Lv249「竜虎相搏つ」
――そして、ここにあいまみえた。
じゃん、とひとつ。銅鑼の鳴る音が、低く、遠く、かなたから聞こえてくる。
ヴィクトワールは剣を青眼に構えると、目の前のシズカを視界に捉えた。
いつもと変わらない表情だ。落ち着き払っているようだが、その実、剣を持つ手が毛ほどの震えで動くのが見えた。
ついに、ここまできた。はじまってしまう。惜しいような、すぐに済ませてしまいたいような不思議な気持ちだ。
大きく深呼吸をする。全身の感覚が研ぎ澄まされてゆく。視界はクリア。澱みはない。
煩わしかった群衆の歓声が聞こえなくなった。いや、彼らが黙りこくったわけではない。大音声の波濤は、コロシアムを揺るがすようにうねっているが、どこか間遠に響く。それを他人ごとのように聞いている自分がいる。
ゆらり、とシズカが半歩前に出た。待ちかねたように、ヴィクトワールも進み出た。模擬剣を握り締める。使い慣れたいつものものではないが、そんなことは枝葉にすぎない。
打ち合えるのだ。存分に。誰に止められることなく。ゾクリと、子宮を貫くような痺れが走る。
濃い官能の波動が、股下から脳天まで一直線に駆けてゆく。硬い軍用ブーツを履いて、足などはキチキチに固められているのに、一歩進むごと、真下の石畳の乾いた感触すら錯覚する。
審判が、はじめの合図をかけた。みん、と空間が詰まった。同時に、勢いよく闘気を全身からほとばしらせた。凄い。髪の毛の一本一本までが浮き立ちそうなほどの、濃い殺気だ。
「さあ、殺ろうじゃないか」
どちらの声だったか。瞬間的に爆ぜた。一撃で、魂を刈り取るほどの力を込めて、振るった。
狙うは正中線。頭から、股下まで綺麗に直線を引くイメージで振るった。
眼前で烈火が散った。シズカが水平に振るった剣が、こちらの唐竹割りを弾いたのだ。
手首どころか身体の奥底、芯から響く力だ。口元がだらしなくゆるんだ。
そうでなくては。そうでなくてはつまらない。
ヴィクトワールは足を止めて打ち合うことを望んだ。シズカも同じく、幅広にスタンスを取ると手元も見せぬスピードで剣を振るいだした。
彼女のイメージカラーである黒が、空気に溶けて水に落とした墨汁のように広がった。
シズカの剣は烈風だ。まったく、たいした力もないくせによくぞここまでの斬撃を。
術理を際限なく発揮できる。先の先を読むかのように、剣を合わせてくる。
たまらなくいとおしいやつだ。
的確かつ雷光のようなスピードで急所を狙ってくる。
楽しい。楽しいぞ、シズカ。
鉄と鉄が絡み合い弾けるたびに、瞳の奥で日輪が顕現する。
自分の腕が腕ではないような不思議な気分だ。
打てば打つほどに自己と世界が徐々に乖離してゆく。
秘術を尽くす。ありとあらゆる角度から、いかにして相手を断ち割ろうかと、その瞬間瞬間に、魂を振り絞って剣を入れる。
なにも聞こえなくなってゆく。弾む胸の鼓動と猛獣のような息の荒さがどこかへゆっくりと流れてゆく。ああ、同じだろう。おまえも、また苦しいのか。
絞り尽くす。
絞りきってカラカラになった雑巾に、己の命を染み込ませて、それを再び捻りに捻った。
――その少女の輪郭は、触れてしまえば消えてしまいそうなほどはかなげなものだった。
肌を切るような寒気が厳しい、ある真冬の朝のことだった。ヴィクトワールは王女オクタヴィア・フォン・ロムレスの機嫌伺いが終わると日課である騎士団の練兵場で汗を流していた。
「お嬢さま、お嬢さま。お探しのものが見つかりましたよっ」
