Lv130「突破」
牢に入るのはこれがはじめてではない。蔵人はさすがに捕まり過ぎかなと考えながら、四畳半ほどの広さの独房でひっくり返りながら鼻毛を抜いていた。アレクサンダーは蔵人を放り込むと同時に後でのお楽しみの支度をするといってその場を後にした。
「どうせロクなことじゃねえだろーな」
それにしても思い浮かぶのはドロテアのことである。間違いなくこのパターンは、子供たちを人質に取られていうことを聞かされているってやつだろう、と見当をつけていた。
(そうでなきゃ、あのじゃじゃ馬をあの三下に飼い慣らせるわけがねーんだよ)
ドロテアはハーフエルフの孤児たちを守ることを生き甲斐にしていた。となると、俄然真実味を帯びてくるのがアレクサンダーが語った、さもありげな生々しい艶話だった。
「相変わらず美人だったなー。ハァ」
蔵人はため息を突きながら拳を握りしめ、壁にブチ当てた。轟音と共に漆喰の壁が剥落し、天井の埃が顔面に降りかかった。頭の中から、アレクサンダーがドロテアの豊満な肉体を組み敷く場面が湧き上がって消えない。
それにつけても、この俺のイマジネーションの強力さよ。蔵人は己の想像力が果てしなく広がっていくのを抑えきれずに、苦悶した。
「あああああっ! イラつくうううっ!! ふっざけんなよおおっ!!」
こんなモヤモヤを抱えこむならば、あのときカッコつけずにドロテアと一発やってから旅立つべきだと、歯を食いしばって吠えた。
「ざけんなああああっ。あのクソがあああっ!!」
蔵人は狭い牢内をゴロゴロ転がりながら、壁に突き当たると再び反転して左右交互に身体をぶつけまくった。
アレクサンダーの野卑な顔がドロテアのムッチリした乳房に寄せられ、ピンクの蕾が唾液に塗れた舌でしごき上げられるのを夢想し、激しく欝勃起した。
(え? なに、この感情? もしかして、俺。新たなる性癖に目覚めちゃったりしちゃったりなんかしちゃったんですか。未知なる世界へとオープントゥザゲートですかぁ。ってなんで広川太一郎風に悶絶してんだよおおっ。わけがわからんっ)
「クランドさん、クランドさん」
「あ? 誰だよ、俺は今無性に気分が悪いッ!!」
「きゃ」
蔵人がトサカを立てたおんどりのように飛び起きると、そこには尻餅をついたまま食器の乗った盆を持つ、ひとりの少女がいた。
格子の向こう側に、確かに見覚えのある十代前半の少女は、記憶の中よりもはるかに大人びた顔つきで、弱々しく微笑んでいた。腰まである金髪はくせっ毛で軽いウェーブがかかっている。ツンと上を向いた小鼻がぴくぴくと震えていた。
「リネット」
「クランドさん、クランドさんだぁ……!!」
数ヶ月ぶりに再会したリネットは盆を石畳の上に置くと、顔を牢の格子へとぶつけるようにしてかじりついて来た。伸ばされた手のひらを掴む。以前にはなかった、豆やアカギレのヒビが、この牧場における彼女の生活の過酷さを物語っていた。
「久しぶりだな」
「はい! クランドさんも相変わらずお元気そうで!」
「まさか、こんなところでまた会うとはな」
「お互いに、想像もしてなかったですもんね」
「泣くなよ。ったく、この状況じゃ抱きしめてもやれねぇ」
「はい、はい。ごめんなさい。でも、あたしすっごくうれしくって。うれしくて。これはうれし涙だから」
「すまねえ。不甲斐ないよ俺は。おまえたちがこんなことになってるんだなんて。みんなは元気だったか」
「いえ……」
「わりぃ。また答えにくいこと聞いちまって」
「でも! それはクランドさんのせいじゃありませんよ! それにそれに、ルシルやエミリア、リリスにミラ、カメル、キャシー、マリセラ、セニアなんかはみんなみんな元気です!!」
