Lv110「鳳を三度射た」
バトルシークは激しく憤りながら、カレンを満座の中で打ち据えていた。
その瞳には、闇の淵を思わせるような昏さがあった。
手にした馬鞭は彼女の背から出血した紅で染まっている。
カレンは顔をうつむけたまま、一語のうめきももらさず、耐えに耐えていた。
「なぜだッ!! どうして、おれを裏切るのだっ!!」
巨体を震わせながら怒号するさまは、居並ぶ歴戦の将兵も怯える迫力があった。
膂力が衆に秀でた巨躯が、筋肉を盛り上げて激情に駆られたまま、鞭を振るうのだ。
その痛み、衝撃とて、大の男でもすぐさま悶絶するような激しさだった。
バトルシークの中では、裏切られた、という感が強い。
近習の報告によれば、カレンの逃したルールーという密偵が城塞へともたらした信書により、クライアッド・カンとシルバーヴィラゴ側の軍事同盟は成立した。
あろうことか、テア殺害の発端まで陣営には事細かに伝わり、軍営を抜け出す兵は、時間経過と共に数を肥大させていた。
想定の範囲外である。
おまけに、軽く見ていた実父のエルブレドは思った以上に後陣の十五万を擁して力戦を見せた。父に応変の才はない。そうタカをくくっていたことが裏目に出た。
おまけに、背後に食いつかれる格好となったバスチアンという老齢の大将の駆け引きは、ある意味自分より上回っていた。時間が経てば経つほど兵の損耗は激しい。バトルシークの顔に憂慮の色が濃く浮き出ていた。
瞬時に、後陣の営塁を落とす。
返す刀でバスチアン軍を壊滅させてシルバーヴィラゴを抜く。
それが、彼の立てた基本方針であり、確かなやり方のはずだった。
だが、実際は基本を貫くどころか、すでに敗色濃厚である。
その上、いっときでも信頼しかけた后であるカレンが敵と通じていたことが、バトルシークの怒りをさらにあおったのだ。
詫びのひとつでも入れればすぐさま、許してやろう。甘さとも取れる彼の弱さのあらわれだったのかもしれないが、強情にもカレンは口をつぐんだまま、揶揄するように笑を見せたのだった。燃え盛った炎に油を注ぐようなものである。打擲は果てることを知らず、延々と続くかに思えた。
「死ね、死んでしまえ!! おれを敬えない者は、残らずこの地上から消えてしまえ!!」
カレンの背中からは多量の血が噴き出し、いつ意識を失ってもおかしくない状態だった。
棒刑や鞭打ち刑でおそろしいのは、ケガの度合いよりも、むしろ痛みのほうであった。
人間の五体というものは、思ったよりもヤワにできていて、あまりに傷の度合いが強いと、ショックで死ぬことが多々あった。筋骨を鍛えて太くすることは可能だが、どれほど鍛錬を積もうとも、皮膚の表面を鍛えることは不可能である。
それでも、彼女は異様なまでの忍耐を見せるとせせら笑いを浮かべたままだった。
バトルシークは、血を脳天まで昇らせると吠えながら、女の腰を蹴りつけた。
カレンは横倒しのまま顔を大地に伏せたまま、かすかな声でつぶやいた。
「……たまるか」
「ああッ!?」
バトルシークは息を荒げながら、カレンの絶え絶えな声に耳を澄ませた。
「……あんたなんかに負けてたまるか」
恨みが骨の髄までこもった言葉だった。
殺そう。殺さねばならない。
バトルシークの顔から表情が消える。腰に提げた黄金造りの太刀を引き抜くと、握る手に力をこめた。カレンの顔に足を乗せ固定する。憐憫の情など微塵も浮かばない。
憤怒に燃えた男が苛立ち混じりに、刃を振り下ろそうとしたとき、幔幕が大きく破けて、兵士の身体が飛び出してきた。
「なんだ、これは」
その男はバトルシークが本陣の護衛のために選び出した、武勇のもっともすぐれた百人のうちのひとりだった。
