Lv252「流れ星は塵と砕けた」
虎がメリアンデールを喰おうとしている。蔵人が逆上するのにそれ以上の事実は必要なかった。
闘技場の入口を蹴って駆けた。瞬間、己が身の重みを忘れた。
なにもかもが目に入らない。世界の風景があぶった飴のようにぐんにゃりと溶けた。
蔵人は、座り込んだメリアンデールと虎の間に割り込むと、重たげな爪の一撃を棍棒で受けた。
足首まで地面に埋まりそうな、重たい一撃である。反射的に前蹴りを放った。
どむ、と古タイヤを蹴ったような感覚だ。足の裏に全身全霊の力を込めた。虎は、勢いを殺すためか、その巨体に似合わぬふわりとした動きで背後に飛び退ると姿勢を低くした。
「怪我ないか。メリー」
「クランド……!」
腰に抱きついてくる。視線を外している余裕はない。頭上における混乱は猖獗を極めていた。
後方には、たぶん、ヴィクトリアがいるのだろう。多数の騎士団が鎧をカチャカチャすり合わせながら密集している。
その集団を裂くようにしてポルディナたちが駆けてきた。手に手に得物を携えている。助太刀しようというのだろうか。彼女たちの瞳にはギラギラと闘志がみなぎっていた。
「ご助成します」
「いらん。おまえらは、上に登って雑魚どもを屠ってろ。それから、通路にもイカレポンチが充満してる。そっちを排除するのに専念してくれ。この虎野郎は俺が喰う」
蔵人の命令は絶対だ。このような状況で、真実、主の元を離れるのは心苦しいのであろうが、ポルディナは率先して皆を説いて、隊を、観覧席排除組、南通路排除組の二手に分けた。
観覧席排除組のリーダーは、ポルディナ。メンバーに、アルテミシア、ヒルダ、メリアンデール、ネリー、ドロテア。
南通路排除組のリーダはー、ルッジ。メンバーに、レイシー、カレン、リザ、ルールー、ハナ、である。
「クランドさま」
「おう、気をつけていけよ」
蔵人は預けていた相棒の黒獅子をルールーから受け取ると、一撃でささらのようになった棍棒を放り投げた。
「で。準備が終わるまで待ってくれるとは随分と余裕じゃないか。ゴドラムさん」
「おまえは、今までのやつと少し違うな。危険なやつだ」
「そら、どうも」
「それと、別におれは待ってやったんじゃねえ。クク、どうやらあのヴィクトリアのズベ公はよ。おまえのことをやたらと心配してるじゃねえか。躍起になって、騎士どものケツを引っぱたいてるが、ちいとも動こうとはしやがらねぇ。このフラストレーションをよ……」
虎は、グッと両拳を握って溜めを作った。
「限界にまで引き上げて、テメーを完膚無きまでにぶち壊す。最高のシチュエーションじゃねえかよ……! 燃えるぜ。光栄に思えよ、下衆下民。おまえは、いやしくも、このゴドラム教団十三司祭にして第五位である“憤怒”のフンベルトさまに潰して貰えるんだからなァ!」
「待ちな、大物さんよ」
「そんな小僧を相手にする前に」
「まず、我ら三人と立ち合ってもらおうか」
ここで、とき至れりと飛び出したのは、大会本戦で惜しくも敗退し涙を呑んで優勝を逃した、レモネード、マルチャーノ、レジスの三人だった。
彼らは得意の武器である、棒術や槍術、徒手格闘の技術をかの怪物へと思う存分発揮しようと打ちかかったのだ。彼らが、今の今まで沈黙を守っていたのは、この絶好の機会を得るためであったのだった。
正直なところ、彼らはメリアンデールが一度も戦わずに優勝したことに対して、なにひとつ納得していない。誰がどう見ても棚ぼた的勝利なのである。
