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調査員A  作者: 香紫日月
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終章

 手術後、雅さんはICUに運ばれ、俺達は執刀医からオペは成功したものの出血が多く気を抜けない状態であることを告げられた。

 ほんの三分ほどICUへの立ち入りが許されて俺達は雅さんの顔を見たけど、蒼白な雅さんが目を開けることはなくその日はそれぞれ帰路に就いた。

 それから一週間後、雅さんがICUから一般病棟の個室に移されたとの知らせを受けた俺は、あの時の絶望感はどこへやらの浮ついた気持ちで四音と共に雅さんを見舞った。

 院内は昼食時で、左腕に三角巾を付けた状態でぎこちなく右腕を動かしている姿は痛々しいものの、不味いと言いながらもペロっと完食している姿に笑いを誘われる。

 一時は危なかったのに見事に蘇った雅さんはまるで不死鳥だ。だから俺が雅さんに血液を提供したことは死ぬまで胸の奥にしまっておくつもりだ。

 雅さんの食事が終わると四音が見舞いのプリンを差し出した。

「これならあまり負担にならないと思って」

 さすが四音、気遣いが素晴らしい。

「美味しそうね、ありがたく頂くわ」

 そのプリンを完食すると、雅さんは居住まいを正して四音に言った。

「この度はお父様にお世話になったようで。お気遣いありがとうございました」

「勝手なことをして申し訳ありません」

 そのやり取りを聞いた俺は藤田家から警察への圧力があったことを理解したけど、それは雅さんが一番嫌いなことだよなと思いつつ彼女を見やった。でも雅さんは苦笑しつつ首を微かに横に振る。

 そうだ、これは四音から父親へのささやかなオネダリで圧力ではなく県警本部への激励だ。そう思うことにしよう。県警の警部に罵詈雑言を浴びせた挙げ句、殴りかかった俺も褒められたもんじゃないし。

 ただ、その圧力が事件の早期解決に繋がらないことを俺は知っている。それでも雅さんの体内から摘出されたライフル弾を握りしめた土谷刑事の真剣な顔だけは信頼できる気がした。

 暫く談笑していると今度は二葉さんが顔を出した。俺が座っていた収納付きのスツールから立って進めると悪びれることなく座る。そして二葉さんは雅さんが快方に向かっていることを喜びつつ朗報をもたらしてくれた。

「実は買収が撤回されたの」

「まだ何もしていないのに?」

「それがね」

 二葉さんはクスクスと笑い出したものの、さすがにこれから話す内容を考えると不謹慎だと思ったのか真剣な表情で切り出した。

「雅ちゃんが響商事の本社ビルの前で狙撃されたことを知った先方が、ライフルで狙撃されるような社員がいる企業とは手を組めないと言い出したの」

 俺はその言葉を聞いて馬鹿みたいに口をポカーンと開いた。

「手を組めないって、こちらは組む気はないのに随分な言い草だな」

 それに雅さんは社員じゃない。ただ、狙撃後に流されたニュース速報では狙撃されたのが社員だと思われても仕方ない報道だと思い直した。

「買収なんてする側からしても良いイメージはないし、一旦発表したことを撤回するのも大変なことなのよ」

 二葉さんはそう言うけど相手は銃社会のアメリカの企業なのに他国での狙撃には恐れをなすとは呆れる。確かに狙撃されたってのは倒産よりも遙かにマイナスな出来事なんだろうけど。

「怪我の功名ね」

 雅さんはそう言って華やかに笑ったけど、こんな命懸けの功名なんて二度と起きて欲しくないと俺は思った。

 その報告をすると用は済んだとばかりに二葉さんはスツールから立ち上がりながら書類が入っていると思われる大判の封筒を雅さんに渡すと、またねと手を振りつつ四音まで連れて帰ってしまった。二人を見送った俺も雅さんを疲れさせてはいけないと思い帰り支度を始める。すると雅さんに再度椅子に座るよう言われた。

「何か伝言でもありました?」

 俺は座り直したものの引き留められる意味を図りかねる。バイトである俺に託す伝言なんて事務所の掃除と郵便物の整理くらいのものだから。

「これを歩夢くんに読んで欲しくて」

 手渡されたのは分厚いファイルで表紙には『鷺ノ杜雅について』とある。俺はそのタイトルの意味が分からなくて無言で雅さんを見つめた。

「私のことを知っておいた方が良いと思って」

 何故狙われるのか? 鷺ノ杜雅とは何者なのか? 自分でも分からない点が多く、だからこそ己のことを徹底的に調べて調査報告書として残していること、調査には終わりが見えないことも知らされた。