背丈は二メートルをはるかに超え、目方はオークを凌駕する大兵肥満の強者だ。
それが、胸元へ大きな創傷を受け、幼児のように転がされている。
男は怯えたように身を丸めると、顔を青ざめさせ激しく震えだした。
「に、逃げて」
「なんだ」
「逃げてくださ――バケモノ、だ」
バトルシークは入口から強烈に放射される殺気の颶風を感じ身をこわばらせた。
驚かなかったといえば嘘になろう。
果たして、そこには、二度まで完膚無きまでに殺したはずの男が、音もなく佇立していたのだった。
蔵人はグリフォンから飛び降りるとバトルシークがいるであろう最前線に飛び降りた。
陣幕を切り裂きながら駆けた。エルフの兵士たちは手にした剣を振りかざしながら、砂糖にたかる蟻のように集まってくる。シズカの動きは素早かった。前方に十人。居並ぶ兵士をものともせず、一直線に駆け入っていく。流星のように素早く、力強い動きだった。シズカの剣がチラと陽光を反射させたかと思うと、凄まじい動きで左右に流れた。目視できる動きではない。喉や顔面、胴体や脇腹を裂かれた男たちが、紙人形のように、一瞬で地に沈んだ。人間業ではない。蔵人は手にした黒獅子を震わせながら、シズカの戦いに見入った。流れるような舞踏は、極められたように美しかった。一瞬のムダもなく、敵兵を鏖殺していく。黒髪が風に流れ、キラキラと光っている。
「ここは任せろ!! 行くんだ、クランドッ!!」
「応よ!! 頼んだぜッ!!」
蔵人は怯んだ敵兵の包囲網を突破すると、空から確認しておいた敵の本営に向かって進撃した。
「ここは通さぬぞ!!」
目の前に巨大な男が立ちふさがった。背丈は二メートルをはるかに超えた兵士である。
蔵人は合わせていた外套の前を開くと、長剣を凄まじい勢いで繰り出していた。
男の刃は鉈のように身が厚く巨大であるが、軽々と跳ね上げた。
「邪魔だッ!! 俺は、カレンを助けてェんだよッ!!」
渾身の力を込めて突きを叩き込んだ。男の胸もとへツバ口まで刺さった。巨体に重みを感じない。機関車になった気分だ。蔵人は男を軽々と前方に弾き飛ばした。幔幕を突き破って前方の視界が不意に開けた。横たわったカレンが目に入る。それから、バトルシークの姿も。
殺し合いの準備は万全だ。
両手を広げて辺りを睥睨した。エルフの将校たちの怯えた瞳が飛び込んできた。
「さあ、リベンジマッチの開始だ。バトルシーク。決着をつけようぜ」
蔵人は周囲の護衛軍を残らずシズカに引き受けさせて、ただひとり敵本営の真っ只中に到達していた。
男たちの居並ぶ中央に、ボロ切れのようになったカレンが転がっているのを再確認する一瞬で、脳みそが怒りに煮え立った。
全身に力が満ち溢れている。
普通なら、二度も敗れた相手だ。恐怖や気後れを感じてもいいはずなのだろう。
だが、蔵人の魂は隅々まで復讐の炎で満たされていた。
筋骨が無限のエネルギーで膨れ上がる。
負ける気はもうまるでない。
バトルシークを倒す。三度目の正直だ。
激しい憎悪が握る拳へと循環され、殺意は収斂された。
「きさま、どうして、ここに」
「――バトルシーク!!」
蔵人は地を蹴って風のように駆け出すと、長剣をバトルシークの脳天目がけて勢いよく振り下ろした。
カレンの頭に足をかけていたせいか、バトルシークの動きがわずかに遅れた。
全力で振るった斬撃が、澄んだ音を立てて、噛み合った。
刃と刃が激しくぶつかり、火花が散った。
驚愕した男の無防備な顔面が目の前に晒された。
蔵人は握った左の拳を振りかぶって、美麗な顔面へおもいきり叩きつけた。
鼻骨がぐしゃりと砕ける感覚が拳へと伝わった。
全力で拳を振り抜いた。
