Lv237「とりかへばや異聞」
ルカ・ブラックバーンは地元トランピナにおいてはその名を知らぬ者がいない豪商である。
トランピナはロムレス最南端に位置し、港湾都市チー・ハーを保有する、アンドリュー州のなかでもシルバーヴィラゴに次ぐ経済の中心点だ。
ブラックバーン商会が扱うのは、国が専売としている「塩」である。古代の戦士は、その俸給を塩を固めたもので支払われた。
人間にとって塩分とは必要不可欠なものだ。ブラックバーン商会は、十二代続いた老舗の家柄で、かの一族が所有する財物は、優に一万の兵を十年養えるといわれたほど莫大なものであった。
十二代目ブラックバーン商会会長であるルカには、ただひとつだけ悩みの種があった。
ひとり娘であるネリーのことだ。彼は生来、子宝にそれほど恵まれず、四十五になる今日まで、妻に産ませた子は、長子であるブラウンとその妹のネリーふたりだけである。
今年で二十四になる長子のブラウンは飛び抜けた才はないにしろ、商会を任せてゆくのはそれほど危ういところがない堅実なものにまで成長した。
昨年、念願の初孫が生まれた。男児であったことから、ルカとしてはひとつ肩の荷が降りたというところであった。
「が、問題はあのバカ娘だ」
ルカは苦り切った顔で、車中で曖昧に微笑む手代のパットを睨んだ。パットはなんとかして怒りの矛先を逸らそうと、馬車の外に見えるシルバーヴィラゴ城内に広がる豊かな田園の美しさをことさら褒めてみたが、主であるルカの怒りの炎は鎮火することがなかった。
「あいつは、ブラウンと違って幼い頃からワガママというかへそ曲がりというか。儂がいうことにいちいちと文句をつけおる。しまいには、職業婦人になると抜かして、アレと結託して家を飛び出していきおった」
アレ、というのはもちろんのことルカの妻のことである。ルカは長年連れ添った恋女房だけには頭が上がらなかった。
ネリーは十二の歳になると、押しつけられた花嫁修業をほっぽり出して、家長であるルカを無視する形で、シルバーヴィラゴの冒険者組合に徒弟として潜り込んでしまったのだ。
ルカとしては、ただひとりしかいない娘を、将来的に、しかるべき商家に嫁がせて経営の綱を太くしようという思惑もがあった。
無論、すべてが金尽くのことではない。
彼のなかには「商家の娘は商家に嫁ぐ」のが一番の幸せであるという信念があった。
男は身を粉にして働いて稼いだ金で家族を養う。女は子を産み育てて死んでゆく。
それが人の人たる道だ。道を外れることは悪なのだ。
そもそもが、なんの手に職もない娘がどうやって世間を渡ってゆくのか。世の中というものはそれほど甘くはない。
ルカは、ネリーが妻の手引きで家を出たと知っても、当初、たかをくくっていた。
「ふん。小娘のことだ。どうせ、半月も経たずに泣いて逃げ帰ってくるわい」
ルカ自身も幼い頃は商売を覚えるために、他の店に丁稚として出された。そこでは当然のことながら、ブラックバーン家の跡取りという威光などまるで通用せず塗炭の苦しみを味わった。
ましてや、ネリーは蝶よ花よと育てられた温室のお嬢なのである。人さまの家でメシを食う苦しみにとても耐えられぬものではない。
そう思い込んでいたのが、ひと月が、ふた月。ふた月が半年。半年が一年。一年が三年。とルカの予想を超えてネリーは耐え切ってしまったのである。
ルカの妻や長子のブラウンは頻繁にシルバーヴィラゴへと様子を見に行っていたようであるが、ルカはかたくなにそれを認めることができず、とうとう三年間一度も娘には会いに行かなかった。
それでも、折れるときが来た。慣習として、ほぼ成人同様と扱われるネリーが十五になった年にルカはついに冒険者組合があるシルバーヴィラゴへと足を向けた。
そこには、彼が知る幼い少女の姿はなく、立派なひとりの淑女の姿があった。
長く美しい髪に、母親譲りの青い瞳。ルカはとうとう追認する形で、ネリーが冒険者組合で働くことを許可せざるを得なかった。
以来、なし崩し的にネリーの就職を認めることとなってしまったルカは、それでも一年に一度は娘の顔を見に、シルバーヴィラゴの街へと通うこととなる。