事実、あの状況でゴドラム教団の横槍が入らなければ、後で事実をどのようにもいい繕って己の名声を喧伝し仕官の道をいかにも切り拓けたはずであったが、先ほどのメリアンデールがアポカセリを華麗に撃退したことで、優勝の二文字を補強してしまった。
後方では、先ほどまで冷静さを失わなかった、代理領主であるヴィクトリアが我を乱して騎士たちに突撃を命じてある。彼らは、彼女が掌中の玉である蔵人の出現に心をかき乱しことを、ついに緊張の糸が切れたのだと判断してしまった。それは、誠に不幸な結論づけではあった。
「イキるなよクソ雑魚三人衆が。いいぜ、ウォーミングアップだ。かかってこいよ」
フンベルトは、ブラッド・タイガーという凶暴な虎系モンスターの霊を己に憑依させて、その力を降ろした文字通りゴリゴリのパワータイプファイターである。
元々大柄であった肩幅は倍ほど広がって衣服を裂き、上半身は虎特有の黄地に黒い縞模様が走っている。顔は、完全に野生の虎そのものである、指先にも人間の身体などは紙のように切り裂いてしまう鋭い爪が伸びていた。
レモネード、マルチャーノ、レジスの三人は互いを頼みにしているのか、虎化したフンベルトを囲んだまま連携して攻撃する素振りを見せなかった。先に動いて、余計な隙を見せるよりも、まずは自分以外の様子を見て行動に移るという至極消極的なものである。
マズイな、と蔵人が感じたときはすでに遅かった。フンベルトは、音も立てずに地を蹴るとレモネードの脇腹を駆け抜けていた。
「なーんだ、これ」
「え、あ、え?」
フンベルトが手にした赤黒いものを宙に差し出している。力強く脈打つそれ。レモネードが素早く己の胸の中央部に視線を移す。
そこには、果実の種を取り出す際、綺麗にくりぬいたような穴が、ぽっかりと空いていた。フンベルトがレモネードの心臓を盗み出したのだ。誇張ではなく。
「き、キサマ!」
「チョー!」
がくりと倒れるレモネードを尻目にようやく槍使いのマルチャーノとレジスが動いた。
が、なにもかもワンテンポ以上遅かった。
マルチャーノが得意にしていた槍の一撃は、あっさりとフンベルトの巨大な手のひらで押さえられるとへし折られ、猫が蠅を叩くような軽い振りの一撃で、首ごともぎ取られた。レジスは飛び蹴りを口元で受けられると、あろうことか、棒菓子を噛じられるようにムシャムシャされて、足首からふくらはぎあたりを悶絶しながら咀嚼され、地に放り投げられたあと、頭を足で踏み潰された。
「ようし、準備運動は終わりだぜ、兄ちゃん。次はメインディッシュと行こうか」
「で、アースペインはどうした」
「あ? そりゃ、どういう意味だよ」
充分な恐怖を植えつけたつもりだったのか、フンベルトは瞳を赤く濁らせた。今しがたの惨劇を意に介さず、フンベルトという存在を意に介さない蔵人にいらだちを隠せない様子であった。
「あいつがいたら厄介だったなって思っただけだ。さ、じゃ、遊んでやるよ。子猫ちゃん」
「ふ、ざけるなよ――!」
途方もない重量を持つ弾丸がまっしぐらに向かってくる。黄地に黒縞が溶け合って、それはみるみるうちに鼻先へと迫っていた。
蔵人は黒獅子を抜くと、フンベルトの両腕をガッキと受け止めた。押される。押されてゆく。まず、体重の差が比べ物にならないほど違うのだ。紙装甲で戦車の砲弾を防ぐようなもの。
が、蔵人はそれを懸命にやってのけた。カカトに全力を込めて踏ん張った。ずずずと、土煙が舞って身体が後方へと動いてゆく。蔵人は全身の筋肉がみちみちとしなり、収縮し、鳴るのを聞いた。フンベルトは凶悪な顔面を口だけにして牙を突き立てようと迫ってくる。