「だから、ここには気軽に立ち入るなとあれほどいってあったろうに」
ヴィクトワールは入口からちょこまかと小リスのようなかわいらしい動きで走り寄ってきた自分づきの侍女に向かってむすっとした顔でいった。
侍女の名はハナ。
底抜けに明るく物怖じしない性格で、本来ならば関係者以外は立ち入りを禁じられている近衛騎士団の屯所に入り浸ることを半ば許されていた、なんとも困った少女であった。
「そーんなことはどーでもいいんですよっ。それよりお探しになられていた、ぴったしカンカンな方を、リーズナブルなお値段で見つけちゃいましたっ」
「おまえ、私のいうことだけは決して聞こうとしないんだな。ん、で。なに?」
ハナの隣で控えめに佇んでいた少女がかぶっていたフードを取り払うと、蚊の鳴くような小さな声で「おはつにお目にかかります」と、だけいった。
ヴィクトワールの口から、ほう、と思わず吐息が漏れた。夜の闇を溶かしたような黒髪に黒目。片膝を地面に突いたまま、ジッと佇む少女は、目にした人間の庇護欲をそそる触れただけで倒れそうな路傍の花を思わせる風情であった。
そういえば、身の回りの世話をさせる従騎士が、つい先日辞めたばかりであった。日常の身の回りの世話はハナがいれば特に問題もないが、王女に仕える騎士団長たるものひとりくらいはお付きの者がいなければ格好がつかない。
かといって、誰でもいいというわけではない。王族の目に触れることも多い仕事だ。器量も身分も実力も兼ね備えた、しかも年頃の女性というと、まずほとんどいなかった。
自分のような年頃になれば、ほとんどの女は嫁いでいるか、それでなければ婚約者はいて当然である。二十近くにもなって剣を腰に佩き重たげな甲冑を身につけて武張った真似をすると聞けば、断るのが普通であった。
女だてらに剣なんぞを振り回すのは、と親族は会うたびに口を揃えて諌めにかかる。
――別に私だって、好きで続けてるんじゃないやい。ヴィクトワールのほうにもいい分というものくらい、ひとつやふたつ、みっつやよっつは胸の内に転がっている。
婚期をちょっとばかり逃したというか。まあ、単純に船に乗り遅れたわけなんだが。違う、それだけではない。自己弁護するならほかにも理由はある。信頼する王女オクタヴィアのことだ。
現在、王宮は後継者問題のことで揺れに揺れていた。現国王であるファビアン・フォン・ロムレスの多年の不摂生による病状が思わしくないのだ。数年で、どうにかなるというわけではないが、彼は実年齢以上に衰えが激しく、それらを巡っての政界では猛烈な綱引きがあちこちで起きていたのだ。
それらを鑑みて、すぐにもどこかの家に嫁ぎ「アタシしあわせになりますオホホ」というわけにもいかない。彼女が心の底から信ずることができて胸の内を話せる人間は、自分を含め数えるほどしかいないのだ。
「つまり、あなたは私が探していた従騎士希望ということだな。名をなんという」
「シズカ・ド・シャルパンチエにございます。閣下」
「あの、シャルパンチエ家か……!」
ヴィクトワールが驚いたのも無理はない。シャルパンチエ家はロムレスでも創業の功臣の一族で、歴史の浅いヴィクトワールの実家であるバルテルミー家とは比べ物にならないほど、古く尊い家柄であった。
(なんだそれは。ほとんど、史書に載るような由緒正しい家柄ではないか。確か、シャルパンチエ家の評判はそれほどよくなかった記憶がある。聞けば、あちこちで多くの借財もこしらえているとのことだ。んんん。これは、どうしたものやら)