「しかし、それとこれとはワケが違う。なぜ、なぜ親の許しも得ずに勝手に結婚などと」
「会長。少し、声を落としてください。通りをゆく方々に聞こえます」
手代のパットがいった。馬車は、市内の狭い道に差しかかっていた。ここでは馭者もそれほどスピードは出せない。しかし、パットの憂慮など気にすることもなく、ルカは猛々しく小賢し気に見える手代を頭ごなしに怒鳴りつけた。
「やかましい! パット、貴様いつからそんなに偉くなった。この儂に説教できるほどいつから偉くなった! ああーん? おまえが、まだハナタレの頃から仕込んでやった、実の親以上の儂に対してそんな口を利けるように、いつからなった!」
「わかりましたっ。わかりましたからっ。だから、それほど興奮なさらないでくだされっ。そろそろ、婿殿の屋敷に着きますよっ」
「ふんっ。なにが、婿殿じゃ。儂は認めんぞ。たとえ領主の命といえど、そんなもの、認めてたまるものかっ。あのへっぽこバカ殿が。ロクに領地も見ずに王都で遊び呆けるしか能のない大馬鹿の差し金なぞっ」
ルカはロクに領地に帰らぬアンドリュー伯をここぞとばかりに罵ると、パットに噛みつきかねない形相で歯を剥いた。
そうだ。そうなのだ。
今、現在、ルカの乗る馬車は、ネリーが嫁いだ先のクランドという男の家に向かっている。
ルカは、甚だ不愉快でならなかった。
なにを好き好んで、どこの誰とも知れぬ馬の骨に、いくらそれが領主直々の命令であっても、自慢のひとり娘を嫁がせなければならないのだ。思えば思うほど憤慨する。
ルカは、太く雄々しいカイゼル髭をしごきながら、両眼をカッと見開きつつ、まだ見ぬ婿を口汚く罵倒した。パットはすでになにもかも諦めたかのように、目を閉じて息を殺している。彼は賢かった。
――主が求めているのは意見ではなく、一方的に憤懣をブチまける相手であるということに。
窓の向こうに、まだ新しい屋敷が見えてきた。
ふんと、再び鼻を鳴らす。なんだ、あの小汚くみすぼらしい屋敷は。
我がブラックバーン家の手代。
そう、今、自分の目の前に座っているパットですら、もう少しマシな造作に住んでいる。
ルカは悲しかった。ネリーの「職業婦人ごっこ」も、それなりに時間が経てば、我が身を考え虚しさを覚えるだろう。そう思っていたのに。
男と違って女には確実にリミットというものが切られている。二十になったときに無理やりにでも連れ帰れば、こんな苦労をかけることはなかったのに。
見極めてやる。見極めてやるぞ、クランドとやら。
ルカは思う。
もし、この自分を少しでも納得させられない程度の男であれば、この自分が商会の財力を傾けてもおまえから我が娘を引き剥がしてやる、と。
ルカの乗る馬車は、赤黒い情念の炎を燃え立たせながら、別名「姫屋敷」と呼ばれる、愛娘を奪った憎き男の住処へと向かっていた。
鳳凰騎士団団長、ギュスターヴ・ホルツマンは、その真四角な碁盤にも似た顔を、さらにカチコチに固まらせながら、姫屋敷の前で訪いを告げていた。
愚かしいことをしている。ギュスターヴはメイドの後に続きながら、ふかふかした毛足の絨毯の上を、まるで雲間を漂うようなおぼつかない足取りで進んでいた。
自分が求婚したい相手は人妻である。それも、領主にゆかりのある、高名かつ素晴らしい徳を備えた人間である、と聞き及んでいる。ルッジのことを思えば、心は千々に乱れ、己が鼓動は恋を知ったばかりの少年のように早鐘を打っている。
おれは、これほどまでにあつかましい男であっただろうか。
無論、女嫌いで三十二になる今日まで過ごしてきたわけではない。
家は金穀に恵まれていた。由緒の正しさと鳳凰騎士団団長の名はどこへ行っても畏敬と尊崇の念で崇められ、大抵の女は望めば得ることはできた。
しかし、なんとなく。理由は自分でも明確に説明できないが、あとが続かないのだ。祖父母や両親が勧めてくる見合いの話も仕事が忙しいとかこつけて巧みに回避してきた。
――そんな自分が、ひとのものに心底惚れきってしまうとはな。