「はは。そうか。ハンナやジル、ペロネペなんてのもいたな。ルシルはちったぁでっかくなったか」
「ぜーんぜん。でもあれからすっごく元気になったんですよ。相変わらず口数は少ないけど、もういたずらばっかりで困っちゃう」
蔵人はリネットが持ってきた粗末なスープとわずかな黒パンを綺麗に平らげると、話を続けた。錆びついた格子を挟んで談笑に花が咲く。流れ的に蔵人は、もっとも仲の良かったドロテアに関して話を振った。
「そうか、そか。なつかしい。んでな、ドロテアのことなんだが」
「本当、なつかしい。あ、これお昼ご飯です。これからは、あたしがクランドさんの食事当番になったんで、ほかの人たちより多めにしたげます! あ、そろそろ見回りが来ちゃう。クランドさん、お話は、また明日の朝にでも」
リネットは立ち上がると盆を持って歩き出した。あきらかにドロテアのことに関しては触れたくないという様子だった。視点をその後ろ姿に転ずると、リネットはひょこひょこと右足を引きながら歩いている。あっ、と思ったときにはもう遅かった。蔵人が舐めるように食べきった椀やスプーン、尖ったフォークが音を立てて転がった。
「あいたぁ。えへへ、ごめんなさいね。あたしってば、またドジっちゃって」
「おい、その脚」
蔵人が目に映ったのは、かつてはなかったリネットの右ふくらはぎに刻まれていた痛々しい傷跡だった。脚の腱を斜めに両断する形で深い創傷が走っている。リネットが跛行している原因だった。蔵人は胸を押さえて低く呻くと、努めて声を押し殺し、リネットに怯えが生まれぬよう注意を払った。
「どうしたんだよ、それ」
「あ。えへへ、これ? これですか? うん、どうってことないですよ。ちょっと、ドジをしてキツいお灸を看守の人にされちゃいました」
リネットは、どうってことないという風に舌をペロリと出してはにかんで見せた。
ドジった? ドジって折檻を据えられたっていうレベルじゃねえだろ!!
「あ、あ。やだな、やだな。クランドさん。あたしなら大丈夫だから。だから、ね? そんあ顔しないで」
「リネット、よう」
「な、なんですか。もお。あたしなら、大丈夫ですから。ぜんぜへーき。だって、ルシルたちも耐えてるんですもん。だから、あたしのことなら」
「計画は変更だ。ここからいますぐ出ることにする」
「え」
「だから、もうそんな顔しなくていいんだ」
リネットはポカンとした表情で蔵人の顔を無心に見つめた。大人びた風貌が一瞬だけ童女に戻る。指先に満身の力を込めて握り締める。上下に打ち鳴らされた歯がギリギリと音を立てて軋んだ音を響かせた。
蔵人は腹の底から声を上げて力を開放した。錆びていたとしても、鉄の格子である。人間の力では到底どうにもならないそれは、リネットの目の前でみるみるうちにひしゃげると溶けた飴細工のようにたわんでいった。
「おおおおおっ!!」
屈んだ蔵人の増帽筋が服の外側からでもわかるほど盛り上がっている。
「あ、あ、あ」
リネットは座りこんだまま口元を手で覆った。
再会できただけで充分だった。
ここが地獄なら、会えたことだけでも奇跡として喜ばなければならない。
鈍い音と共に鉄の格子は砕けて吹き飛んだ。
そして、男は悠然と牢からあたりまえのように這い出ると、佇立していた。
「――だから、泣きたいときは泣けばいいんだ。俺の胸ならいくらでも貸してやるから」