不意に力をゆるめ、パッと横に飛び退いた。それくらいは読んでいたのだろうか、フンベルトは異常にやわらかい筋肉を使って間断なく攻撃を浴びせ倒してくる。強烈な攻防がはじまった。
フンベルトの主な武器は、両手の爪と白く尖った牙だ。蔵人は器用に長剣を閃かせると打ち合いを行なった。敵の爪は長く鋭いが黒獅子も負けてはないない。斬撃の応酬を続けていくうち身体中はみるみるうちに裂傷で埋め尽くされてゆく。
しかし、この程度は問題ではない。胸元にある不死の紋章が即座にリカバーしてくれる。本来の獣の毛皮というものは酷く丈夫なものだ。素人が刃物を使ってもそう簡単には肉まで届かせること自体なかなかできない。もっとも蔵人は斬人の技術に関しては人語に落ちるものではない。どのようにして刃を使い、どのようにして力を込めれば斬り裂けるか熟知している。この点が、フンベルトの不幸であった。
呼吸をする暇もない。一瞬でも気を抜けば、地に転がるのは自分自身なのだ。息苦しさが迫ってきた。全身が燃えるように熱い。心臓が締めつけられるように苦しくなってゆく。真剣とは異常に重いのだ。それを使っての斬り合いとなれば、これはもう、精神力以外に頼れるものはない。一度、緊張の糸を切ってしまえば、内臓されたエンジンは極寒の外気に晒されたがごとく、瞬く間に凍りついてしまう。
イメージだ。イメージしろ。熱く火の塊を吹き出しそうな躍動する鉄の機械を。ドッドッドッと心音が耳について離れない。異様なかけ声が喉からほとばしった。
蔵人は長剣をフンベルトの右腕へと叩き込むことに成功したのだ。切り離す時間は刹那であろうが、割り裂く作業映像がコマ送りのように脳内へと置換されてゆく。
ぎちぎち、と。筋繊維の一本一本を引き裂くようにして、腕を斬り落とした。ドッと互いに飛び退って距離を取る。フンベルトは、地面に叩きつけられた右腕をしばし呆然と見ていた。六歩で届く距離である。
途端に周囲の喧騒が戻った。頭上の観覧席では、未だに避難と格闘が行われている。音が戻ったとはいえ、大きくはない。蔵人とフンベルトを包み込むわずかな空間だけが、音を絞られている気がするだけだ。胸の痛みはもうなかった。腕も、足も、全身も。たかだか数十秒の攻防で相当に疲れきっている。
蔵人は、剣を正眼に構えると、すすと右方に動いた。虎は、四足獣が獲物を狙うときのように、身体を地面へとべったり腹ばいにさせて、背中の骨をグイとしならせた。
来る。そう思ったときには飛んでいた。蔵人は、フンベルトの左腕の突きを綺麗にかわすと、地面に剣を持たない片手を突いて回し蹴りを浴びせた。予期せぬ攻撃に横っ面を蹴られてバランスが崩れる。おお、と裂帛の気合を込めて突きを放った。蔵人の片手突きは、フンベルトのガードした腕を通過して、胸元を抉った。
だが、致命傷には至らない。突きと同スピードで引き抜くと、自分から転がるようにして倒れ込む。倒れながらも素早く黒獅子を使った。黒く艶やかな刀身はフンベルトの左腿を深く割って血潮を舞い散らせた。
ゴロゴロ転がりながら弾みをつけて立ち上がる。すでに虎は拳を振り絞っていた。今のはかなり深く入ったはず。思うよりも痛烈なボディブローが腹に入った。内蔵が消し飛んだような痛みだった。それでも剣を放さなかったが、大きくぽーんと吹っ飛ばされた。
追撃が来る、と思いながら喉からほとばしる血潮と痛みを耐えて立ち上がった。けれども、フンベルトは、大きく片膝を突くとごえっごえっと吠えながら、赤黒い吐瀉物を吐き出していた。
「ずい、ぶんと。やるじゃねえか」
「オメーこそな」
「ケッ。生臭い坊主どもや、うすっ気味悪いアースペインより喰いごたえがあらぁな」