今日だって、先日の賊徒討伐についての事後報告を、行動を共にした白十字騎士団のアルテミシア・デュ・ベルクール嬢に伝える、という名目で、それこそ供も連れずに、いかにも知らんぷりして自分ひとりでやってきた。もしかしたら、屋敷のどこかで彼女に偶然会えるかもしれない、という卑しい気持ちを抑えられないで。
「お、ハナ。お客さんかい」
「はいです。今日は千客万来ですねー」
ギュスターヴは案内をするメイドへと親しげに話しかける男を見て、夢想から我に返った。
その男。歳は、二十かそこらだろうか。上半身は安っぽいシャツを着て、泥にまみれた汚らしい靴を履いている。今しがたまで、用をいいつけられていたのだろう。濡れたシャツがぴっちりと張りついていた。
男は、やたらに見目麗しい女児を背中に乗せながら四つん這いになっている。エルフの子供であろう。彼女たちは、よほどなついているのか、男を馬に見立ててキャッキャッと楽しそうに笑い合っていた。
――実に勤勉な下男だ。ギュスターヴは、貴族の生まれながら額に汗して働く人間をことのほか愛した。彼は、自分とは違ってこのようになんのてらいもなく屋敷の主に対し忠勤に励んでいるというのに。それに比べて、このおれと来た日には……!
彼は感激屋でもあった。この忠実な下男になにか報いてやらねば。
ギュスターヴは目の前をゆくメイドを呼び止めると、素早く懐や腰のあたりをしきりに探り出し、ひとつの懐中時計を取り出した。四つん這いになっている男に太い腕を差し伸ばした。男は、ギョッとした顔で、自分と時計を交互に見やっていた。
おそらく、生まれてからこのように高価なものは目にしたことがないのだろう。不憫である。報いてやらねばという気持ちがますます強くなった。
「これを取っておくがよい。困ったときは売るといい」
「……はあ」
「まあ、よかったですねー。真面目に励むといいことがありますよー」
「うん。そだね」
メイドは四つん這いになった男の鼻面を人差し指でツンツンとつついている。
ふふ。よき仲なのだな。幸せになれよ。
女の方が幾らか年下だが、なあに、かまうまい。お似合いの夫婦になるがいい。
ひとついいことをしたと、ギュスターヴは小さくほくそ笑みながら胸のなかから少しだけ後ろめたい感情が消えてゆくのを感じた。
――うむ、よきかな。
通された控えの間は、それなりに広さはあったが極めて簡素な造りであった。これは、質実剛健を好むギュスターヴの性に合った。彼は、無意味かつ不必要に豪奢な調度品を嫌う傾向がある。
――さすがは、ルッジ殿の屋敷よ。生来の趣味のよさが窺える。
正確にはルッジの意思などこれっぽっちも介在していない部屋ではあるが、男とは惚れた相手のものなら、ある意味なんでも好ましく思えてくるから始末に負えないものである。
ギュスターヴが四角いツラをゆるませながら、その太い腕を組みつつ、机の上に置いてある小瓶を眺めていると、不意に背後の扉が軽やかに叩かれた。
「これはギュスターヴ卿ではありませぬか」
「ルッジ殿……」
開かれた扉から姿を現したのは、今しがたギュスターヴが胸の内に面影を浮かべていた、ルッジ、その人であった。これぞ嬉しい不意打ちというやつである。
ギュスターヴは神に感謝の祈りを捧げながら、内なる動揺をひた隠しにして、四角な顔をますます四角くこわばらせて、むしろつっけんどんなほどに聞こえるほど簡素に答えた。
「これはこれは奇遇なことだ」
「先日以来ですね。どうして、本日のいらっしゃることを教えてくださらなかったのですか」
「それはですな。今日は、業務の一環で。先日の賊徒討伐の顛末をアルテミシア殿にお伝えしようと思いまして。いわば公務なのです。ルッジ殿を無視したわけではありませんが、本日の要件の主体はアルテミシアであります。その、なんだ。拙者、公務と私事をいっしょくたにするようなことは、どうにも、その気が進まないもので」
取り繕うとすればするほどしどろもどろになる。額にはダラダラと汗が流れ、目も開けていられない。激しく動揺していると、ふと目の前に品のいいハンカチがお使いなさいとばかりに差し出されていた。かの貴婦人は、可憐な華がほころぶように、くすりと品よく笑った。
