Lv182「かくし路」
この世界には、目には見えない場所で、誰かが賽を振り続けている。人間は、出目の指し示す分岐に従って、好む好まざるに、道を歩んでいるような気がしてならない。蔵人は、そんなことを思いつつ、目の前で顔を真っ赤にしながら膨れているヴィクトワールから、微妙に目線をそらしながら手の中に握った小石を弄び続けた。
「本当に見てないだろうな」
「しつこいな。見てないって……」
「ホントにホントだな!」
「本当だよー。チッ、るっせーな」
蔵人はあまりのしつこさに辟易して、舌打ちしながら小声で愚痴をこぼす。
もっとも性的なことがらに潔癖なヴィクトワールの追求がそう簡単に止むことはない。
ムッツリと押し黙っていると、なにを勘違いしたのか、彼女の顔は煮上がったタコのように変色しはじめた。
「おい、なにかいったか! 実は、あとで、わ、わわわ、私のショーツの色を皆に触れ回ったりとか、そういう邪な考えを少しでも抱いていたら、早々に捨てるんだぞ!」
「別に、おまえのパンツが黒だったなんて、みんなにはいわねーから安心しろよ」
「やっぱり見てるんじゃないかあああっ!!」
「もうギンギンやで」
「変態! 変態! 色情狂ッ!!」
「おねーさん、いいすぎだ。それは……」
蔵人は荒れ狂うヴィクトワールの姿を見ながら、自分がどうしてここにいるのかという、根源的な命題について深く悩みはじめていた。
(でも、やっぱりからかうとオモシロイな。こいつは)
「あのさ、ヴィー。そんなに思い悩むことはない。逆にこう考えればいいんだ。自分の、秘部のクロッチは、男をおっきっきさせるに足る蠱惑的なものであったと。そう、考えれば少しは優越感に浸れる部分もあるんじゃないか? 自身持てよ! おまえのアレは、死にかけのジジィも元気になる最高のものだったぜ!!」
蔵人は空前絶後の反論を受け、身の危険を感じ、自分の発言をたちまち取り消した。
「ふん。まあ、いい。私は、騎士として叙勲を受けた際に、女としての人生は捨てたつもりだ。いまのことは、犬に噛まれたと思って忘れることにするッ」
「ボキ、君の旦那さんなのに、なんでここまでボロクソにいわれなきゃなんないんスかねえ……。そろそろデレても、なんの問題もないんじゃないかと思うんですが」
「おまえは、私の理想とする好ましい男性像ともっともかけ離れた存在だ」
「オウフッ。こりゃあ、また手厳しい。えっふっふっ」
「だから、その気持ち悪い笑い方をやめろといっているんだ! 寒気がするッ!!」
「おー。効いてる効いてる」
実際、精神的ダメージを受けているのは蔵人の方であったが、このときの心理状態を細かく記述するのはあえてカットする。
「とりあえず話を戻す。クランド。結論からいわせてもらうと、これ以上あのダンジョンを真面目に攻略するのはやめろ。アレは、危険過ぎる」
「なんだ。実は俺のことを心配してくれてたのか」
「そうじゃない。いや、そうだが。違う違う、違くて。あのな。おまえは、どうして私が意に染まぬ婚姻もどきに応じて、おまえの周りをうろちょろしていると思っているんだ」
「実は激ラヴ?」
「違う! それが姫さまのご意志だからだ! まるで理解していなようだが、おまえという男自体が、秘術によって召喚された勇者であり、現在王位を巡って奮闘を続けるオクタヴィアさまの切り札になりうるからそばにおらずにはいられないのだ! 我々がこうして油を売っている間にも、あの冷たい王宮では水面下で熾烈な戦いが続けられている。かの、下賎な国賊どもは、歴としたロムレスの血を絶やすという不遜極まりない暴挙を行うことになんのためらいもない。どこの馬の骨とも知らない偽王子を操って王権を掴み取ろうとしているのだ。クランドよ。事実として、おまえが召喚直後にロムレス第一監獄に放り込まれたのは、上からの指示が大きく働いていたからだ。その胸に刻まれた紋章の力は、いまとなっては知る者も少ないが、姫を正統継承者として証づける確かなもの。