「時間稼ぎか? だったら意味ないぜ。タフさなら、俺のほうが上だ」
「なら、試してみるか。この憤怒の二つ名は伊達じゃないってことをよ……!」
フンベルトはそういうと、おおん、と高らかに吠えながら身体を大きく開いた。
途端に、虎の毛皮が紅に染まる。目の錯覚かと思う程度であったそれは、徐々に色濃くなってゆくと、全身から真っ白な蒸気が立ち昇った。
やれやれ。ここに来てお決まりのパワーアップですか。愚痴をいう間もなくフンベルトは真正面から飛び込んできた。愚直すぎる。ある意味、今まででもっともわかりやすい戦いかたをする的だった。
ぶおん、と耳元で拳が唸った。さけることができたのは、虎の瞳が忙しくなく動いていたのと、彼の鼻が細かに蠢いていたからであった。自分の行なった攻撃は無駄ではなかった。フンベルトは短時間に多量の血液を失っていたので、視力を著しく減じていたのだった。
鼻がよく動いていたのは嗅覚でこちらを探そうとしていたのであるが、濃い血を嗅ぎすぎたせいで、彼の嗅覚もまた使い物にならなくなっていたのだ。
フンベルトの振るった拳は地に突き刺さると、火柱を立てて細かく土砂を巻き上げた。けれど、ここに至っては、そんなものは児戯に等しい。
蔵人は両手で黒獅子を再度握り込むと、電光石火の勢いで振り下ろした。刃はグサリ、と虎の肩口に食い込み、ずずずと胸のあたりまで埋まった。さすがロムレス三聖剣に数えられるひとつである。うおう、とフンベルトが悲しげな声で鳴いた気がする。
「悪ぃな。これ以上つき合ってらんないんだわ」
蔵人は、あばよ、と一声告げると、輝く陽光を反射させながら剣を斜めに動かした。
刃は据え物斬りをするように跪いていたフンベルトの首をすっぱり切断すると、火炎のように真っ赤な血柱を出現させて、虚空に紅蓮の華を咲かせた。
「勇者さまっ!」
顔を上げると白いドレスを引き上げながら、騎士を伴って駆け寄るヴィクトリアの姿が見えた。
「おお、なんという無茶なことを。もし、なにかありましたら、私はどうすれば……!」
ヴィクトリアはレースの手袋が汚れるのも構わずに、血と泥で汚れ切った蔵人の顔を両手で包み込むと、胸のなかへかき抱いた。やはりわかっていたがぜんぜん膨らみがない。だが、彼女の熱い心音が聞こえてきて、闘争で疲れきった蔵人の心は少しだけ癒された。
「見ろ、ヴィクトリア。こいつは闘技場で暴れまわってるゴドラムたちの親玉らしい。頭が潰れたってわかりゃ、敵は勢いを失うはずだ。あとは、頼んだぜ」
「お任せ下さい。手ごわい十三司祭さえ討ち取ってしまえば、あとは時間の問題でございます」
ヴィクトリアは騎士たちの主だったものを集めると、闘技場中へとフンベルトたちが打ち取られたことを触れ回させた。これにより、荒れ狂っていた狂信者たちの動きは目に見えて鈍っていった。元々の兵力差も違う。ゴドラム教徒たちは、混乱から立ち直った騎士たちによって投網をかけられた小魚のように一網打尽にされつつあった。
蔵人は腰を引き引き、観覧席に向かっていた。フンベルトの攻撃は強烈だった。痛みがあとを引く、というやつである。強烈な緊張が途切れたせいで、斬り合いのときには感じなかった疲労がドッと吹き出してきたのだった。
こうしている間にもポルディナたちは頭上で邪教徒の群れと死闘を繰り広げているのだ。
――大ボスを倒したからってそれでなにもか解決ってわけにはいかねーみてーだな。
「ああっ。お許しを。命だけはお許しをっ」
「ママー」