震えながらハンカチを掴むと、頬の汗を拭う。えもいわれぬ甘美な芳香が鼻腔をくすぐりギュスターヴは天にも昇るような気持ちで、受け取った絹の手触りをルッジの肌と重ね合わせ、深い陶酔に浸った。
「まあ、そのようなことは使者をお遣わしになられれば済むことを、鳳凰騎士団の団長であるあなたさま直々に足をお運びになられるとは。それに、公務と私事の境を明確さられるなどとは、清廉潔白とはあなたのためにあるお言葉。昨今、ギュスターヴ卿のようなお方はおられませぬ」
褒めた。おれのことを褒めてくれた。ギュスターヴはニコリと目の前で微笑むルッジの可憐な唇の動きに視線を釘づけにされながら、思わぬ賛辞の嵐に感動で身体を打ち震わせた。
抱きしめたい。その細くたおやかな腰を引き寄せ思うさま感触を味わってみたい。
所詮かなわぬ夢であれど。己の激しい衝動を殺すのに、これほどまで苦労するとは。
「いえいえ。このようなことは、当然のことですよ。それにですな、ルッジ殿。拙者はそれほどたいそうな人物ではございません。多忙とはいえど、どんなことも人任せにできない性分でして」
真実は違う。
ギュスターヴは団員の袖から伝達するための手紙を無理やりもぎ取る形で、この屋敷へと強引にやってきたのだった。
が、そのように横車を押すような自分の行為も、ルッジに褒められたことによって、ギュスターヴの脳裏からはたちまち都合よく上書きされた。
ギュスターヴはしばらく立ったまま話をしていたが、チラとルッジの端正な顔に影が浮かんだのを見逃さなかった。
「なにか……?」
彼は、その巨体を縮めながらルッジの機嫌を伺うこと、まるで幼児が両親の顔色をいちいち確かめながら「これでいいのか」と仰ぐようでもあり、極めて滑稽であった。
「実は、今日、屋敷に大切な方をお迎えする予定でして……」
「なんと! それならそうとすぐにいってもらえれば。拙者などと無駄話をしている暇なぞ」
なんと慎ましい方なのだ。昨今の女は、聞いてもいないことを人の耳を引き寄せるようにして嫌というほど放り込んでくるものなのに、彼女ときたら。こんな自分ごときの興を削がぬよう、大事な用をいい出せずにいる謙虚さは正しく婦人の鑑である。
「いえ。私にとっては、ギュスターヴ殿との時間も重要です」
ああ。ああ! なんという歓喜だろうか!
ギュスターヴはひととき、目の前の女が人妻であるということを忘れて、甘い世界に脳みそはおろか、魂までもズブズブと浸からせた。
けれども、自分のワガママでこの人が不利益を被るような真似をこれ以上続けることなど断じてできない。
彼は、渋るルッジを部屋から無理やり押し出すようにして、本来の用事に専心させた。
もう、本日は思い残すことはない。そう思って椅子に腰かけたままいると、扉が開いて、先ほどの下男が姿を現した。
「お茶のおかわりでーす」
「うむ。ご苦労だな、青年」
「いえいえ。ゆっくりしてってくださいな。アチチ」
茶のおかわりを持ってきたのは、先ほど廊下で子守をしていた下男であった。彼はそれほど給仕に慣れていないのか危なかっしい手つきでカップの中身に熱いものを継ぎ足す。
下男の身体。汗が浮き出た上半身は、練達の騎士であるギュスターヴの目から見ても驚くほどに鍛え上げられている。
筋肉の張りを見るため、ペタペタと触ると、下男は驚きの表情で素早く飛び退った。そして手にした鉄瓶の湯は微塵も揺るがない。これは下半身の筋骨も同じように練られている証拠だ。
「青年よ。なかなかいい身体をしている。どのようにして、練ったのだ」
「え。俺? あー。そうだな。レンガ積んだりとか、鉄筋運んだりとか。昔はよくやったかな」
「肉体労働か。それにしては、一部の隙もない鍛え方だ」
ギュスターヴは感心していた。下男の口の利き方は、到底貴人の接客に向いているものではないが、彼の取り繕わない物腰や粗野な生き方は礼儀作法を学ぶ習慣のない平民にとっては普通のことなのであろう。いちいち叱責する必要もないし、また、その意味もない。
