない同じような、そう、極めて画一的なものであったし、それがどのように悪いとはいわないが醜いとは感じないものの、心を強く揺り動かすたぐいのものではなかった。

 この蔵人という男。かつての初恋の君であったヒドゥンに比べれば、どう考えても繊細かつ心を揺り動かす造形ではなかった。

 とにかく浅黒く、髭、という男にしか生えない不格好なものが顎のあたりに目立った。瞳はどこを見ているかわからないほど茫洋としていて、眠たげだったしこちらを見る下卑た目線は、すぐに胸と腰のあたりにそそがれているのがわかるほど稚拙で野卑なものに思えた。

 評価が一変したのは大鮫から救われたとき、彼が見せた一点の曇りもない微笑みだった。

 白く大きな歯がニッと剥き出しになり、幼児のように屈託なくゆるんだ顔を見たとき、もう頭のなかがどうにかなったとしか思えないほど、情念の火で埋め尽くされていた。

 常に頭のなかが酔ったようにぼうっとし、あのときの勇姿が頭のなかをチラついて離れなくなった。

 次に己のなかに現れたのは酷く醜く浅ましい暗い欲望だった。

 ――彼が欲しい。

 シンプル過ぎて笑ってしまうほど下賤な考えだった。目をつむるだけで、蔵人のたくましい胸に抱かれる自分の裸身が浮かび上がり、掻きむしりたくなるほど胸のなかに、細かな燃えたぎったイガイガしたものが次々に生まれ、気がおかしくなりそうだった。

 蔵人の声を聴くだけで滑稽にも身悶えして床の上を転がりたくなり、とうとう自分でもおかしいと思う方法――つまりは、妹に命じて薬を料理に投じ、閨に誘うことに成功したのだった。

 それから先の、ただひと晩のことであったが、すべての記憶は官能と甘美な衝撃で塗り尽くされ、時間を飛び越えたような気すらした。

 己のなかに彼の分身が炎のように投じられたとき、もう、この瞬間にすべてが終わってしまってもいいように思えた。

 その時点で、彼になにかしら恋人がいるなどとは夢想にも思わず、このままずっとこの都で永遠にいっしょにいられると信じて疑わなかった。

 それが今はどうだ。今、この瞬間のバルバラは、奇妙なほど大きい巌のような怪物である魔竜タンガニカに追い詰められ生死の境をさまよっている。

 自分は、そばにいる騎士たちや守らなければならない民衆のことを第一に考えなければならないのに、心を占めているのは蔵人が今無事でいるかどうかという一点だった。

 だが、バルバラの夢想も長くは続かない。瓦礫のトーチカに向かってタンガニカの放った巨大な石くれが、がおんと轟音を響かせ砂煙を上げた。

「女王さまっ。手負いが多すぎます! ここはもう長く持ちませんっ」

 騎士のシェリーが額を切ってぐったりとしている同胞を抱えながら引きつった声で叫んだ。

「ああっ。もう、リーチャさえいればもう少しなんとかなりましたのにっ。あの子はどこにいったのですか!」

 なにもかもが崩れ去ってしまった。意図した行動ではなかったが、バルバラは癇癪を起して瓦礫の壁から上体を起こした。

 狙ったように――石。

 バルバラの視界が目の前に迫る巨大な弾丸を捉え、死を覚悟したとき、横合いからつむじ風のように金色の影が流れ、瞬く間に地べたへと引き倒された。

「馬鹿者がッ! 不用意に立つとは死にたいのかえ!」

「あなたは……」

 バルバラの危機を救ったのはドロテアだった。つい先ほどの闘争ののち、姿をくらましていた彼女はいつの間に騎士たちの集団に合流したのか、見事な動きでタンガニカの放る投石から女王たるバルバラの命を救ってみせたのだった。

 ――が、さすがに無傷とはいかなかったのか。ドロテアはかばった際に左肩を大いに傷つけられたのか、激しく割られて赤々とした少なくはない血を流していた。ドロテアの表情。激しい苦悶が刻まれ、白い額にはびっしりと脂汗が浮かんでいた。

「な、なぜですか」

「なにがじゃっ。今はそんなことを話しておるばあいじゃなかろうに!」

「だって、あなたは先ほど私のことを泥棒猫だのなんだのって罵ったじゃないですか!」

「確かにそうじゃ。お主は、わらわの目の届かぬところでクランドに手を出した憎いやつよ」

「だったら、放っておけばいいなじゃいですか」

「はっ。そうもいかんのじゃ。お主にはの。まだまだいい足りない文句が山とあるのじゃ。それにの。死んでしまえば喧嘩もできんじゃろうが。わらわは、そんなこと、死ぬほど気に食わん――っと、今人が話をしておるのに小うるさいやつじゃのうっ」