狭い通路を進んでゆくと、まだ若い子連れの婦人と鉢合わせになった。身なりのよさからいえば貴人であろう。婦人は血塗れになって歩く、落ち武者同然の蔵人を見てゴドラム教徒だと思ったのだろう。その場に跪くと、少女を背中にかばって額を地にこすりつけんばかりに拝みだした。
蔵人は、ふうとため息を吐くと、アルテミシアからもらった白十字のネックレスを掲げてみせた。特にロムレス神を信仰しているわけではないが、この、ロムレス教でも一部の信者にしか持つことを許されない象徴は、あらゆる場面で覿面に効果を見せた。
「あなたは、あなたもロムレス信徒なのですねっ。お願いします、騎士さま! この先で我らが同胞のシスターと兵士さまが邪教徒の手にかけられようとしてしいます。なにとぞ、なにとぞお助けくださいまし!」
「わかった。この先だな」
「おお、あなたさまにロムレス神のご加護があらんことをっ」
蔵人は疲れた身体を引きずりながら婦人が指差した方角へと進んだ。同時に、獲物を探していたゴドラムの狂犬が二匹ほど迫ってきたが、危なげもなくさっくりと斬り伏せた。男たちは、胸元と喉を鋭く抉られながら通路の壁にぶつかって動かなくなる。
大きめの部屋のなかから金属がぶつかり合う音が聞こえてきた。ヒョイと首を突っ込んで見ると、そこにはヒルダとそれを守ろうと奮戦しているクリスの健気な姿が飛び込んできた。
「クランドさんっ!」
「アンタは……!」
「おう。うちのが面倒かけたな。ここいらで選手交代だ」
いうが早いか蔵人は手にした黒獅子を力いっぱいこちらに背を向けていた男の頭部へと振り下ろした。スイカを割るようにして男の頭がいびつに弾けて崩れた。視線を素早く動かして残敵を数えた。
残り六人。手負いであっても今の蔵人にとっては鼻歌まじりで片づけられる数だった。
「あやあっ」
深くフードを下ろした男が正面から飛び込んでくる。蔵人はスッと身体を開いてかわすと、足払いをかけて転ばせた。同時に男の背中へと黒獅子を深々と埋め込んだ。男はしばしもがくが手首に力を込めて押すとすぐに動かなくなった。
「ぬおおっ」
「あああっ」
「――不意打ちのつもりなら声を立てないことだぜ」
両脇に回っていた男たちが剣を腰だめにして駆け寄ってくる。やはり、誰も彼も訓練を受けた人間の動きではない。
蔵人は腰を捻って黒外套を引き回すと、器用に男たちの顔面を鋭くこすった。一瞬、男たちの動きが止まる。蔵人はコマのように勢いよく回転すると、ふたりの脇腹を激しく斬りつけて斃した。
凍りついていた男が剣を上段に構えたまま迫ってくる。蔵人は、長剣を繰り出すと男の無防備な胸板を貫いて、一瞬で引き戻した。男は「あ、あ」といいながら胸元からしゅうしゅう吹き出る血潮を見続け、金魚のように数度口をパクパクさせると仰向けになって動かなくなった。
残ったひとりはどうしていいかわからず青い顔でその場に突っ立っている。蔵人は数歩で距離を詰めると、顔面目がけて剣を叩きつけた。眉間を深く割られて男は赤黒い血を散らしながら惨めに絶息した。剣を下ろすとクリスのそばにいたヒルダが首ったまに飛びついてきた。
「クランドさーん。クランドさん。怖かったよう、怖かったよう」
「悪いな。待たせた。けど、もう大丈夫だからな」
恋する女を救えなかった自責の念に駆られてクリスが青い顔でブツブツとなにごとかを呟いている。このまま、こいつを放っておいても心配極まりない。蔵人は、クリスがせめて己が身を守れる程度の自意識を回復できる時間は必要だろうと思い、ヒルダを抱きしめたまま扉の向こうを睨んだ。
「つまりは優勝したのはメリアンデール。でも、賞金は辞退した、と。結末はそういうわけだ」