バトルシークの巨体は後方へと大きく弾き飛ばされた。
背後に控えていた近習を巻きこんで、巨躯が紙切れのように崩れ落ちる。
蔵人はカレンに駆け寄って抱き起こす。
彼女の背中は皮膚が破れ、赤い血がべっとりと付着していた。
目も眩むような怒りを覚えながら、荒い息を整えた。
カレンは虚ろな目をしたまま、それでも微笑んで見せた。
「あ、あは。やっぱり。……生きてたんだ。よかった」
「ああ、いますぐあいつをぶっ殺して、おまえを解放してやる」
「そ。でも、あんまり無理しないでね。あんた、弱いんだから」
「バカ、おまえはちょっと寝てろ。起きたら、きっとすべては終わってる」
「んん。やだ、起きてる。あたし、ちゃんと目を開けて、あんたが、あいつをやっつけるのをこの目で見届けるわ」
蔵人がカレンをその場に座らせると、前方のバトルシークがようやく立ち上がった。
「どけっ!!」
バトルシークは、近習を突き飛ばして歩き出すが、すぐさま膝が崩れてその場に両手を突いた。蔵人の一撃はそれほどまで強力だった。
バトルシークは、低く呻くと口に溜まった血の混じったツバキを吐き出し、怒りに瞳をたぎらせた。
「く、くそっ。なんで、貴様が。完全に、殺しきったはずなのに」
美麗の将軍は、髪を振り乱して顎に垂れた血をぬぐった。徹底的に殺しきった男が、いまこの目の前に立っている。バトルシークにとっては、鼻をへし折られたことよりも、その事実の方が衝撃だった。
「まだ、仕事がすんでねェからな」
「仕事、だと?」
蔵人は長剣を水平に構えると、身を低くして全身から闘気を放射した。
気力は横溢している。
バトルシークがふらついた足取りで落とした太刀を拾って構えるのが目に映じた。
折れた鼻骨に指を添えてぐいと押し、真っ直ぐにしている。手の届かないと思っていた存在がにわかに膝下へ落ちてきたような感慨を覚え、無意識のうちに笑みがこぼれた。
「なにを笑っている」
「ああ、おかしくてな。テメェの間抜けなツラがな」
「おれを愚弄するつもりか」
「実際、おまえはマヌケそのものだよ。俺を仕留めたかったら、こんどは、きちんと首を切り離しておけよ!!」
蔵人は右方に向かっていきなり駆け出した。
続いてバトルシークもそれに従い位置を移す。
両者は互いに駆けちがうと、それぞれの刃を身体の中心点に向かって叩きつけた。
甲高い金属音が鳴り響く。蔵人は手首を器用に動かすと、流れるように突きを放った。
白刃は、びょうと風を巻いて飛翔し、男の顔面を捉えた。
「ぐっ!!」
バトルシークはギリギリで顔をひねって突きをかわす。
わずかに回避が間にあわなかった特徴的な長耳に刃がこすりつけられる。
辺りに水を撒いたように、パッと赤い花弁が虚空に開いた。
蔵人は一撃を加えた後、すかさず後方に飛んで、剣を水平に寝かせた。
「おまえにはきっとわからねえよ」
「小賢しいわ!!」
バトルシークは凄まじい速度で一気に距離をゼロにする。
同時に、太刀を斜めに振り下ろしてきた。
蔵人の迎え撃つ長剣が半円を鋭く描く。
両者の剣は、中空で急所を狙いあい、衝突し、傷つけ、激しくせめぎ合った。
蔵人は転がりながらバトルシークの脛を狙って剣を繰り出した。
男の緋色の外套が虚空に素早く舞い上がったのが視界の端に映じた。
地に寝そべった蔵人に向かって疾風の刃が振り下ろされる。
長剣を横にして斬撃を受け止めると、下方から腹を蹴り上げて突き飛ばした。
蔵人は激しく吠え立てると、身体ごとバトルシークへぶつかっていく。
素早い突きが眼前に迫る。身をひねってかわした。
敵の繰り出した突きは、すぐさま薙ぎ払いに変化すると胸元を浅く割った。