リネットは、この絶望的な奴隷の集積地でいつしか形だけの笑いに慣れていた。子どもたちの中でもっとも年上で、ほとんど大人に足を踏み入れかけていた彼女は、否応なしに庇護する側に立ち続けることを要求されていた。だけど、本当は彼女自身も誰かに縋っていたかったのだ。リネットはふらつきながら蔵人の胸に顔を埋めるとワンワンと声を上げて泣き出した。ここまで物音を立てて、看守が無関心でいるはずもない。
「どうしたっ! いったいなんの騒ぎだ!!」
「ああっ、クッソ! どうやってこの牢を。リネット、やはりおまえ!!」
蔵人は泣きじゃくるリネットを抱きかかえながら、拾ったフォークを突きつけた。
ふたりの看守は顔を真っ赤にしながら、剣を抜き放ち踊りかかってくる。
「食わせてもらっておいてなんだが、ここのメシはシルバーヴィラゴの牢より数段劣る」
「ふざけるな!!」
顔を真っ赤にしてひとりの看守が無防備に突っかかってきた。蔵人はリネットを背中に回すと看守の突きをダッキングでかわして右目に向かってフォークを突き立てた。
「あいいいっ!?」
ぞぶり、と尖った先端が眼球を串刺しにする。看守は猿のような甲高い吠え声を上げるともんどりうって石畳の上を転げ回った。
「おお。コラーゲンとかDHAとかまるっきり配合されてなさそーな目玉だ。気持ち悪ッ」
蔵人は看守の目玉を先からつまみ出すと足元の放り捨てつま先でにじった。ぷちゅ、とぶどうの粒を潰すような音が鳴った。
「あああんっ! おれの、おれの目ん玉がああっ!!」
蔵人は泣き叫ぶ看守の喉をトゥーキックで的確に潰すと、転がった剣を拾った。牢が並列に並ぶ狭い廊下をゆっくりと前進する。あっという間に朋輩のひとりが苦もなく転がされたのを見て、残ったふたりは額に汗を浮かべながら後退していく。
「リネットぉおおっ! こんなふざけた真似してタダですむと思うなよおぉ」
「……リネット。やってやれ」
蔵人は鼻を軽く鳴らすと顎をしゃくった。脇に隠れていたリネットは、さっと顔を突き出すと看守に向かってあかんべーをしてみせた。実にキュートである。
もっとも、いままで道具扱いしていたエルフに手のひらを返され、看守たちの怒りは頂点に達した。ロクに剣を使ったこともないのだろう。及び腰で繰り出す剣さばきは、いまの蔵人にとっては眠気を催すたぐいのものでしかない。
真正面から振り下ろしてきた剣をパリィすると水平に剣をすべらせた。
斬撃は看守の左腕をすっぱり切断させると勢いよく血潮を噴き出させた。
看守は悲鳴を上げながら転がって、石畳に顔を打ちつけもがいた。
蔵人は転がった看守を蹴り飛ばしながら棒立ちになっている最後のひとりへと突きを見舞った。刃は下腹部へと突き刺さると背中まで突き抜けた。
男の胸を蹴って剣を引き抜く。
よほどのなまくらなのか、二度ほど振るっただけで、刃が丸まっていた。
「ダメだな、これァ」
蔵人はなまくらの剣を放ると、骸から鞘ごと剣を奪って一本を腰にぶちこみ、もう一本は抜身のまま手にした。空いた左手でリネットを腰ごと抱え込んだ。
「あの、足でまといになるなら、置いていっても」
「大丈夫だ。足の邪魔にゃあならねえよ。文字通りお荷物だけどな」
「もうっ」
蔵人が白い歯を見せて快活に笑った。
リネットもあきらめたのか、妙な気を使わなくなった。
石畳のかび臭い廊下を駆け抜け、階段を登りきると看守の詰めの部屋に飛び出した。
テーブルに足を乗せてカードをしているふたりを抜き打ちで斬りつけた。
無防備な状態で首を薙ぎ払われた男は、手元にカードを揃えたまま微妙なバランスを保ったまま死体と化した。
残りのひとりは逃げようとした背中を垂直に切り裂かれ、両腕を突き出しながら息絶えた。扉を蹴破って外に出る。槍を抱えたふたりの傭兵と目が合った。