 ドロテアがだだっと瓦礫の山を駆けあがって、頂上に立つ姿が映った。

「地震をたんと起こして怖がりのわらわをよくもまあ追いつめてくれたの。こいつは、お返しじゃ。遠慮せんでたんとあがるがよいわっ。火炎巨大壁(フレイムウォール)ッ!」

 ドロテアの後頭部でシニヨンにまとめていたヘアピンが吹っ飛んで、長い金色の髪がパッと放射状に広がった。

 両手を頭上に突き出したまま、渾身の魔力を込めて放たれた凄まじい紅蓮の炎は、ゴーゴーと唸りを上げて巨大ビルと同等の大きさを持つタンガニカに襲いかかった。

 火炎巨大壁(フレイムウォール)は火属性魔術でも中級に位置し、その火力は範囲や強度たるや、水の都で能力を著しく減じられている今でも十二分に強烈だった。

 オレンジの壁が地べたを舐めつつ、破砕した家屋の木材や石の破片を瞬時に蒸発させつつ黒の魔竜を押し包んでゆく。

 ぎゃあっと。

 腹の底に響くような悲鳴を上げてタンガニカは狂ったように髭の鞭をびゅんびゅんと見境なしに振るいまくった。苦し紛れに両手を振り回す子供のようだ。

 狙いすらつけずに街のあちこちを打つしなった鞭の衝撃は、半ば崩れかかった家屋を虚空に舞い上げ、どおんどんと野砲を叩き込んだような破裂音を響き渡らせた。

「や、やりましたの……?」

 バルバラがぽつりとつぶやくと、傷ついた水精霊(セイレーン)騎士団の面々に生色がわずかながら戻った。

 炎のうずに全身を焼かれたタンガニカは、怪獣映画よろしくずーんずーんと地響きを残して後退していった。

「いや。ダメじゃ。悔しいことに、これでは目くらまし程度じゃの」

 そう悔しそうに言葉を吐き出すと、ドロテアの身体はぴんと硬直して、そのままぐらりと後方に倒れ込み、瓦礫の山をすべり落ち、ピクリともしなくなった。

 バルバラはドレスが汚れるのも厭わず真っ先にドロテアへと駆け寄ると、すぐさまそばにいる騎士たちを呼びつけて治癒魔術をかけさせ出した。






 ずうんずんと、身体の芯まで響き渡る地鳴りを聞いて蔵人は脚を止めた。前方には、やはりというかリーチャから聞いていた巨大な魔獣の存在を認め噛み締めた歯がガチガチと小刻みになった。

 タンガニカだ。かの魔獣は家屋が軒並み破壊されて視界が開けた平地の彼方をゆっくりと移動していた。

 強敵である。

 巨大な敵と戦うのははじめてでないが、これほどの体格差があるとなれば智嚢を振り絞る必要性がある。魔竜タンガニカはそのくらい、蔵人の人生のなかで積み上げてきた常識を残らず壊してしまう異形なるものだった。

 かつて、暇な学生だったとき、蔵人は近所のレンタルビデオショップで格安のB級モンスター映画を借りて見るのが趣味だった。

 空想上、あるいは現代映像の髄を凝らしたCGで描かれる巨大モンスターは、カーペットの上で寝転がりポテチを齧りながら横目で見ていても、その大きさや恐怖感はいまいちピンと来なかった。

 しかし実際問題、こうして非現実的な映像を自らの目で見、その巨大な生物が発する臭気を存分に嗅ぎ、ガンガン響く音を耳朶に染み込ませる今となっては人間の想像力の限界を感じずにはいられない。