蔵人は身体を反転させると、塵埃と泥水をすすって重みを増した外套をバトルシークの鼻先に叩きつけた。だん、と板塀で濡れ雑巾を打つような鈍い音が鳴った。
バトルシークは顔を抑えて呻くと、真っ黒な外套を一気に引き絞って蔵人の身体を大地に叩きつけた。激痛と衝撃で息が詰まった。目を開けると無防備な胸元へと垂直に落とされた白刃が迫っている。身を投げ出して大地を転がった。肩口を激しく割られ、辺りにパッと血飛沫が舞った。
後方に飛び退って剣を構えなおす。
防御を無視し、泳ぐようにして諸手突きを見舞った。
バトルシーク、身体をそらして咄嗟にかわした。
ふたりはさっと身体を入れ変えた。
「おおおっ!!」
手首を酷使し、斬撃を放った。
蔵人の剣がかすかにバトルシークの右脇腹を割った。
生暖かい血煙が頬を濡らした。
後ろを見ないまま逆手に持ち替えた長剣を繰り出す。
かあん、と澄んだ鉄の音が鳴った。
腕の骨が痺れるような強烈な衝撃。そう簡単に仕留めさせてくれそうにない。
蔵人は身体を反転させると水平に長剣を払った。
バトルシークは、身の厚い太刀を盾にして斬撃を受け流した。
それでも衝撃をこらえられずに、身体のバランスを崩して斜め右に崩れて片膝を突いた。
息を吐く時間すらない攻防だった。心臓が口から飛び出しそうに、早鐘を打っている。敵も同様、巨体を大きく上下させて息を荒くしている。
蔵人は腰の竹筒を引き出すと中身を頭からブチ撒けて顔を振るった。動きを止めた途端、全身が鉛を積んだように重く感じる。視界は強度の疲労で白く濁り、心なしか、壊れた映像データのように左右にブレている。
かかとを浮かせて、すり足で前進する。距離をどちらかということもなく詰め合っている。互いにそれだけは許せない位置に到達すれば、狂った獣のように噛み合うのだ。
理性が消滅し、肉体の感覚が霧散するイメージ。
頭が手傷と筋肉の異様なダルさを感じ、脳内麻薬を多量に分泌させている。
バトルシークを見つめていると、瞳孔の機能が壊れたのか、目の前の男の姿が大きくなったり小さくなったりする。競り上がる血の混じった唾を呑み干した。対面の男の唇が、奇妙に蠢いた。
「これだけの腕を持っていたとは。そういえば、戦士よ。貴様の名を聞いていなかったな。名乗ってみよ。墓碑銘に刻まねばならないだろう」
「クランドだ」
「惜しい、惜しいな。おまえほどの男を、この手で屠らなければならないとは」
「その心配には及ばねーよ。くたばんのは、おまえだからだ!!」
地を蹴って走り出す。
バトルシークは、ふうと大きく息を吐き出すと、右手に持った剣を天に突き上げ、詠唱をはじめた。周囲の風が乱れ、自然の法則が神秘の術式によって書き換えられる。
「風王乱舞!!」
「しまっ――!!」
草原の戦士のもうひとつの切り札。
風の魔術である。
バトルシークの刃が激しく輝いたかと思うと、大気がねじ曲がってうねり、激しい暴風が出現した。異形の嵐は、地に生えた草を噛み砕きながら目前に迫る。
回避しようと身をよじった。
が、突如として現れた暴虐の風は、蔵人の身体を瞬時に呑み干した。
颶風は激しく荒れ狂い、天へと全身を巻き上げた。
天地が逆転し、自分がどこにいるかわからなくなる。
身体中が、竜巻の中で飛びかう風の刃がでタズタに切り刻まれ、痛苦は極限に達した。
それでも、握る手の中の剣は離さない。
どんなことがあっても守る。
カレンを守りぬくと決めたのだ。
そのためには、最強であろうバトルシークという男に打ち勝たなければならい。
気づけば、嵐は収まって、蔵人の身体は大地に投げ出されていた。
「いやあああっ!!」
カレンの泣き叫ぶ声だけが、クリアに聞こえてくる。
薄らと目を開けて、己の身体を直視した。