そのまましばらく会話を続けていくうちに、なんとはなしに騎士団の荒くれ者と通ずるおかしみを感じ、ギュスターヴはいつしかこの下男のことが気に入っていた。
「青年よ。そのようなよき身体を持っていて、いつまでも賃仕事では辛かろう」
「いやいや。俺は、こういうのも別に嫌いじゃないぜ」
その返事も気に入った。ギュスターヴは懐から紙片を取り出すと鳳凰騎士団の所在地を、さらりと流麗な作法で書き記した。
「ふむ。もし、一旗揚げたいと気が変わったら、この場所に来い。なまじ冒険者などになるよりよっぽどに生き甲斐の見いだせることを教えてやれる。いつでもいい。待っているぞ」
「んんん。まあ、この屋敷を追い出されるよーなことがあったら頼ってみるよ」
「なんだなんだ、男のくせに。情けない。ふふふ。きさまはなかなかに面白い男だ」
「お褒めに預かり恐悦至極」
「ちょっと、そこに立ってみろ」
「は? いや、先ほどからずっと立ってますがな」
「いいから。それと、上着を脱げ」
「え、ちょ、待って。なんでそんな望んでいない方向に。俺、なにか悪いことした?」
「いいから」
ギュスターヴが四角い顔をさらにこわばらせて、ずいと近寄ると、下男は風のような速さで部屋を飛び出ていった。
なにをそんなに慌てているのだろうか。ギュスターヴはカップをひと息に呷って中身を干すと、長く太い両足を伸ばして椅子にやや深く腰かけた。
連戦の疲れが溜まっているのだろうか。ここのところ、街には大小の賊が盛んに流入して騎士団も息をつく暇もない。少しリラックスすると、身体の節々に石を詰め込まれたように、意識していなかった疲労がジワジワと押し寄せてくる。
それにしても、この椅子はなんとも座り心地がいい。うつらうつらしていると、開いていた扉に影が差し、ひとりの中年男が現れた。真正面から視線が合ったかと思うと、男は仇敵を睨むようにして眼光を剣のように鋭くした。ギュスターヴは軽く困惑した。
「ヴィクトワールちゃーん。今日の勝負パンツは何色かなー」
「うわわっ。なにをするかーっ!」
なっちゃいない。まるでなっちゃいない。
ルカは目の前でメイドのスカートを破廉恥にも無理やりまくり上げている男を見て、深くため息を吐いた。
男は顔つきや粗野な動作から見て、屋敷で使っている下男であろう。ツンと澄ました顔で案内をしていたメイドがたちまち馬脚を表して男を追いかけはじめる。
ルカの短い堪忍袋の緒が切れる前に、メイドと男は仲よく廊下の向こう側へ走り去ってゆく。
ありえない。ありえない話だ。風紀が乱れている上に最低限の礼儀作法もご存知ないと見える。
屋敷の主を見る前に、使っている者を見れば程度がわかるという。メイドは屋敷の顔である。
見かけは臈長けた貴婦人といっていいほど整った容姿ではあったが、大方どこかの商売女を急増でメイドにしつらえたのであろう。
地金などちょっとしたことで剥げてしまうというのはよく聞くが、客を置いて職務放棄をするなどということは、まず現実では起こりえない話なのに。
「なあ、パット。儂はきちんと名乗ったよな。ネリーの父で、ブラックバーン商会の会長であると。間違いないよな」
「はあ……」
「ならばなぜ、やつらはあのような態度に出ることができるのだ! 舐めておるのか、この儂を」
「会長。所詮無学な下々の者どもにいってもわかりませんよ。やつらにとっては、塩がどこからやってくるか想像すら及ばない生き方をしているでしょうし。それよりも、なにか不満があるのならば、この屋敷の主である婿殿に直接いい聞かせたほうが無礼者どもの薬になりましょうぞ」
「む。そうだな。パット、おまえはよくわかっておる。これでまたひとつ、婿を虐める、もとい意見する理由ができたわ。さあ、この無礼、なんとしてケジメをつけさせようかの」
「また生き生きしちゃってからに」
「ん。今、なにかいうたか」
「いいえ。それよりも、応接室はその部屋でしょうか」
まったく義父である自分をないがしろにしおってからに。ルカはパットの指し示した部屋に大股で入ると、中央の椅子へとドッカと座る大男を視界に入れて、瞳をギョロつかせた。