考えても見よ。十階層で戦った守護獣ですら、あの力だ。おそらく、下へ深く潜るに連れ、古代十二神器を巡っての戦いは熾烈を極めるだろう。私個人の好悪はともかく、いま、おまえに死なれては困るのだ。ダンジョンにいくなとはいえない。屋敷の生活もあるし、現在ある資金とて十分ではないのはわかりきっているからな。実家に援助を頼むことも考えたが、それは彼女たちが誇りにかけて許さないだろう。なにより、ヴィクトリア姉さまが、真実どのようなことを考えているかはわからない。あの人は、状況によっては敵にも回りかねない。金が必要なら、これ以上深く潜らずでも、食っていく程度ならなんとかなるだろう。皆が力を合わせればな。けれど、おまえが富貴と名誉を望んで、攻略望むのなら、殿方を止める言葉は、女の私には、ひとつしか思いつかないのだ。もし、もしだ。おまえが、私の言葉を聞き入れてくれるのなら。苦渋の決断であるが、この私の身体を好きにしても……いいぞ」
「お、おい」
ヴィクトワールは最後に、消え入りそうな声でつぶやくと、意を決したかのように素早くお仕着せを脱ぎだした。しゅるしゅると音を立てて、衣がすべり落ちていく。ムッチリとした双丘と臀部は、かろうじて貼りつけてあるような、小さなブラとショーツで覆われているだけだった。腰は、キュッとくびれており、引き締った腹はわずかに割れて浮き出した腹筋が見えた。腿は、やや太めであるが、むしろ扇情でさえあり、健康的な色香を放っていた。白い肌に、ぴったり吸いついた黒の下着は、なんともいえないコントラストを醸している。蔵人は目を細めると表情を消した。性に関しては辟易するくらい潔癖な彼女が脱いだということは、それだけの覚悟を持って、今日に臨んだということだ。
「ヴィクトワール。はっきりいうぞ。それだけは、できない」
「なっ!?」
「俺は伊達や酔狂であの迷宮を攻略しようと思ったわけじゃない。やらなければならない。それが、俺の大望だからだ。実際、おまえは、ふるいつきたくなるようないい女さ。いますぐ、押し倒してやりてぇくれぇだが、誓いとは引き換えにできない。その提案は喉から出るほど惜しいが、ダンジョンと天秤にかけちゃ、ハナから釣り合いが取れないものなんだ。深淵の迷宮はなにがあったって最後の階まで降り立って見せる。たとえ、俺ひとりになったとしてもだ」
「……女に恥をかかせる気か」
「確かに守護獣は危険だ。おまえのいうとおり、あのダンジョンには、俺の世界と密接した秘密が隠されている。でも、危険だからといって避けていたらゲームは成立しないぜ」
「遊戯ではないのだぞ。おまえは、命をなんだと思っているんだ!」
「男ってのはそういう生き物なんだ。おまえもまだまだ修行が足りないな。それにな。この命懸けのゲーム、途中で降りることは許されない。おまえだけじゃないんだよ。いろいろと、こっちも背負ったもんがあるのさ」
ヴィクトワールは無言のまま、蔵人を見返すと、はぁと根負けしたように深く息を吐きだした。表情に憂いが濃い。
だが、どこかしら思い切ったように、声だけはどこか清々しかった。
「そうか。おまえも、命をかけているんだな。すまない。私は余計な差し出口を入れたようだ。呼び出しておいて悪いが、先に戻っていてくれないか。少し、ひとりになりたい」
「わかったよ。風邪引くなよ」
「うるさい……」
ヴィクトワールはゆっくりと遠ざかっていく蔵人のシルエットを見つめながら、草むらに置いた衣服を手に取って身につけはじめた。正直、あの男のことを見くびっていた。甚だ気が進まないが、心のどこかで、自分が身体を投げ出せばことは簡単に片づくと思い込んでいたのだ。そんなハズはない。自分で理想とはかけ離れたタイプであるといっておきながら、こちらの提案を一蹴した男の表情は、一瞬見とれるほど凛々しく、不覚にも胸が激しく震えてしまった。
(バカな。なにを考えている。この私が、あたりまえのような幸せを掴めるとでも思っているのか……!)