「は、はろー」
「脱走者だ!!」
男は呼ぶ子を吹き鳴らすと槍を振り回して追っかけてくる。蔵人は、カマボコ型の建屋をジグザグに走りながら思考をまとめようと努力していた。
「なあっ。ルシルたちの閉じこめられてる場所はどこだ!」
「右から三番目の宿舎の、地下です。でも、いまはちょっとまずいんじゃないですか」
「なんでだよ! どうせ、突っ込むなら同じだろ」
「いまはお昼どきなんですよっ」
「だから?」
「だからって。ああ、もお。三番目の宿舎は研究施設と隣接してるんですっ。それで、牧場長はその護衛にってすっごいのを飼ってるんですよっ」
「すっごいのって、なにさ!! ――って、もしかして」
蔵人は、目の前に立ちふさがる巨大な生物を目にして絶句した。追撃をかけていた男たちが叫びながらあっという間に姿を消していく。
それはおよそ、十メートル近くはあろうかという巨大な三ッ首の犬だった。
真っ黒な毛皮は残らず逆立っており、口吻も裂けよとばかりに剥き出された乱杭歯はその一本一本が身の厚いグレートソードほどもある鋭さだった。瞳は黒く、恐ろしいことに確かな理性を感じさせるほどしとやかに光っている。
「魔犬ケルベロス。牧場長の飼い犬にして懐刀。もう、その辺りで逃げるのは諦めたらどうじゃ」
「ドロテア……!!」
ケルベロスの傍らに進み出たドロテアの姿に、リネットがつかみかからんばかりの形相で吠えついた。
「リネット。それにクランド。もはや逃げられはせぬよ。観念せい」
「よくもぬけぬけとあたしのまえに顔を出せたものねっ!! 裏切り者ッ!!」
「やはり、いまだ理解してくれぬか」
「なにを今更ッ。あたしたちをあんなところに閉じこめておいて、自分だけは商会に寝返って。きらいよ! あんたなんてっ!!」
「お、おい」
ドロテアは疲れたように笑うと、ふうと大きなため息をついた。それから、目元をわずかに赤らめながら蔵人に向かってしゃべりだした。
「どうもリネットは頭が硬すぎていかん。のお、クランド。勝手に出てきてはいかんではないか。わらわがそのうち、ホレイシオにとりなして牢から出してやったというに」
「馴れ馴れしくクランドさんに話しかけないでよ! ドロテアがそうやって、いつも通りの生活をしているうちに、ルースやニコラたちはろくな手当も受けれずにいまも苦しんでるのっ」
「わ、わらわは別にそんなつもりじゃ」
「絶対に許さない……!! 自分が助かりたいばっかりに。今度は、クランドにまで手を出そうとするなんてっ!!」
「ち、違う。違うのじゃ、わらわは。わらわは」
蔵人が知っているふたりの関係は仲睦まじい姉妹そのものだった。少なくとも、エルフの里において、ふたりはほかの誰よりも深い信頼関係で繋がっていると見えた。
だが、久々に目にする両者の仲は、明白に食い違った前提条件の中ですれ違ったままの道を行こうとしている。
特にリネットの怒りは蔵人が知る限り、かつてないほど強いものだった。まるで親の敵を見るような目で、ドロテアをにらみつけ、隙あらば食い殺そうと歯を剥き出しにする様は、もはや少女とは呼べず明確な意志を持った女性そのものの瞳であった。
「おまえらちょっと待てって。落ち着けよ」
「クランドさんは黙っててください。ねえ、ドロテア? あたしたちがこのまま尻尾を巻いて逃げるだけだと思う? お生憎さま。あなたが、雑役夫や傭兵といやらしいことをしている間に、この商会をやっける手はずくらいちゃんと考えてあるんだからっ」
「違う! クランド、リネットがいっているのは全部誤解じゃ! わらわは、わらわはそなただけを想って!」