シズカと名乗る少女の家柄は申し分のないものであった。というか並んで経てば、雇用主であるヴィクトワールがかすむほどだ。
しかし、曰くつきの家の娘とあらば、手を伸ばすことに躊躇もある。いかにせんかと、唸っていると、ハナがにっこにこと笑いながらブイサインを繰り出していた。このおバカめ。
「シズカ、とやら。不躾に聞くが、そなたの家はかなり困窮しておると聞くが、今回新たに雇い入れる身分は、いってみれば私的なものだ。それほど莫大なものは望めぬぞ」
「閣下。ありていに聞いていただいて、逆に好都合でございます。我が家は、兄が病の床に伏せ、幾ばくなりとも金子が必要なのでございます。ここで、お目にかかれたのもなにかの縁でございます。今、閣下に見捨てられたら、わたくしめは夜の街に春をひさぐしかもはや術はございません」
面を伏せたシズカの目から、ひと筋の涙がつうと流れた。青白い頬に伝って流れるそれは、銀色の宝石のように輝いて見えた。
「むむむ」
「なにが、むむむですかー。いいじゃないですかっ。雇ってあげてくださいよう、お嬢さまー。けちー、ひとでなしー。鬼ぃ。悪魔」
「やっかましいハナ! おまえは黙っていろっ。今、考えているところだっ」
ムキキッと怒鳴り倒すと、稽古をしていた幾人かの騎士が、くすくす笑いを漏らしていた。
――ああ、もお。また私の騎士団長としての威厳がぁ。団長として、取り巻きのひとりやふたりは抱えていないと格好がつかないのにぃ。また、バカにされるよう。ハナのおバカっ。
「わかった、シズカ」
「閣下、ありがとうございますっ」
シズカは瞳を大きく開いて、なんとも見ているだけでぎゅっとしたくなるような愛らしい表情を見せた。ハナが、手を打ち鳴らしてぴょんっと跳ねた。
「待て。まだ雇うと決めたわけではない。仮にも、我が従者だ。場合によっては、王女さまやご一族のために身を捨てて盾になることもあろう。その腰に差した剣。ロムレス貴族であるならば。女子とはいえ心得がないといわせぬぞ。抜け。腕前を見てやろう。話はそれからだ」
「ええっ。ゴリラ並みの膂力を誇るお嬢さまに勝てっこないじゃないですかー。ひどっ」
「ハナ、おまえ本気で放り出すぞ。黙ってそこで見てろ。さあ、来い! シズカ!」
「わかりました。お願いします」
シズカは怯えたように顔を紙のように白くさせていたが、ここが正念場だともたつきながらも剣を腰から引き抜いた。
まったくなっていない。剣の構えかたも、フラフラとした定まらない腰の位置も素人同然だ。
これならば、そこらの定食屋の女将さんに、鍋でも包丁でも持たせたほうがよほどに心強いというものだ。細く、小枝のような白い腕に、重心の定まらない足運びは、気ばかりが急いて、もう無茶苦茶である。
「えいっ。とおっ。たあっ!」
本人は真剣だ。が、はじめて持つのだろうか、真剣の重みに耐え兼ねて身体が振り回されている。あっちへフラフラこっちへフラフラ。ヴィクトワールは、適当に打たせてやりながら、頭を抱え込みたい気分だった。
結論。剣の腕は話にならない。現に、ほんの数十本打ち込みを行なっただけで、顔は青ざめ心音は乱れていた。触れれば切れる真剣の重みや輝き、それにプラス恐怖心が彼女の疲労を瞬く間に倍加させているのだ。
――間違いない。彼女は、真実、深窓の令嬢なのだろう。
「あっ!」
ヴィクトワールがシズカの持った剣の峰を軽く叩くと、得物はぽんころりんとその手からすべり落ちた。