ドレスを着込んでエプロンをかけていると、背後から人の近づいてくる気配を敏感に感じ取った。完全に足音を消している。影のようにゆるゆると移動する癖は、長年自然と身につけてしまった暗殺者の癖なのだろう。
「覗き見とはさすがに趣味が悪すぎるな」
「手酷くフラれた割には、元気そうじゃないか。メソメソ泣くならば、ハンカチくらい貸してやろうか」
シズカはゆったりとした身体の線がまるでわからないローブを羽織ったまま、低木の茂みに寄り添って声を出した。
「なんだ。大ケガが治らず寝込んでいると聞いていたが。さすが、古い家柄のお嬢さまは骨柄がたいそうひ弱にできていると見受けられる。これに懲りたら、あの男にくっついて動き回るのはやめたほうがいいのではないか」
「おまえも、とっとと屋敷に戻ってベッドでふて寝を決め込まなくていいのか? 身体のキズは治っても、心の傷は治しようがないだろうからな」
「余計なお世話だ」
「……さすがのヴィクトワールさまも、女として見られていないとわかれば、少しはこたえたと思って声をかけたのに。やはり、情の薄い女だな」
「ちんちくりん」
「鉄面皮」
(いかん。このままでは、やつの術中にハマる。私としたことが、かような安い挑発に乗るなど、乗るなど……キイイイッ! 乗ってやりたいわッ!!)
「で。話はなんだ? 私はこれから戻って朝の掃除に取りかからなくてはならないのでな。それほど、なかよしこよしというわけでもないのだ。手短に願おう」
「別に用があって話しかけたわけじゃない。少し、クギをさしておこうと思ってな」
ヴィクトワールは胸元に飛来した小石を弾き落とすと、飛燕のように駆け寄ったシズカの手刀を紙一重の差で避けた。キラリと銀色の刃が陽光を反射して凶暴に輝いている。指先には鋭利なカミソリが潜ませてあり確実に喉笛を狙ってきたのが理解できた。
斬り飛ばされた、幾本かの髪がゆらりと宙を舞うのを見て、知らず小鼻に襲いかかる寸前の闘犬にも似たシワが寄ってしまう。やるならやるでかまわない。いまは、自分もずいぶんに機嫌が悪いのだ。ヴィクトワールが数歩下がって腰を落とすと、シズカはあっさりと構えを解いて、両腕を組んだ。
こいつ。自分から仕掛けておいて、本気でやる気はないと見える。ヴィクトワールは顔を奇妙に硬直させつつ、顔をそらして、首元にかかった髪を指先で払った。なんでもない風を装うが、突如として放たれた殺意と実行手段にハラワタは煮えくり返りそうになっている。頭の中で、柵を飛び越えていく羊を、いっぴきにひきと数えていく。祖母に享受された、心を落ち着けるときのまじないだ。薄目を開けてみると、自分から襲いかかってきたくせに、目の前の女はなぜか元気がいまひとつだ。俯きながら、ボソボソと喋る様子は、日頃とは違ってまるで精彩を欠いていた。
(これじゃあ、私がいじめをしているみたいじゃないか。ああ、もおっ)
「クランドに妙な真似をするな。もし、聞き入れないというなら、次に飛ぶのはその首だ」
「……私が望んで行っていると思うのか? シズカよ。あの男の立ち位置の脆さは、命を狙っていたおまえが一番よく知っているはずだ。それこそ、私以上に」
「私は、いまの生活が気に入っている。誰にも、壊されたくない。絶対に。ならば、そのためなら、私は」
「どんなことでもするという口ぶりだな。たとえ、それが国に逆らうことになっても?」
シズカは応えずに顔だけを上げた。ヴィクトワールは彼女の泣き出すのをこらえる一歩手前の表情を見て、呆気に取られると、気まずそうに視線をそらした。
「安心して養生してろ。あやつの命は私が守ってみせる」
「信じられるか」
「信じろ。なにしろ、王命だからな」
――お互いに理解していたのだ。
この生活基盤が、いかに脆弱な奇跡に裏打ちされているかという事実を。
蔵人は、夕刻、ちょっとした買い物を終えて市内から屋敷に戻ると、部屋で休養している女たちの様子を見舞った。ドロテア、リザ、カレンなどのエルフ娘たちは、単純に魔力の使いすぎでグデっているだけで、時間経過と共に回復していくため、特に問題ないと判断できる。