「いまさら貞淑ぶるつもりなの? いつもそうね。でも、今回はもう譲らないわ。あのときは、あたし子どもだったの。でも、いまならちゃんとクランドさんのことを愛してるってわかるの。あんたみたいな淫売にクランドさんを近づけたらなにもかもダメになっちゃう!!」
「リネットよ。わらわにも我慢の限界というものがあるぞ」
「ふん。どんな? それに、これからあたしたちは一番近いシルバーヴィラゴまで行ってお城の兵隊さんたちに悪いやつらを討伐してもらうようにお願いするんだからね! もう、ドロテアが改心したって遅いんだから!」
「早まった真似を!! そんなことをすれば、ルシルたちの命が……!!」
「ルシル!? なんでこの期に及んで脅しみたいなこというのよっ! あたしはもうひと月もあの子たちに会わせてもらってない! みんなみんな、あの暗い部屋の中で泣きながら死んじゃったんだ!! みんな、みんなドロテアが悪いんだから。ああああっ!!」
「う、嘘じゃ。ルシルたちはみんなまだ生きておる。その、元気とはいえないが命には別状はない。ほ、本当だ。クランド。そんな目で見ないでくれ。頼む、後生じゃ。わらわは、あの子たちを捨ててまで自分が助かろうとは思わぬ」
「騙されないで! 騙されちゃダメよ、クランドさんっ!!」
「というかさ。とりあえず、そこのワンちゃんが怖いから逃げたいんだが……」
蔵人はドロテアが形容し難い烈火の表情でにらむのを尻目に、リネットを抱え上げると唐突に走り出した。
「こらあっ、待て! 話はまだ終わっとらんぞ!!」
蔵人は疾風のように駆けた。不意を突かれた形となったドロテアの姿が後方へとみるみるうちに小さくなっていく。このまま何事もなく逃げきれると思いきや、ケルベロスは一声大きく吠えると地を蹴って走り出した。
「おいおい。冗談じゃねぇぞ」
三ッ首の狂犬が地を踏む度に、地雷が爆発したかのような響きが周囲に木霊した。
到底逃げきれない。覚悟を決めた。
「クランドさん?」
柵を乗り越えた辺りでリネットを下ろすと、蔵人は反転して駆け出そうとした。
「待って、待ってください! やだ、やだよ! いっちゃヤダ!!」
「でーじょぶだよ。なんとかおまえが身を隠すまで時間を稼いで見せる。もしかしたら勝っちゃうかもだけど。うぷぷ」
「そんなバカなことが出来るわけないでしょう! やだあっ、あたしひとりで逃げるのやだぁ!!」
「聞き分けてくれやリネット。それに、俺はこういうの慣れてんだ。死にゃしねえよ。多分な」
ケルベロスの巨体は難敵である。そもそもが、蔵人はいつだって己より強いものと戦い続けてきたのであった。ドロテアとリネットの仲には、幽閉生活の中で無理矢理に産みつけられたタチの悪い病巣があった。
「名医とはいえねえが。なんとかせにゃあなあ、オイ」
奴隷狩りなどという馬鹿げたことが起きなければ、ふたりも、そして静かに暮らしていた混血の孤児たちもしあわせに暮らせていたはずだ。迫り来る、黒い嵐は異様な殺気を纏って進軍する。もはや、ここにまで到達するのに数秒かからないだろう。
「死なねえよ、俺は」
リネットの顔が涙と鼻でベチャベチャになっている。こんなギリギリであるというのに、なぜかおかしくなった。
奪ったなまくら刀でどこまで戦えるか自分でもわからない。地を蹴って目前に迫ったケルベロスの凶暴な顎がぬらぬらと唾液にヌメって冷たく輝いた。
蔵人が剣を構え直したとき、横合いから一陣の颶風が突如として割り込んできた。
灰色の風は旋風となって斜めにケルベロス身体を駆け抜けると、凄まじい肉を断つ音を響かせた。