シズカはうっと呻きながら、桜色に蒸気した頬で唇をへの字に噛み締め悲しそうに上目遣いでこちらを見ていた。別に、いじめようと思ったわけじゃない。これも、縁というものか。
「シズカは。もう少し、剣の修練をしたほうがいいな」
「じゃ、じゃあ――!」
「合格だ。それじゃ、すぐに着替えてもらおうか。ハナ、ええい。おまえに頼むのは本来規則違反なのだが。屯所の更衣室に連れて行ってやれ。そして終わったらおまえは帰れ」
「ええっ。使い終わったら放り捨てるなんて。ハナ、ゴミクズみたいにポイですかっ」
「誰もそんなこといっておらんだろーがっ。ああ、おまえのせいで皆が、こら。シズカ。おまえも笑うんじゃない。仮にも主に対し、失礼だぞ」
「す、すみませんっ。つい、おかしくて」
シズカは口元に手を当て、楽しそうにころころと笑っていた。この娘とならば、仲よくやれそうだと、そのときは思っていた。
気づけば水を浴びたようにシズカの身体はぐしょ濡れになっていた。喉の渇きが異様だ。攻めても攻めても瑕疵ひとつ見えないヴィクトワールの堅陣に攻めあぐねる。
もう認めよう。この女は剣の天才だ。自分も、武芸の技には自信があったが、目の前の女を見るとすべてがグラグラとひび割れ、土に帰すような心持ちになる。
悔しいなと、単純に思う。蜂蜜色の美しい髪に豊かな豊饒の森を思わせる緑の瞳。シズカは、それらが羨ましかった。妬ましかった。昔の自分は、彼女のような容姿こそを欲していたのだ。
純潔のロムレス人を思わせる、金色の髪。白く整った鼻梁に、細く長い手足を見れば劣等感を抱かずにはいられない。シズカは、自分の髪も瞳もそれほど好きではなかった。蔵人が褒めてくれたから、はじめて己のすべてを愛せるようになったのだ。
実のところ、知り合うまえからヴィクトワールのことは見知っていた。
王女のお抱えなんていう。
銀の兜に白い盾。
ひらひら舞うのは赤マント。
あれぞ姫騎士ヴィクトワール。
巷間で街の子雀たちが口ずさむ、その声、その言葉に、汚れ仕事の日々を送っていた自分は猛烈に嫉妬していた。
白い馬に跨って、王女の美々しい馬車を先導し、都の大通りを威風堂々と練り歩くさまは、心の底に潜んでいた真っ黒な凶々しいものを呼び起こすのに充分なものだった。
一度だけ夜会で見た。彼女は社交界でも、引く手あまたの蝶だった。大きく美しい胸をツンと突き出して、それこそ天上の女神が羽織る美しい絹をふんだんに使ったドレスの前では、ツギハギだらけの自分の姿など、台所の隅に巣食うみじめな虫けら同然だった。
無尽蔵の富を有する広大な領地を得て、遊びがてらに王女の傍に侍り、都の人々を引きつけてやまない彼女の存在そのものを、シズカは壊してやりたいくらいに、妬み、愛していさえいた。
きん、と刃物同士が高らかにすれあって、鳴いた。
同時に、背後へと飛び退った。わっと観衆が沸いた。音が戻ったのだ。ぼたぼたと、滝のような汗で前髪が濡れている。視界が不明瞭であるが、拭うような暇はない。ほんの少し、目を離しただけで、やつは斬り込んでくるだろう。そのような甘さはない。甘さを求めてはならない。
再び向かい合った。声は互いにかけない。己を鏡に映しているように、微動だにしない。
切っ先にのみ、集中する。呼吸に連動してヴィクトワールの剣がわずかに上下している。
溜められた闘気が静かに収斂していく。来る。と、思うより早かった。雷光がほとばしるように身体ごとぶつかってきた。目方が違う。もみ合いになれば、まず勝てない。
背丈も身体の大きさも違うのだ。パワーではかないっこない。