一方、シズカはメタルゴーレムから受けたダメージがかなり大きく、顔色は病人のそれだった。神聖魔術におけるヒーリングは、傷口こそ塞ぐが、無理やり因果を捻じ曲げて埋め立てた貸しとして、対象者の体力を大きく減じる。痛みこそほとんどないが、風船から空気を抜いたように、体力は下限を簡単に割り切ってしまうのだ。
一日停滞を決め込んだおかげで、蔵人の体力は完全に回復していた。シズカに対して、明日から再びダンジョン攻略を再開することを告げると、彼女はいつになくわがままをいってついていきたいとごねた。
蔵人の性癖はサドではないが、彼女のような可憐な美少女から、置いていってくれるなと半泣きで懇願されれば、情けないことだが虚栄心も満たされついつい甘い顔を見せがちになってしまう。心を鬼にして同行を禁ずると、シズカは目に見えてしょげた。このせいで、彼女を慰めるのに、軽く数時間かかってしまった。先は長いのだ。妻でもあり、クランの有力メンバーであるシズカを初期段階ですり潰すのは愚の骨頂である。
(それに、シズカの同行を許せば、のじゃっ子エルフをはじめとするみんなが、俺のいうことを聞かなくなるからな。リーダーは、ときによって、非情に撤しなければならぬのだ。許せよ、マイスイートハニー、シズカたんよ)
蔵人は、明日の冒険に備えて、夕食に大量の炭水化物を出すよう命じた。カーボローディングである。体内へとグリコーゲンを大量に保存して、長期的な行動に備えるのだ。
「よう、食うの。まるで、馬並みじゃな」
「がはは。俺は馬よか食うぞ。おら、ルッジ。そんな食い方じゃ、行軍の途中でブッ倒れちまう。腹が、ぽこんとなるくらい食ってちょうどいいんだっ」
「おえ。……頑張ってみるけど、ボクの消化能力にそれほど期待しないでくれ」
「よーし、リザもたくさん食べちゃうのだー!」
「あんたはお留守番なんだから、そんなに食べたらおデブさんになっちゃうでしょうが!」
調子に乗ってパスタをパクつくリザの後ろ頭をカレンが叩いている。食堂はもはや戦場同然の騒がしさで、ポルディナやリネットたちがフル回転で食事を搬送していた。
蔵人はジュージューと脂の滴り落ちる豚のステーキへ、ガーリックソースをしこたままぶしたまま、かじりつき、犬のように咀嚼する。つけ合わせの、甘いニンジンのバター煮や、ホクホクしたジャガイモを頬張り、肉汁の混じったソースに、パンを千切っては浸し千切っては浸して、存分に摂取する。肉片を噛み締めながら、ポルディナが運んできた、カルボナーラ風のパスタを、ぞるぞると音を立てて啜り上げた。ほのかなしょっぱい味わいと、バター独特の風味が、蔵人の口内で連鎖的に爆発し、脳みそから幸せ汁がダラダラと流れ出した。汚い。とにかく汚い。飢えた野犬のような食いっぷりだが、なぜかメリアンデールは、蔵人の潔い食いっぷりに男を感じたのか、フォークを持つ手をとめて、うっとりとしている。ネリーは椅子を引いて、蔵人から遠ざかっている。飛び散る汁から身を守る術はそれしかないのであった。
「うめっ! これ、めっちゃうめッ!」
「がふがふがふ、なのだー!」
「おまえたちは野獣か。まったく、騎士たるもの、食事中は常に品位を持ってだな」
ヴィクトワールが器用にパスタをフォークの先でくるくる巻き取ると、隣にいたリザががふっとその塊に噛みついた。ちゅるんと、パスタの束を飲み込むと、白い歯を見せて快活に笑った。ヴィクトワールはがっくりと首を落とすと、再び、フォークにパスタを巻きつける作業に戻った。
明けて、早朝。一日の休養を挟んで、蔵人たちは再びダンジョン攻略のため、冒険者組合がある事務所に向かった。十階層の守護獣戦で疲労度の高かったメンバーは外してある。当然のことながら、出がけに彼女たちはキャンキャンと吠えまくってまとわりついたので、ことを収めるのに、やはり無駄な時間を要してしまった。
シズカとハナは療養のため自宅待機。
ドロテア、カレン、リザは魔力補充のため自宅待機。
ネリーは事務所における通常業務のため欠席。
ヒルダは自宅警備のため自宅待機。
「みなさん、頑張ってきてくださいねー。朗報をお待ちしておりますよー」
「……おまえも来るんだよ」
「にゃーん。中一日はちとつらいー」
回復役のヒルダは貴重なヒーラーだ。元気な限り、手放すつもりはない。
前衛は、ヴィクトワール、ポルディナ、アルテミシア。