なるほど。
これでは、誰でも自分が生きているなどと露ほどにも思わないだろう。
なにしろ、全身で傷ついていない場所はない。
この身はシュレッダーにかけられた、反故紙のようにズタズタだった。
だが、立った。
それでも立った。
「ふ、ざけんな」
あお向けになったままではいられない。
動かぬものを突き動かし、なせない偉業をなし通す。
それが、勇者ってやつだろう。
身体中に通る血管に一本残らず力を叩き込むイメージを強く念じる。
強く思うのだ。
意志の根源から、力を振り絞る。
この、志門蔵人は、目の前の敵を撃破するまで、何度だって立ち上がるのだ。
「な、に?」
蔵人をすでに斃したものと信じこんでいたバトルシークの顔が、激しく青ざめた。
酸素を求める金魚のように口をパクパクと動かしている。
太刀を持つ指先が、動揺で激しく震えているのが見えた。
先ほどの魔術でかなりの精神力を消耗したのか、巨躯が一回り縮んだように見えた。
勝利を確信していたバトルシークの将兵たちは、気圧されたように後ずさると、幔幕に尻から突っこんでもがく者が続出した。
蔵人の耐久力は、エルフたちの想像を遥かにこえていたのだ。
死んでいるはずなのに。
もう、立ち上がらないはずなのに。
それは終わっていることがらなのに。
人間、先行きの見えない物事ほど、徒労を感じるものはない。
ましてや、相手は倒しても倒しても立ち上がってくる、不死身の生物なのだ。
恐怖は周囲に激しく伝播する。彼らはすでに、臆病風に吹かれはじめていた。
それこそが、敗北の爪が刻む橋頭堡だというのに。
「なぜ、なぜだ!? どうしてそこまでして戦う!! おまえの目的はなんだっ!! おまえをそこまで突き動かす大義とはッ、野望とはいったいなんなんだっ!!」
「そんな、ご大層なもんは、俺ン中にゃ存在しねえ」
血で濡れそぼった袖口が、外套が肩にのしかかってくる。
それだけで、重い。倒れそうになるほど重い。
「もう、もういいよ。やめて、やめてよう」
カレンが銀色の涙をこぼしながら、バトルシークに懇願している。
違うんだ。おまえにそんな顔をさせるために、戦っているわけじゃない。
蔵人の脳裏にはカレンのワガママだが、奔放で快活な笑顔だけが大写しに蘇ってくる。
きっかけは命令だった。けど。
子どものようにクルクルと変わる表情が楽しそうだから。本当に楽しそうだから。
――だから、それを守りたいと、心の底から願ったんだ。
「あああああっ!!」
「おいっ、やめいっ!!」
バトルシークが恐怖に駆られて矢を放とうとする兵士を制止するが、一瞬遅かった。
兵士の放った矢は、風を切って見事に蔵人の右目に命中すると、その身体を崩れさせることに成功した。
「一騎討ちぞ」
咎める言葉のどこかに、確かな安堵があふれていた。
――そうだよ、バトルシーク。おまえは、その程度の男なのさ。
女の悲痛な絶叫が木霊す。
蔵人は、絶え間無い痛みと、屈辱と、悔恨の中でも戦うことをあきらめなかった。
ドクドクと、熱い血が右目から流れ出す。
痛みを感じる。皮が裂け、血が噴き出し、全身がそれを鋭敏に感じる以上は命あるひとつの生物として身体が、生きろと命じている証拠だ。
「こんな、もんじゃ」
だから、蔵人は立ち上がった。
右目に突き刺した矢を眼球ごと引き抜くと、視界が真っ赤に染まった。
紅一色の世界で、振り返ったバトルシークの顔は、確かに色濃い恐怖が刻まれていた。
「俺は殺せねえッ!!」
矢を放った兵士は、その場にペタンと腰を下ろすと、涙を浮かべて歯を怯えに激しく打ち鳴らし、幼児のように失禁した。
その目は、触れてはならない禁忌の扉をこじ開けた者のように、白く理性を失っていた。