自分の武器はなんだ。そう早さだ。ヴィクトワールは剛剣だ。巌のように太く、大きく、厚く、固く、巨大だ。山をまともに打って、断てるはずもない。
シズカは足を使うと決めた。蹴った。床石が弾けるように。強く蹴った。駆けた。さすがにヴィクトワールはある程度ついてくる。足さばきが異様に上手いのだ。歯噛みする。その途方もない才能を心底羨んだ。なので跳んだ。剣を水平に構えながら自分でも褒めてやりたいくらい抜群のリズムで解き放った。肩口。本日唯一の隙だった。捉えたと思った。剣先が触れた。
――それが誘いだったとわかったのは左腕に火が走ったときだった。
めこり、と。異様なほど大きく砕けた音が鳴った。熱い。火箸を押しつけられればこんなふうに燃えるものなのか。全身が燃えたぎり、間もなく氷につけたように冷たくなった。
必死だった。負けたくない。美貌でも家の富裕さでも、もしかしたこれは考えたくないことだが、――もっとも欲した男から受ける愛の深さでも負けているやも知れない。
そんなのは嫌だった。ひとつくらい確かで確実なものが欲しかった。ヴィクトワールに勝るものが欲しいのだ。どうしても。希求している。喉から手が出るほどに。悪魔に身を売り渡してもいい。だから、一方的にやられたままではいけなかった。許せなかった。
妄執と情念の深さが奇跡を呼び寄せたのか。シズカは床に崩れ落ちながらも、不安定な姿勢で、とうてい人間が跳ね起きられない形から、わずかに足首だけの力で地を蹴ると、目前の標的に迫って斬撃を放った。
ゴッ、と鉄棒が骨を砕く硬い音が鳴った。シズカはギリギリの部分でヴィクトワールの右腕をへし折ると、笑みを浮かべながらゴロゴロと転がった。
立った。痛みをこらえて立ち上がった。自分は左腕をやられたが、相手に対するダメージはさらに大きいはずだ。なにしろ利き腕を破損せしめることに成功したのだから。ヴィクトワールが落とし損ねた剣を左腕に持ち替えたのを見た。なんとも器用なやつだ。嬉しくなってしまう。
「どうした痛みでおかしくなったのか?」
「冗談。それよりも、そろそろ降参したらどうだ。利き腕が使えねば勝負にはならないだろう」
ヴィクトワールが、ハンッ、と鼻を鳴らして剣を左腕で正眼に構えた。即興にしては堂に入っているが、負け惜しみにしか見えない。シズカは薄く笑った。勝利の微笑みのつもりだった。
「ハンデさ。おいでなさいなお嬢さま」
抜かせ――。
シズカは、その言葉で意識がブッ飛んだ。まずい、落ち着けと脳の一部が警鐘を鳴らす反面、そのままだ! 続けて叩きのめせ、と威勢のいい言葉を並べる考えなしの自分がいる。
イメージだ、光の矢になった自分をイメージした。
実際、もう、これ以上ないという力と速度を乗せた渾身の突きだった。
仲間だとか家族だとか、生だとか死だとか微塵も思い浮かばない。
標的を射抜くイメージしかない。
手にした武器が身体と一体化し、一陣の風となりヴィクトワールのすべてを、掛け値なしに消し去ってやりたいと、もうそれしかなかった。
勝った、と思った。捉えたのだ、剣先に。逃がさない。もう絶対に。笑い出したい感情が胸の奥にうず巻いた。瞬間、ありえぬ光景が出現していた。
フッと消えたのだ。ない。どこにいもない。己が幻を見ていたのだろうか、頭のなかがクエスチョンで埋め尽くされる。
ここだよ、と耳元で囁きかけられた気がした。
身を捻ったのは本能的なものだった。ヴィクトワールは神業的な動きで体を入れ替えると長剣を放ってきた。この速度ではよけられない――!