「やはり、久々に見ても信じられない大きさだ」

 蔵人の隣に並んだリーチャが無理やり引き出したようなか細い声でいった。ポルディナは押し黙ったまましっぽと犬耳を天に突き立て、ミリアは恐怖のあまり蔵人の背に隠れた。

「なにか、様子がおかしいな」蔵人がいった。

「たぶん騎士団のみなが頑張ったのであろうが……。タンガニカの再生能力は並はずれている。たいした時間もかけずに自己治癒して再び街を荒らしまわるに決まっている」

 さすがのリーチャもこれっぽっちの人数で仕掛けるには躊躇したのであろうか、声も身体も硬さがあった。

 が、ここに至ってはうじうじ悩んでいる暇はない。かの怪物を一秒でも永らえさせれば、それだけみなに命の危険が迫るのだ。

 蔵人の脳裏に、弱々しく身を寄せ合って恐怖に震える水精霊(セイレーン)の姿が鮮やかに浮かび上がった。

 手には、いつも佩いている聖剣〈黒獅子〉の代わりにミリアが持参したドロテアの愛剣であるアスカロンがあった。

 かつて凄腕の冒険者であり技量では完全に蔵人を上回っていたイカロスが使っていた逸品だ。鞘からすらりと引き抜くと、凍りついた雪のような白さの刃が目にまぶしい。

「迷ってる暇はない。リーチャ、ポルディナ。フォロー頼む」

 巨体を目にして自然と起こっていた身体の武者震いがピタリと止まった。ここ一番の糞度胸と決断力だけはピカイチだ。

 蔵人はアスカロンを水平に構えると、怒声を発しながらタンガニカに打ちかかった。

 なにせ相手は五階建てビルほどの体高を持つ巨獣である。蔵人は今までの格闘経験と不死の紋章《イモータリティ・レッド》の力で超人に近い身体能力を獲得していたが、さすがにこれだけの高さを跳躍することは不可能だ。

 よって彼にできる攻撃手段といえば、巨大な敵の足回りを著しく傷つけ、頭部あるいは胴体の急所に近づいたところで致命傷となる一撃を喰らわせる、まさしく賭けに近い戦い方しか許されていなかった。

(こいつ、手負いだ――しかも、軽くねェ)

 近くによってはじめてわかることもある。タンガニカはかなり深い火傷を負っており、動きにキレというものがなかった。

 打ちかかろうと前のめりになったとき、ひゅんひゅんと風を裂く鋭い音が耳元で鳴った。

 まず、蔵人を迎え撃ったのはタンガニカの下顎に生えている強靭な四本の口髭だった。

「うおっと!」

 びしゅん、びしゅんと。

 鋭い鞭がしなって、頭上から間断なく烈風を巻いて襲いかかってくる。

 蔵人はすんでのところで髭の鞭をよけると、抉られた地面から吹き飛んだ細かな土の炸裂音を聞き背筋を凍らせた。

 髭そのものが異常に太く人間の身体ほどもあるのだ。これでは斬りつけるどころの騒ぎではない。後方に飛び退って体勢を整えると同時に巨大な影が飛翔するのを見た。

 巨大な岩だ。軽トラックほどある巌は砲弾から打ち出されたように宙を舞うと、無防備だったタンガニカの横っ面にへとモロにぶつかった。

「今です、ご主人さまッ」

 見ればはるかうしろで大岩を担ぎ上げるポルディナの勇姿があった。八百キロ近い岩を横合いからぶつけられては魔竜もたまらず嫌がって唸り声を上げる。

 蔵人は素早く口髭をかいくぐって接近するとタンガニカの胴へと思うさまアスカロンを狙いもつけずに叩き込んだ。

 はじめは、ぬるり、と手ごたえのなさを感じ全身に悪寒が走ったが、すぐさま固い皮膚にたどり着き、それはもう思っていた以上に切れ目を入れることに成功した。

 びちゃびちゃどちゃどちゃと。緑がかった体液がドッと流れ出て蔵人の膝のあたりをしとどに濡らした。

「やった――ぜ?」

 一瞬の油断だった。油断したつもりはなかったが、背後から迫った口髭の速さは剣を構え直す暇も与えず蔵人の身体を易々と絡め取った。

 ぎりぎりとナマズの口髭は蔵人の身体から雑巾から最後の一滴まで水気を搾り取る勢いで締めつけを行った。

 視界が赤く明滅し瞳が激しく霞んだ。息ができない。それどころか、内臓が残らず絞り上げられ口から身体の中身が残らずこぼれ落ちそうなほどの痛みだった。

(しまった。くそ、えれぇドジを!)

 血管が詰まって脳に酸素がいかなくなったのか、すべての感覚がゆっくりと鈍っていく。

 意識が濁る、手にしていた長剣をぽろりと落としてしまう。

「まだだっ! 諦めるな、クランド――!」

 鮮烈な気合の籠った声に、薄れていた意識が明瞭になった。

 蔵人の足元、はるか地上にはレイピアを構えたリーチャとポルディナが地を飛ぶようにして駆け寄っていた。

 ふたりの運動能力は蔵人よりもずっとすぐれていた。彼女たちは、びゅんびゅんと唸りながら振るわれる口髭をかわしながら、あっという間に距離を詰めた。

「ぜっ――せいっ!」

 リーチャはレイピアを精妙に動かすと、驚嘆すべきことに迫った口髭の一本を見事なまでにすぱりと切断した。

 わずかばかり蔵人の身体を締めつけていた髭の圧力が弱まった。

「だっ、あああっ!」

 ポルディナは普通の人間ではない。戦狼族(ウェアウルフ)という戦闘に特化した獣人だ。彼女は地を蹴って、ほとんど人間の限界を超えて跳躍するとタンガニカの瞳に向かって両腕を肩のあたりまでずぶりと突き入れた。ケタはずれた膂力とスピード、それに鋭い爪を持つ彼女だからできる荒技だ。