「えへへ」
姫屋敷の一室である。
蔵人は、タンカで屋敷まで搬送されたヴィクトワールとシズカを見舞っていた。
メリアンデールは銀星杯を抱えながらはにかんでいる。師匠であるドロテアも、ぱつんぱつんの胸を張りながら我がことのように誇らしげだ。
「勇者さまー。聞いてくださいよ。お嬢さまたちったら、この怪我なのに歩いて帰ろうとするんですよー」
ハナが枕元で椅子に座りながらシャリシャリとリンゴをウサギの形へ変えることに余念がない。
ちなみに骨折自体は治癒魔術でかろうじてくっついているが、無理に動かせばポキリといくこともあるらしい。しばし絶対安静であった。
「この余計な怪我はハナに増やされたのだけれど、ね」
シズカが恨みがましい目でハナを凝視するが、面の皮が厚いのかどこ吹く風といったところだ。
「別に悪気があったわけじゃないんですよー。あくまで、お互いが納得できるように時間をかけてお話をしようと思ったんですけど。おふたりがあまりにワガガマをいうですから。ハナのこの手が勝手に動きまして。ほほほ。めっ、この手悪い子ちゃん。めっ」
ハナは自分の利き腕を叱りつつ左手でぴしぴし叩いて折檻をする真似をする。
ちょっと、いや、かなり痛い子である。いったいなにをしたのやら。ヴィクトワールはそのときのことを思い出したのか、ベッドの上で激しく震えはじめた。
「しかし、これで賭けはわらわの勝ちはゆるぎないのう。の」
「え」
「え」
ヴィクトワールとシズカがユニゾンでしらばっくれた。
気の短いドロテアである。たちまち白い顔に血を上らせるとぷりぷりと怒りだした。
「いまさら約束を忘れたとはいわさんのじゃっ! 大会上位入賞者が残りふたりの負け組に対してどんなことでも命令できるっ! 契約は必ず履行してもらわねば、筋が通らないのじゃっ!」
「あ、あいたたっ。き、傷が」
「痛い、痛いよ、クランドぉ」
ヴィクトワールが毛布を頭からかぶり、シズカは甘えた声で蔵人に助けを乞うが怒り心頭のドロテアさんに遮られなす術はなかった。
「チッ。さっさとなんでも好きなこと命令すればいいだろ」
「この駄エルフがッ」
「クランドぉ……! こいつら極めて態度が悪いのじゃあ。折檻してよう」
「こらこら、なんでもかんでも俺にケツ持ってくんなよ。それよりも命令権はドロテアよりもメリーにあるんじゃないか。事実、試合に出て頑張ったのもメリーだったし、そのゴドラム十三司祭のひとりを倒したのもメリーだったんだろ? 功績はほぼメリーのものだ。な」
「あ、あはー。そうですね、お嬢さま。メリアンデールさまなら、それほどドギッつい命令はなされませんよー。お嬢さまたちと違って」
「おい、ハナ。失礼だな! 私はそんな怖いことは考えていなかったぞ。せいぜい、シズカに今までの詫びを皆の前で入れさせるくらいのつもりだったぞ。……ちなみに、シズカは私にどんなことを命令するつもりだったんだ?」
「その、ペロペロ係を」
「ん? なんだ、そのペロペロ係とは」
ヴィクトワールがとまどったように首をかしげた。
「その、この屋敷の者が外出から戻ったときにだな。玄関脇に据えつけられたおまえが、皆の靴底の汚れをペロペロして綺麗にする限りだ」
途端に、室内へと殺意のうずが充満した。
「ああっ。ふたりが、今にも殺し合いをおはじめになられそうな雰囲気にっ」
「なーぜおまえは嬉しそうなのじゃ。ハナよ。ま、わらわがこやつらに命令できないのは残念じゃが。メリーはどうせ、ぬるくお茶を濁して終わりにするでしょうし」