それを身に受けたとき、胴体が消し飛んだような気がした。アバラを根こそぎ叩き折られた。
めきめきみきゃきゃっ、と。耳にするのも恐ろしい、凄絶な旋律が奏でられた。
ぐおっとか、ごおっとか。獣が呻くような野太い声がほとばしった。痛みなどで片づけられるレベルではなかった。
ヴィクトワールの胴薙ぎだ。決まった。完敗だ。もう動けないよ助けて苦しいよいやだよ怖いよ許してと無数の泣きごとが脳裏に浮かんだ。迫り来る音を聞いた。大上段に剣を構え、悪鬼羅刹のように頭上から打ち下ろしてくる。
冗談じゃない、あいつは人間か? 私は、地に伏し血反吐を吐き散らかしているのだぞ。やつには情がないのか。ともに寝て食べてときには笑いあった。そんな仲なのに。
あいつは、自分を殺そうとしている。なにひとつ慈悲もかけず。
許せない。シズカのなかのなにかが壊れた。パキリ、と小さな音を残して。悶絶するほどの痛みを怒りが瞬く間に塗り潰した。どうやって動いたのか、また動けたのかはわからない。
剣を使った。使ったのではなく、自身が武器の一部になったのだ。飛び上がって宙に舞うヴィクトワールの足元を駆け抜けた。水のなかをゆくようになめらかに動けた。不思議なほどだった。
おお、とか、うう、とか血がほとばしるような絶叫を聞いた。無茶苦茶に振るった剣が彼女の右足を打ち据えていたのだ。手にした剣は刃引きとはいえ重量のある鉄棒だ。かすっただけでも充分に折れるだろうに、芯に当たれば効果のほどは知れるところだ。
「ざまを、みろ」
それだけいうのがせいいっぱいだった。
シズカは脇腹を押さえながら、うぐっと呻いた。吐瀉物で口元が生あたたかく濡れている。濁った赤さは鮮血だろう。こらえきれずに涙がドクドクと流れ出す。這いずった。痛みが脳みそへと無数の針を突き刺したように途切れなく襲う。なんとか嗚咽をこらえた。
泣くのはダメだ。しくしく泣くのはダメ。そんなの惨めすぎるし、第一まだ決着はついていないじゃないか。泣くなシズカ。泣いちゃダメなんだよシズカ。
視線を上げる。脚を異様な方向に捻くれさせて尻もちを突いているヴィクトワールが見えた。
うおうっ、うおうっと激しく吠え立てている。自分でやったはずなのに、なぜか胸の奥がジクジク疼く。痛みで頭の芯がぼおっとなってくる。シズカは遠のく意識のなかで、ヴィクトワールと会ったばかりの日々が、どうしてこのときを待ってましたとばかりに、くるくる回転しながら湧き出してくるのか理解できなかった。
召喚されし勇者を暗殺せよ。指令が下されたのは、王女オクタヴィアが密かに召喚の儀を単独で行おうとしていることを掴んだ、ある冬の日だった。
とある暗殺者ギルドに所属していたシズカは、特に感慨もなくその命令に従った。病気の兄を治療するには、それこそ掃いて捨てるほどの金貨が必要になる。疑問は持たない、持てば辛くなるだけだからだ。
上の人間がツテを使ってどうにかシズカを王女の近衛であるヴィクトワールに近づけたのも周到な用意があってできたことであった。あらゆる疑念をことごとく脱臭し、従騎士としての職を得た。彼女が使っていた前任者を「双方納得済み」の方法で辞任させたのも、すべて組織の力があってこそだった。
動きはそのうちある。シズカは、かのヴィクトワールに近づくことに関して、珍しくわずかであるが心が動いだ。なにせ、あの姫騎士なのだ。
シズカとて年頃の少女である。街の者が畏敬の対象として振り仰ぐ彼女が、事実どんなものかと興味を抱かずにいるのも不可能だった。
が、思っていた人物と、実際は違った。陽光のような金色の髪と女神と見紛うばかりの美貌は間違いなかったが、現実のヴィクトワールは、そう残念すぎた。