中衛に、蔵人、ヒルダ、メリー、レイシー、ルッジ。
後方の警戒として、今回はルールーを配置した。
合計九人。クランの適性係数である十人を割っているが、致し方なかった。
初回に比べて、グッと前衛の厚みが消えたが、これからの長期戦を考えれば、ややオーバースペックな配置だったとも思える。
「とりあえず、少数精鋭でいこう」
事務所に着けば、予想していた通り、冒険者たちの間で、昨日における守護獣討伐の話で大賑わいだった。
「しかも、よく見ればなんか張り紙してあるしさ」
この世界の文字が読めない蔵人でも張り紙の意味はおおよそ掴めた。一昨日に起こった、冒険者組合史上はじめての快挙に、皆が沸き返っているのだった。
「さすが竜殺しの聖女アルテミシアだ! オレはいつかやってくれると思ったね!」
「少数人数で手早く片づけちまったらしい。こりゃ、五英傑たちもうかうかできないね!」
「せめて、縁起担ぎに、髪の一本でもいただきたいもんだ!」
「おい、誰かアルテミシアさまの知り合いはいねえのか? それとも、こちらから白十字騎士団の詰所に押しかけちまおうかい!」
冒険者たちは口々に守護獣狩りにおけるアルテミシアの功績を誉めそやし、希代の英雄が登場する場面をいまかいまかと待ち受けているのだ。
「あー、これはクランドさんがワリを食ってるパターンですね」
ヒルダが面白そうにくふふと含み笑いをすると、アルテミシアは困ったように身体を縮込め、蔵人は真っ赤な顔で目玉をひん剥いていた。当然である。蔵人の存在自体が、冒険者組合においてはノーマークであり、一方、噂が独り歩きしているアルテミシアに対する輿望はまぼろしのように、どんどん膨れ上がっていた。はじめは、怒りを露わにしていた蔵人であったが、人々の熱狂具合が時間経過と共に高まるに連れ、屋敷を出たときの意気は、しぼんだ風船のように見る影もなく、いまやその顔つきは病んだ野良犬のように冴えなかった。
「ボクちん、もう帰ってもいいかなァ……」
「ああっ。クランドさんがやる気を失っています。ほらほら、みんな褒めて褒めて!」
ヒルダが咄嗟に機転を利かせて、一同を集めて、慰めにかかった。子供をあやすように、全員で誉めそやすと、数分後、あっさりと立ち直った。
「めんどうな男だ。だが、どうする。このままでは、アルテミシアを連れて入れないな」
ヴィクトワールは小さくなっていた話題の張本人を半目で睨んだ。
別に、彼女のせいではないが、慕う男の功を奪った格好になっているアルテミシアとしては申し訳なさでいっぱいだろう。
「なんで、冒険に出るまえから苦しまにゃならんのだ」
「もういい。ほら、みんなボクのまえに並んで立って」
ルッジは事務所の入口前にある階段の脇へと全員並ばせると、星の魔道書を取り出して、認識阻害の術をかけた。
「ふわー。なんか、ピンク色の霧が出てきましたね」
メリアンデールは、腰を左右に振って、自分にまとわりついてくる魔力の塊に目を丸くした。
「ホントにこんなもので、だいじょうぶなのかなー」
レイシーは砂色の髪を紐で結わえ直しながら、困惑の混じった口調で、袖のあたりを摘んでいる。魔力の霧は妙な粘性を持ち、つかず離れず身体の周りに漂っているのがどうも落ち着かないらしい。
「別に姿を消しているわけじゃいよ。そうだな、あくまで気づきにくくしているだけであって、こっちから大きな声で呼びかければ、勘のいい人間なら簡単に見抜くだろうね。要するに、自分が絨毯のケバになったと思ってくれてけっこうだ。普通、足元の些細な違いなんか誰も気にしないだろう」
「というルッジ先生のありがたい術なのだ。みんな、ゆっくりかつスピーディーに動いて、野次馬どもに気づかれないよう移動するぞ」
「無茶な指示を出すな。ばかもの」
「はいはい。なんちゃってメイドさんもどんどん進んでねー」
「だから、私の尻をいちいち触るなっ。この破廉恥漢が!」
蔵人はどさくさに紛れて、ヴィクトワールのケツを背後から両手で鷲掴みにし、あまつさえ素早く繰り出された彼女の後ろ蹴りを飛び退って華麗にかわした。
「こ、こやつ! 進化しているッ!?」
「……いいからとっとと移動してくれたまえよ。ボクの魔術が切れてしまうまえに」