「なんでアンタが」
「ゆけ。ここは引き受けた」
死神のように削げ落ちた頬。虚無的な右目が鈍く光っていた。ジョシュヤ商会の傭兵イカロスは腰から引き抜いた長剣を正眼に構えると、蔵人とリネットをかばうようにしてケルベロスの前に立ちふさがったのだった。
「イカロス、さん?」
リネットが呟くように男の名を口にした。理由はまるでわからないが、千載一遇の好機といえた。蔵人はリネットを抱きかかえると、遮二無二その場を駆け出して森に分け入った。藪を漕ぎながら、追跡を受けないように、進路を意図的に蛇行する。理解できないのはどうして、あの商会の犬が己を助けたということだ。蔵人が、ある程度の距離を稼いで木立を背にして一息つくと座りこんでいたリネットがもにょもにょとバツが悪そうに口を開いた。
「あたし、イカロスさんの傷を手当したことがあるんです」
リネットの話はこうだった。この牧場に来てからそれほど経たないある朝だった。リネットは、井戸端で激しく左目を押さえて仰向けになったまま、悶絶しているイカロスを見つけた。リネットたちが捕縛された日に、商会の傭兵としてドロテアと五分に切り結んでいたイカロスの姿はまだ記憶に新しかった。けれども元来やさしい心根の持ち主であるリネットは苦しむイカロスを見ないふりはできず、濡れた布巾で酷く痛むらしい左目を冷やしてあげたのだ。
「でもっ、でもっ! クランドさんの敵ならイカロスさんだってあたしの敵ですっ。それだけは、それだけは本当ですよ! あたしが頼りにしているのはクランドさんだけなんですからっ」
「わーってる、わーってるって。しかし、イカロスがなぁ」
リネットは少しの瑕疵でも蔵人の気持ちを損ねないよう必死でイカロスとの繋がりを否定してきた。まだ、十三になったばかりの少女の気持ちは、ただ幼く映るがその懸命さは微笑ましいものだった。
(けどやっぱ、あの左目だよな。俺の攻撃をかわしはじめたのも、あの眼帯を取ってからだったし。おいおい、なんちゅうチートだよ。卑怯なやつめ。そもそもそういう能力って、召喚インスタント勇者である俺にこそ配備されているべき能力じゃね?)
自分の不死能力は棚に上げておいて、なんとも手前勝手な理屈である。
所詮、現代っ子だ。
蔵人がイカロスの能力について真面目に考察しようとし始めたとき、潅木の茂みがカサコソいいだした。怯えたリネットがギュッとしがみついてくる。
「クランド!!」
「おおわっ、ちょ! リザ!!」
「んなっ!?」
「クランド、クランド! よかったさすが、リザの旦那様だっ! やたっ!!」
リザはリネットを突き飛ばすと蔵人を胸に抱きかかえて歓喜の表情で吠えた。草むらに頭から突っこんだリネットは無言のまま立ち上がるとそっと近寄って頬をつねった。
「い、いだああっ。ボク、痛いんですけどぉおおっ」
「さあーどうしてでしょうかー。あたしに少し説明とか必要なんじゃないでしょうか。クランドさん」
「ううう。リネットが怖い」
リザはキョトンとした顔で座り込んでいたが、なにかの遊びと勘違いしたのか、キャッキャッとよろこびながら、空いたもうひとつの頬に指を伸ばしてきた。よって、蔵人の頬は左右から引っ張られ形になる。地味に痛かった。
「おおっ。すごい伸び具合。リザも負けないぞっ」
「ちょっ! なんですかあなたは! そもそもそんな競争はしてません」
「なんだ、つまんないの」
「おう。とりあえず遊んでる場合じゃないんだ。場所を変えよう」