ヴィクトワールとシズカが「まあそうだろうな」といったふうに弛緩した顔で枕元に頭を落とした。なんとなくまったりとした雰囲気だ。
「誰が、そんなぬるいことで済ませるといいましたか」
「え」
誰かが、いや、この部屋全員がユニゾンで理解できないというふうな声を上げた。蔵人は、メリアンデールへと視線を移した。彼女の顔は精巧な蝋人形のように硬直していた。
「そうですね。とりあえず、これから屋敷ではわたしに会ったらメリアンデールお姉さまとお呼びなさい。そして口答えは許さない。おやつは、百日間没収。月々付与されているお小遣いも百日間分はわたしの懐に納付してもらいます。それと――」
ヴィクトワールとシズカの顔がドンドン青ざめてゆく。蔵人にできることは、音を立てないように出口の扉へと近づくことだけだった。
「の、のう。命令はひとつだけにしてやれんのかのう? さすがにあのふたりだけばかりそのペナルティは厳しかろう」
「なにをいってるんですかドロテア。誰があなたを除外するといったのですか?」
半笑いだったドロテアの顔がぴきりと凍りついた。絶望の瞬間だった。
蔵人は、心底メリアンデールのことを恐ろしいと思った。
夜、寝つかれなくて床を出た。昼間はもはや汗ばむような陽気の日もあるが、夜になるとグッと気温が下がった。サンダルを履いて庭に出た。月が出ていた。明るすぎて目を伏せたくなるような月である。世界は静まり返っている。図書室の明かりも消えているということは、遅寝が習慣のルッジも白河夜船であろう。
たなびく雲の向こうに城壁があり、そのまた向こうに山が見えた。名も知らぬ山である。蔵人は月に照らされながら四阿をくぐって、小川のほとりに来た。不意に月が陰った。かさり、と音がして振り向くと、そこには寝巻きに着替えたメリアンデールが手桶を持って立っていた。
「お墓を作ろうと思うんです」
と、彼女はいった。彼女は銀星杯の賞金を辞退した。代わりに、ヴィクトリアに願った。
このお金で孤児院を作ってください、と。
一千万Pは大金だ。若いうちは、金よりも大切なものがいくらでもあると思いがちだが、実のところそうではない。金で人生の悩みの九分九厘は解決する。
「シトラスくん、いってました。僕は悪いことしたって。ふふ。そんなのあたりまえですよね。わたしだって悪いこといっぱいしてる。なのに、こうしてまだ生きてるんだもん。ねえ、クランド。わたし、まだ、生きてていいのかなぁ。自分ばっかりこんなにしあわせで、いいのかなぁ」
「ンなの、俺だって同じだ。悪党だって生きてんだ。なにがあったって生きてなきゃダメだ」
メリアンデールが無理をして笑っているのがわかった。彼女の口元はほころんでいるのに、瞳は酷く悲しげであった。蔵人は、流れる黒雲が月の光を覆うと同時に彼女の唇を奪った。キスはほんのりと涙の味がした。
蔵人たちは、小川のほとりに小さな墓標を立て、その根元へとシトラスが胸元に潜ませていた星型の石を埋めた。
石は、どこか強く打ち据えたのか、脆くなっていて、土に置くと同時に幾つかに割れ、砕けた。
「あ。流れ星」
メリアンデールがさびしそうに呟いた。蔵人は顔を上げて夜空を見上げた。あの星も何処かへ墜ちて砕けるのが運命なのだろうか。そう考えると、少し切なくなった。
頭上には銀色の星が瞬いている。目を閉じていたとしても、目蓋の裏にぼんやりと浮かんでくる有無をいわさぬ圧倒的な輝きだった。
寒いです。彼女がいった。蔵人は黙ったまま引き寄せた。
蔵人は、メリアンデールの肩を抱きながら流れ落ちる星のかなたを穏やかに見つめ続けた。