異形である。四角い。身体も顔も顎も拳も。驚くほど大雑把な造りをしている。高価そうな布地に包まれた四肢は、その下に潜む筋肉によって今にも飛び出さんとばかりに躍動している。
――目が合った。
瞳は野に住む獣かと思われるほど強烈な力を秘めていた。言葉をかわさなくてもわかる。
目の前の男、クランドは間違いなく暴力の世界に長年身を置いて生きてきたのだ。それは、腰に佩いた仰々しい巨大な剣でさえ、添え物にしか思えないほど圧倒的な存在感を秘めていた。
負けてはならぬ。このような男に負けては、ブラックバーン一族の名が廃る。ルカは、眉間を激しく震わせながら、わざと大きな動きを印象づけて、どっかりと男の正面に座った。
思っていたようなヤワな男ではなかった。ルカにはわかる。それは一流の男にだけ理解できるその身に纏ったある種の「臭気」であった。
こうでなくては面白くない。儂の娘婿ともあろう者が、そんじょそこらの、並、くらいでは困るのだ。
ルカは、クランドという男を、どうせ貴族のコネを使って一目惚れでもした美しいネリーを無理やり手に入れたのだろうと信じて疑わなかった。
が、これは違う。
こうして対峙しているだけで、発散されるある種のオーラを感じ取るにつけわかるのだ。
無言の攻防は続いた。当初は、平静を装っていた男が、ルカの気迫に気圧されたかのように次第にとまどいのようなものを見せはじめた。ときどき「もしや大切な方とは」「間違いない。歳格好からいって」などと、不安からの意味をなさない独り言を呟きはじめている。
まあ無理もないだろう。このルカ・ブラックバーンは、海千山千の大商人たちを相手に、まさしく国家的単位の金を動かし続けて生きてきた男。こうして、向かい合って座り続けるだけで消耗してしまうことも致し方のないことだ。
――それにしても、まるで怯えを見せない肝の太さは認めてやってもいいだろう。
「で、なんだ」
「なんでしょうか」
「仕事は、なにをやっておる」
「は。拙者は、シルバーヴィラゴにおける鳳凰騎士団に所属しております」
ほうほう。鳳凰騎士団といえば、このアンドリュー州において、なかなかに名が通っている。
かの騎士団の団長は、徹底した実力主義で、いくら家格が高くてもその忍に耐えぬと判断したものは容赦なく入団を拒否していると聞いたことがある。
かの鳳凰騎士団が務まるということは、それなりに評価を受けた武人であるということか。
ルカは、普通の商人とは違って、軍人だからといって単純に見下すような真似は決してしなかった。商人として生まれついた以上、金の力こそが世界を動かす原動力であると見るのは当然のであるが、長らくの修練と血と汗の成果である武力の結晶も、また人間の技術の粋として尊ぶべきことであると知っていた。
「その、なんだ。仕事のほうはどうなんだ」
「は。日々、たゆまぬ努力を続け、この世界からあらゆる悪を根絶したいと思っています」
「ほう。口でいうのは簡単であるが、そのようなことが本当にできるとでも」
「できます。いや、必ずできなくてはなりません。なぜならば、それが――」
正義だから、と男はいった。
「ならば、聞かせてもらおうか。おまえの、信念とやらを」
ルカは、座っていた椅子を引き寄せると、膝詰めで男と語り合った。男の語り口はとても流暢なものとはいえるものではなかったが、どこか朴訥で信がおける現実的なものであった。
当意即妙、という感はない。
たとえるなら、錆の浮いた大きな鉄の塊といったところだろう。
鐘とは違って、叩いても涼やかな音を鳴らしはしないが、その鈍く大きな音色は鈍重ゆえに、耳へと重く、いつまでも尾を引いて残る。対話は、思った以上に長く続いた。
この男には信念がある。
そう確信に至ると、ルカは今までの非礼を詫びて、ひとことだけ伝えた。
「娘を、どうか、よろしく」
「ええ。拙者にすべてお任せ下さい」
男同士は分かりあった。ルカは、引き止める男を振り払うようにして屋敷の正面玄関へと向かった。手代のパットが、まるで別人を見るような目をした。さもありなん。心の澱が残らず浄化されたような、よい心持ちであった。