蔵人の胸元に刻まれた不死の紋章が、世界を埋め尽くすほどに激しく発光をはじめた。居並ぶエルフの将兵たちは、目を開けていることすらできずに、たちまち両腕で顔を覆うと、怯えにとらわれてその場へと腰から崩れていった。
きん、と涼やかな音が本陣のすべてに響き渡り、戦場の雑多な音がかき消された。
蔵人の右目。穿たれたはずの眼窩は、まばゆく輝くと、瞬間的に瞳を再構築させた。
光輝に包まれて一歩を踏み出していく蔵人の姿は伝説に謳われる勇者そのものであった。
「な、なぜだ。なぜおまえのような男がッ! このおれの前に立ちはだかるッ!!」
バトルシークは額をぐっしょりと恐怖の汗で濡らしながら、それでも太刀を構えて走り出した。
「おれはこの世界を制するために生まれてきた男だ!! ロムレスはおろか、世界中におれの旗をはためかせてみせるッ!! そのためにはッ、おまえが邪魔なんだぁああっ!!」
「カレンを泣かすようなゲス野郎には死んでも負けられねえ」
「なんだとおおっ!? なんなんだ貴様はッ!!」
「どこにでもいる、ありふれた、チート勇者さ」
「ふ、ふざけ。この期に及んでふざけるなああっ!!」
「ふざけちゃいねェ。カレンは俺の女さ。てめぇを殺す。文句はねえだろう」
バトルシークは緋色の外套を巻き上げて、なりふり構わぬ形相で駆け出した。
蔵人は、聖剣“黒獅子”を正眼に構えると、解き放たれた奔馬のように疾駆する。
最後の激突がはじまった。
最初にしかけたのはバトルシークだ。巨躯を震わせて突進すると、太刀を横殴りに叩きつけてくる。蔵人は身体を半身に開いてかわし、ガラ空きになった胴へと刃を打ちこむ。
「ぬるいわっ!!」
「ンの野郎おおおっ!!」
刃同士を噛み合わせて激しいツバ競り合いがはじまる。
ひと回りも大きいバトルシークと筋肉を震わせて身をぶつけ合う。
両者の膂力は拮抗している。
上方にのみ注意を向けていると、バトルシークの長い脚がコンパスを回すように、激しく円を描いた。
跳躍してかわすと片手を振るって剣を垂直に叩き落とす。
同じく、敵も背後に飛び退って距離を取った。
憤怒に燃えた表情でバトルシークは太刀を振り回している。
蔵人は敵の波状攻撃をかわしながら、冷静さを取り戻しつつあった。
バトルシークの太刀筋は僅少の差であるが、徐々に乱れはじめていた。
草原の王を自称する男にとって、二度も土をつけた男に敗れることは許されなかった。
激怒しているように見せて、周囲の将兵たちの目を強く意識している。
以前の戦いは、カレンを取り戻すことのみに躍起になっていた。
戦いの流れをまるで読んでいなかったのだ。
だが、いまはどうだ。
バトルシークの足運びから目線。筋肉の緊張から次の動きを予測することはたやすい。
相手は極限の緊張状態で、そろそろ焦れて大技を繰り出すだろう。
それを破れるか否か。
勝敗を決するときがきたのだ。
バトルシークは太刀を構えながら逆手に持ち替えた。
蔵人が二度も土をつけられた必殺剣の予備動作である。
敢えて撃たせる。
撃たせた必殺の斬撃を真正面から撃破してこそ、勝敗は決するのだ。
目前のバトルシーク。全力をこめた斬撃を惜しみなく吐き出してきた。
うねりを生じた大気を割って、激しい斬撃の風が空気を裂いて走った。
「秘剣、疾風三連斬!!」
白く輝く太刀が、三度無慈悲に振り切られた。
轟音を巻いて飛翔する風の刃に、蔵人はためらいなく飛びこんで長剣を振るった。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
襲い来る颶風の群れ。
迎え撃つように、紋章の輝きが世界を埋め尽くす。