確かに剣の腕は相当に立つようだが、どこか抜けているのだ。自尊心は強いくせに、ときとして臆病心を見せ、おだてに乗りやすいかと思えば妙にクソ真面目なところがある。人格が一定していないかと思えば、不正を憎み後先考えずに行動に移し、後で後悔する。
そう、ヴィクトワールはとても世渡りが上手であるとはいえない。損なことばかりしているのだ。放っておけばいい些細なことに拘泥し、犬も食わないような正義感を振りかざす。よくも悪くも純だった。そのせいで彼女が孤立しがちだということは、職についてすぐわかった。近衛の騎士たちはヴィクトワールから距離を置く。かと思えば、どうにもならなければすぐに頼ってみたりする。
ムカムカする。他人のことなどどうでもよかったはずなのに、彼女のバカ正直で貧乏くじばかり引かされる彼女の境遇が見ていられなかった。
最初は、大領を持つ領主の娘だからどこか傲慢な部分があるかと思えば、基本、弱い者や貧者にはやさしかった。どうせ、国からいくらでも仕送りをもらっていると思っていたのだが、彼女の生活は清貧を旨とし、趣味といえば社会奉仕の清掃活動や詩を読むことくらいである。
「なにか困ったことはないか」
なにかにつけヴィクトワールはそう訊いてきた。取り入るときに使った話は同情を引くための嘘ではない。すべて掛け値ない真実だ。だから、最初はバカにされているかと腹も立ったが、すべて本心だとわかると、薄汚い自分が酷く卑しい生き物に思えた。
徐々に心が開いてゆく。ああ、こんなやさしい姉がいたらなんでも相談できたのに、と思った。
ともに汗を流し、凍てつく廊下で人形のように立ち尽くし、仲のいいい姉妹のようにひとつ毛布でくるまって寝た。ウマが合わないはずがない。なにか、楽しかった。歳は幾らか違えど、本当に心が通じ合えているような錯覚を覚えたのだ。
――シズカ、困ったことがあればなんでもいいなさい。
――シズカ、寒いだろう。これを塗るとあかぎれにならないぞ。
――シズカ、少ないだろうがこれが給金だ。兄上のお薬、買えるといいね。
シズカ、シズカ、シズカ。優しい女だ。彼女は、遅配される給金で、買いたいものも買わずに、すべて自分の賃金へと回してくれた。本当に、騎士としての最低限を取り繕う以外の金は、残らず渡してくれたのだ。
シズカは、自分のやっていることがすべてだと告白したかった。
いつか、おとなしい顔をしているこの女はヴィクトワールを傷つけると教えてやりたかった。
「寒いな。もっとくっつけばいい。ホラ、ね」
緑の瞳がやさしくシズカに語りかけるたび、罪悪感が膨れ上がってとめどなくなった。
頭がおかしくなりそうだった。ずっと、いっしょにいるからこうなるのだと。
任務を放棄したいとはじめて思った。あのハナという侍女は主と違い、相当に聡い。いや、基本的にヴィクトワール以外の人間を信じていないのだ。彼女には、歴とした溝を感じた。探るような視線も、言葉の端々に見える嫌悪感も、そういうことに慣れたシズカにはむしろ心地よいものだった。
非番のある日。
シズカはヴィクトワールやハナと王都の郊外へと一度だけピクニックに出かけた。
手作りの弁当を持って馬を駆った。春がそこまで訪れているのか、チラホラと美しい花が草むらに咲きはじめていた。皆で木陰に座って朝食を食べ、日常のあれやこれやをダラダラととりとめなく話し続けた。この時間が続けばいいと、そう思った。切に願った。
「なあ、シズカ。今日はとてもいい日和だ。そう思わないか」
ヴィクトワールの声。涙がこぼれて顔を上げることができなかった。
――ずっと、あなたと仲よくしていたいのに。
その気持ちには嘘偽りなど確かになかった。