「ええと、会長。婿殿はどのような男でありましたか」
「バカ者。仮にもおまえの主筋だ。クランドさまといえ、クランドさまと」
「ええ! ああ、まあ、へい」
「まったく目のない男だ。儂には最初からわかっておったよ。儂の娘がおかしな男を選ぶはずがない。まったく、人にはやはり会ってみなければわからぬことが多い。儂もまだまだいたらぬ点が多いわ。おお! それと、クランドは治安維持に金が入用だといっておったな。パット。とりあえずネリー宛に書留を送っておけ。そうよな、まずは五千万Pほどで足りるかの」
「ひっ。ちょ、待ってください。待ってください、会長。それは、クランドさまから無心されたのですか?」
「バカを申すな。これは、なに。ほんの気休め程度よ。よき夢を聞かせてもらった礼だ」
ルカは口髭を指先で撫でながらニヒルに微笑んだ。
「あのっ。これは、私の意見なのですがっ。もし会長がクランドさまをお認めになったというのであれば、そう簡単に大金を送るのはいかがなものかとっ」
「貴様! もしや、儂とクランドの仲を引き裂こうというのであるかっ! そうか。わかったぞ。この際だ。上手くクランドを貶める発言をして、その上でネリーに取り入り、我が商会を横合いから残らず手に入れようと思っておるのだろう!」
「ちょっと待ってください! なんで、そこまで話が進んでゆくのですか。それじゃあ、私は稀代の大悪党ですよね! そうじゃなくて。敢えて試練を与えることによって、クランドさまのさらなる成長を促そうと思ってのことですよ! 送金は本当に困ったときに行ったほうが、双方のためにもなるかと思いますっ。遠くで見守り続けて、いざ……! というほうが粋かと」
「そ、そうか。そのほうが粋か。くっ、仕方がない。今回はそうするか」
「よかった。これで奥さまにどやされずに済んだ」
「今、なにかいったかの」
「いいえ! ぜんぜん! あっ、そうですよ! お嬢さまにはお会いしていかないんですか?」
「いや。ここでは会っていかないほうが粋だろう」
「もう、それでいいですよ。じゃ、気が変わらないうちに出ましょう」
パットは額に汗を無数に浮かび上がらせながら、ルカの背中を押すようにして急き立てる。
「おいおい。なにをそんなに急いでおるのだ。まったく」
「お父さま!」
玄関口でメイドに見送られていたルカとパットが聞き覚えのある声に顔を上げた。
そこには、慌てた様子で駆け寄ってきたルカのひとり娘であるネリーの姿があった。
「あの、事務所の方に連絡があったので、私急いで……!」
ルカはどこか硬い表情のネリーの顔をしばらく見つめた後、ふっと頬をゆるませた。
「また来る。今日はもう、充分に語った。それとな、儂はひとつ勘違いをしておった。おまえの旦那は、思った以上の傑物だった」
「え、えーと」
ネリーはとまどって視線を玄関脇に動かしている。無理もない。思えば娘には無意味にやたらと刺々しい態度ばかり取っていた。が、あのように素晴らしい男を見極める目があるのであるならば、ネリーもそれなりに世間の荒波に揉まれてきたのだろう。認めなくてはならないな。
不意に飛び込んできた騒々しい声に視線を移した。
そこには先ほど見かけた下男が、ダークエルフの娘に対して過剰なまでに装飾した猿の形態模写を肌脱ぎになって行なっているさまがあった。
「ほーらリザ。お猿さんだよー」
「ま、待つのだ! ちょっと、ホントにもうっ。待つのだったら! ちょ、マジ許してっ。ホントに腹の皮がよじきれるのだーっ!」
ダークエルフの娘は、蛮人の装束なのだろうか。裸体同然の格好で地べたを転げまわって、男の低俗極まりない芸に爆笑していた。
ルカはそのような無作法な下男の無軌道ぶりを見ても、もう、さほどに怒りを覚えなかった。
「婿殿には使用人のしつけ方を教えてやるとするか」
「まったくです」
ルカが去った馬車のはるか後方では、呆然と立ち尽くしたネリーが「なんなの」と小さく呟いていた。