「おおおおおおおっ!!」
蔵人は絶叫しながら、長剣を斬撃に合わせた。
光輝が激しく大気を穿って炸裂する。
握り締めた漆黒の刀身が、紋章から派生した光の波濤に呑みこまれ、白く輝いた。
刃は噛み合った状態で、バトルシーク必殺の衝撃を木っ端微塵に相殺した。
信じられない、という表情のまま目前の男が凍りつく。
蔵人は肺に溜まった酸素を残らず吐き出しながら、刃に全力を込めて打ち下ろした。
光芒は凄まじい速度で、三度振られた。
横薙ぎに振られた一撃。
脳天から股下まで垂直に二擊。
三擊。返す刀で右の脇腹から左の肩口まで流星がきらめいた。
バトルシークの顔面から股の間まで、垂直に真っ赤な裂け目が生まれた。
同時に、腹を水平に割られ、上半身と下半身がズルリと分離していく。
無慈悲にも、左の半分は壊れたオモチャのようにふたつの肉片が崩れ落ちていった。
脳漿と内蔵が湯気を立てて、奔流のように流れ落ちた。
十二分な手応えを残して、蔵人の斬撃がバトルシークをついに打ち崩したのだ。
「俺の勝ちだ、バトルシークッ!!」
蔵人はそう吐き捨てると、バトルシークだったモノの腰を激しく蹴りつけた。
肉塊は数個に分離すると、辺りに血潮をあふれさせ、血海を作り、ついに四散した。
蔵人は剣を放り捨ててその場にひっくり返ると、天を仰いだ。
日は高く、白い雲がゆっくりと動いているのが見えた。
敵の将兵たちは、総大将が討ち取られるのを見ると、風を喰らって残らずその場から逃げ失せた。
陣幕の外側からは、戦鼓や銅鑼が激しく打ち鳴らされる音が風に乗って聞こえてきた。
草いきれが辺りに漂っている。
目を閉じれば、このまますぐにでも眠れそうなほど疲れきっていた。
もはや自分にできることはない。
それに、総大将が討ち取られた敵軍は、おそらく早晩降伏するだろう。
頭を失った蛇は永らえることはできない。
勝負の真理だった。
目を閉じると、微風が頬を撫でる。火照った身体には心地よかった。
ウトウトした眠気がベール状にふわりとかけられたようだ。
バトルシークはおそらくは当世、二度と出ない傑物だった。
野望に満ち、中原に向かって羽ばたかんとしていた鳳そのものだ。
だが、蔵人はその空前絶後の鳳を三度狙って、ついに射落としたのだった。
「んあ?」
ふと、顔の上に影がさした。
苦労して目を開いた。
そこには涙をこらえたまま、切なげな視線を落とす、ひとりの姫君がいた。
「ばか。誰が、そこまで頑張れっていったのよ」
クシャクシャになった顔でベソをかいていた。
これでは、美人がだいなしだな、ともったいなさに頬が引きつった。
「さあな。けど、俺にも意地ってモンがあるから。やられっぱなしじゃ、寝起きが悪い」
蔵人は、カレンの美しい銀髪に指を通すと、笑ってみせた。
目をつぶった姫君の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
垂れ落ちた銀の雫が顔に次々と降りかかった。
「泣くなよ」
「泣いてなんかないっ、泣いてなんかないもんっ」
口を開いて、それを飲んだ。
思った以上に、それは甘露だった。
「それに」
「それに?」
「俺はおまえの護衛役だからな」
カレンの顔が泣き笑いのなんともいえない曖昧なものに変わった。
なにかに耐えているそれは、見ているだけでなんだか胸を切なくさせる。
蔵人は腹に力をこめて、ごまかすようにして、再び笑顔を見せた。
「任務完了だ」
「……ばかよ。そんなに傷ついて」
カレンは髪をそっと掻き上げて、傷ついた勇者に勝利のキスを捧げる。
それから真っ赤な顔をぷいと横に向け、いった。
「クランドのばか! でも、大好き!!」