蔵人たちがこそこそ階段の脇で声を潜めて密談している間も、玄関前で立っている警備兵は眉ひとつ変えない。と、思ってよく見れば、目をつむったまま、すうすうと寝息を立てていた。こんなんで平気なのか、組合員たちよ。こそっと、事務所に侵入すると、ルッジの魔術が上手く働いているのか、人々は話題の聖女に目もくれない。しめしめと、蔵人が腹の底でせせら笑っていると、受付カウンターに頬杖を突いていたネリーが、ぱたた、と軽やかに駆け寄ってきた。おい、魔術はどうなったのだ、と蔵人は思った。
「おい、俺たちの姿が見えてんのか?」
「……?」
ネリーは不審げな表情になると自分の頭の上で人差し指をくるくると回した。
誰が、パァだコノヤロー。
反射的にルッジを見ると、彼女は知らないよ、という風に小さく肩をすくめた。
仕方がないのであらましを話し、認識阻害の魔術をかけていると伝えた。
「ああ。そうですか。私はてっきり、また、頭がおかしくなったかと思いまして」
「おい、またってなんだよ。そのいい方じゃ、俺が、しょっちゅう頭の調子が悪くなってる困ったやつみたいじゃねぇか」
「だって、よくわからないことを四六時中いいだすものですから。妻として心配です。そうそう、渡すものがありました」
「サラッと嘘をつかないでねネリーちゃん」
蔵人は、手渡された紙切れを受け取ると中に目を通した。どうやら、内容はダンジョンの地図らしい。細密な筆致で描かれた細い道筋に、赤い筆であるルートがなぞられている。顔を上げると、ネリーが片目をつむったまま舌をペロッと出し、サムズアップしている。
正直、かなりかわいいので困った。
「実はここだけの話ですが。その地図は、冒険者組合で作成した、十七層までの最短ルートを記録してあります。苦労して盗って、もとい、借りてきたので有効に活用してくださいね」
「いま、サラッと怖いこといわなかったか?」
「これがあれば、七日の工程を一日に短縮できますよ」
「認めちゃった! あっさり認めちゃったよ!」
「クランドのためにがんばっちゃいましたっ。てへっ」
「……これって解雇案件だよなぁ、普通に」
私文書横領である。蔵人は地図を持つ手を小刻みに震わせながら、上目遣いに自分を見上げるネリーに視線を転じた。思えば、夫である自分のために、よかれと思ってやったことだろうが、犯罪は犯罪なのだ。うしろめたさになんとなく視線が踊る。
「私に罪を犯させるなんて……ヒドイ人ね」
「やれなんて命じてねえぇええッ!! ま、いっか。よーしよしよし、よくやった」
「でも、君も肯定するんだ……」
ルッジが呆れ果ててつぶやく。蔵人は、ネリーの頭を撫でていた手を止めると、わざとらしく咳払いをした。
「バレなきゃいいんだよ、バレなきゃ……! さあ、者ども参るぞ!!」
蔵人という男に一般的な良識を求めても意味はない。
意気揚々と第十一階層の攻略がはじまった。
前回、マーキングをしておいた場所まで魔石の力を使って転移する。
ゆるやかな傾斜の階段を降りると、カビとホコリが入り混じった暗黒の世界へ到達した。
ランタンをつけると、判然としなかった足元がにわかに明瞭となった。
「よーし。地図を出せ」
蔵人はネリーから貰った地図を広げると、ルッジに進行方向を確認させた。
先日とは違って、前衛の火力は著しく減退している。これから先は、徐々にモンスターの数も増え、攻略日数は確実に増えていくだろう。その際に、必要とされるのは、ある意味スピードよりも、個々の耐久力と、なによりもケガをしないということだ。いくら前進するスピードが早くても、負傷してパーティーを脱落すれば、復帰までに時間を要する。
「作戦は、いのちを大事に、だ」
「それなら任せてください、すっごく得意です。私は、どんなことがあろうと、逃げて逃げて逃げまくり、最後まで生き延びて見せますよ」
「ヒルダぁ……」
レイシーがヒルダの言葉に苦笑する。
「いや、それはある意味真理だ。みんなも、自分がヤバくなったら、第一に命を守ることを最優先にして欲しい。無理はせず、安全第一で作業しましょう」
「おまえは工事監督か」
蔵人は外套を肩に引き回すと、ヴィクトワールのツッコミを無視してクランに前進の指示を出した。ゆくてに広がる茫漠とした迷宮の陰。闇は、いまだ、深い。