 同時に拘束が解けた。自由落下する蔵人に向かってリーチャが回収したアスカロンを放った。奇跡的なタイミングで蔵人は長剣を引っ掴むと、落ちるスピードとパワーを利用してタンガニカの顔の側面を長々と切り裂いた。

「離れるぞっ」

 いうが早いかリーチャがその場を走り出す。

「失礼しますッ」

「お、おおっ、あわっ」

 蔵人は地面に腰を打ちつけるや否や、素早くポルディナに抱きかかえながら魔獣からの距離を取った。

「くそっ。やるじゃんか、リーチャ」

「気をつけろ。やつは体当たりを狙っている」

 タンガニカはもはや小細工をする気もないのか、時計回りに身体を動かすと蔵人たちに真っ向から向き直った。

 今までは一方的に側面から攻撃を仕掛けていたのだが、これからは違う。四つに組んでぶつかり合おうという気構えなのだろうか。

 蔵人は胃のあたりから這い上がってくる血の塊を飲み下すことができず、ぼうえっ! と濁った声を上げてあたりに朱をぶち撒けた。

 想像以上にダメージが大きすぎた。

(くっそ。プレスで腹のど真んなかを圧縮されたみたいだぜ)

 不死の紋章《イモータリティ・レッド》の力は機能しているので、それほど時間をかけずとも回復するだろうが、どうにも手や指に力が入らない。

「ご主人さまっ! ここは私が引き受けます。しばし引いてくださいませっ」

 ポルディナは覚悟を決めた目でかばうように前に出た。

「ばっきゃろ……んなことできるわけ」

「意地を張るなクランド! 今、ここで全員やられるわけにはいかないだろう。残るのなら私こそが――」

 全員がいい争っていると、離れた場所から血なまぐさい殺し合いの場に似つかわしくない妙なる調べが聞こえてきた。

「こいつぁ、歌か」

 視線を動かすと、そこには立ったまま胸の前で祈るように手を合わせたミリアが呪力の籠った歌を奏でていた。

 人間の喉から出ているとは思えない声量だ。遮蔽物のない屋外でさえこれほどにまで響き渡る呪歌は、彼女の実力が尋常一様でないこと如実に一同へと知らしめた。

「ミリア――。そうだ、彼女は水精霊(セイレーン)のなかでも指折りの歌い手」

 リーチャが安堵したようにいった。

 水精霊(セイレーン)の呪歌は、脳のある生物にはだいたいのところ通じる。

 ミリアがこの場でタンガニカに向けたものは〈ねむりのうた〉であり、完全ではないにしろ動きを封じることに成功した。

「とにかく一旦引くぞ」

 リーチャが雄々しく主導権を握りながらみなを先導する。よろばうように姿勢を崩していると、ポルディナが駆け寄って脇に頭を入れてきた。情けないが、身体のあちこちの骨がへし折られていて上手く力が込められない。

「ご主人さま、お気を確かに――」

 戦ってみて痛感した。リーチャのいうとおりだ。このまま勢いで打ちかかっても、運否天賦で斃せる相手ではない。

 蔵人は痛む脇腹を抱えながら、背後に佇んでいる様相の魔竜を見て、激しく舌打ちした。

(あ? どうしたんだ)

 視界の端。すでに遠ざかっているタンガニカの身体が奇妙にぶれたように思えた。

 数瞬のち。それは錯覚でないと知れた。眠りに落ちていたタンガニカの身体が、ずぶずぶと地面のなかへと埋まってゆく。

 なにか、よくないことが起こる。それは直感だった。蔵人は、ポルディナの頭を叩き動きを停止させた。それから憑りつかれたように魔獣から目が離せなくなった。

 ――そして、その予兆を感じ取り、全身の毛がぞわりと逆立つのを感じた。

 タンガニカはすでに巨大のほとんどを地面のなかに埋没させ、ちょっと見はナマズが沼のなかでのんきに寝そべっているように思える。事実は、凶悪過ぎる一語に尽きた。

 どおんと大地が鳴るのを聞いて、蔵人は崩壊の先触れに気づき胆を抜かれたように立ち尽くしたが、やがて続けざま起こった揺れによって大地が割れていくのを実感した。


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