それならばと、先導するリザに連れられ蔵人たちは移動した。できるだけ遠のいたが、所詮は敵の勢力範囲内である。また、足弱であるリネットを抱えたまま、夜の森を移動するのは危険すぎた。リザが見つけた朽ちかけた納屋へとようやくたどり着くと、そこには奴隷農場で最初に会った身重のエルフが藁を枕に転がり、苦しそうに呻いていた。
「あそこから連れてきたのか」
「だって、かわいそうだったから」
リザは怒られるかと勘違いしたのか、頭を抱え込みうずくまった。
蔵人は苦笑しながら、小刻みに震える彼女の頭をやさしく撫でる。
リザはでへでへ、とだらしなく笑みを浮かべた。とにかくこれからの善後策を検討しようと一同が腰を下ろしかけたとき、エルフの少女は悲鳴のような激しい声を上げ、身をよじって苦悶した。裸体同然の身には、リザがどこからか拾ってきたボロ切れに近い毛布がかけてあるだけだ。少女が苦しんで手足を動かすたびに、青白い張り切った腹が動いた。
「これは、陣痛です」
リネットは冷静に少女のお腹をさするとつぶやくようにいった。
「よりにもよって、この状態で産気づいたのか」
蔵人は立ち上がると、巣篭もり前の熊のように辺りをウロウロしだした。このあばら家はいつ、商会の手によって襲撃されるかわからない。おまけに、妊婦が産気づいたとしても、付近には医者はおろか集落すらあるかどうかわからない。敵と切り結んで血路を開くならばともかく、お産となると蔵人にできそうなことはなにもない。
どうしよう、どうしようと、焦る気持ちばかりが頭の中をぐるぐると逍遥している。対して、ふたりの女は至極冷静だった。リザは、納屋の中から比較的使えそうな布切れと鍋を探し出すと、火を焚いてお湯を沸かしだした。
「クランド、じゃま!」
「どいてください!」
リザとリネットが殺気立った声で蔵人を遠退け、お産の準備を始めだした。慣れたふたりの手つきを見れば、これがはじめての経験というわけでもなさそうだった。こうなると、男などはなんの役にも立たない。おたつく蔵人はもはや無用の長物と化し、石像のように部屋の隅で立ち尽くすのみだった。
「ど、どうしよう。お、俺はどうすればいいかな」
「お産のことはあたしたちに任せてください。クランドさんは表を見張っていて!!」
「は、はいいいっ」
リネットのつり上がった瞳は異様に迫力があり、従わざるを得ないものだった。
蔵人は表に飛び出すと、外套の前を合わせたまま辺りをうろつきだした。相棒である聖剣黒獅子は取り上げられたものの、衣服はそのままだったのが幸いした。
ぐるりと納屋の周りを見渡すと、端の方に簡易的な井戸があった。釣瓶を落として水を汲み上げ、木桶に手を入れて中身を舐めた。冷たく、澱んだ気配はない。井戸の中に頭を突っこんで見るとひんやりとした空気が頬に触れた。どうやらこの井戸は充分飲用に耐えるらしいと判断できた。柄杓ですくって喉を潤す。山際の端に紅を刷いたような夕日が目に眩しかった。草むらを擦り上げる音といっしょに、ぬっと背の高い男が姿を現した。削げた頬に昏い目つきがいつも以上に澱んで見えた。イカロスである。手には抜身の剣を持ったまま、ゆっくりとした動きで近づいてくる。先ほどは、どんな気まぐれで蔵人とリネットを助けたのか理解はできないが、もはや対決は避けられそうになかった。
「場所を変えるぜ。決着をつけよう、イカロス」
蔵人の心にはもはや熾火のようなしみったれた憎しみはなかった。純粋に剣に命を託して今日まで生きてきた矜持を穢してはならない。それ以上に、目の前でうっそりと立っている希代の名剣士と勝負をつけたい気持ちでいっぱいだった。蔵人は鞘を払うと丈の長いススキの穂がなびく草原へ猛然と駆け出していった。