「拝見します」

 そう断って俺はファイルを開いた。一ページ目には目次が書かれている。それも今後増えていく予定らしい。二ページ目を開けようと紙の端に指をかける。でもどうしてもページを捲ることができない。俺は暫く逡巡すると調査報告書を閉じて雅さんに返しながら言った。

「これを読んでも俺には理解できないことが多いと思うんです」

 一応法学部だけど、まだ教養過程の俺では分からない専門用語も多く記載されているだろう。そんな中途半端な状態でこの調査報告書を読むなんて失礼なことはできない。

「だから、雅さんが今なら説明しても分かるだろうと思った時に改めて見せて下さい」

 そう言って頭を下げると雅さんは分かったと言ってファイルを受け取ってくれたが、すぐに居住まいを正して俺を見た。

「歩夢くんは、今回の調査について私の方針に不満を持っていたわよね」

 うーん、やはり隠しきれなかったか。いや、そもそも学生の俺が雅さん相手に何かを誤魔化すとか隠す、つまりは態度や口に出さないなんて到底無理な話なんだよな。それは雅さんが弁護士だからってことではなく、学生と社会人としての差なんだ。

「はい、どうして情報の秘匿をする千秋の依頼を受けたのかがずっと引っ掛かっていました」

 収益が出ない調査を続けることにも納得がいかない。仮に離婚訴訟まで持っていくなら軽く見積もっても三十万程度を千秋に請求できただろうし、夫の愛人の調査費用として俺のバイト代や飲食代、交通費などの経費も実費で請求できる。

 でも千秋は調査の継続を望まなかった。俺へのバイト代は雅さんのポケットマネーから出ている。今となれば、肝心の夫が死んでいては裁判所から呼び出されても対応できないからだと分かるけど、どうして一銭の特にもならない調査をしたのか、どうしてこの調査に心血を注ぐ必要があったのか、そのことにはまるで喉に引っ掛かった小骨のような違和感を感じていた。

「通常、こんな秘匿だらけの依頼人からの依頼は受けないわ」

 つまり今回の件はレアケースだったってことなのか。

「実は、調査部門を設置しようと考えていて、今回はそのデータを取るためのモデルケースだったの」

 じゃあ、俺はそのための臨時雇用? 俺は解雇されて雅さんとも二度と会えないのだろうか。そう思うと心が痛い。

「そんな顔をしてないで話は最後まで聞きなさい」

 顔に出ていた俺の気持ちに雅さんが苦笑する。俺は上ずった声で問うた。

「それで、どういうデータが取れました?」

「調査室を設置することに決めたわ。で、歩夢くんには初期メンバーになってほしくて」

 俺は暫く声を発することができなかった。驚きと歓喜、それ以外に様々な感情がないまぜになって俺の心中をグルグルと掻き乱したからだ。

「じゃあ、このままバイトは継続させてもらえるんですね」

「あら、クビになると思ってた? お生憎様、私はそんなに簡単に獲物を逃したりしないわ」

 獲物扱いかよ、まったく死にかけたってのに相変わらずの毒舌だ。

「歩夢くんとは雇用契約を改めて結びたいと思っている」

 そう言うと、さっき二葉さんが雅さんに渡した大判の封筒の中から書類を取りだし俺に差し出す。それは、アルデア法律事務所だけではなく調査室との記載がある雇用契約書だった。そして俺の肩書きは調査室チーフとあり、時給もアップしていたから驚く。

「俺、まだ学生ですけど」

「分かっているわ。業務内容はこれまでと変わらない。あと何人か採用する気でいるけど、学生であれ調査室の初期メンバーであり今回の調査での実績を鑑みて歩夢くんをチーフにしようと考えたの。不満かしら?」

 不満なんてない。だけど不安ならある。

「今後採用する人材は社会人経験のある人も含まれているんですよね、その人達が不満に思わないでしょうか」

「持つかもしれないわね」

 え〜 そんなアッサリと言うことか?

「異音を聞いてもマナー違反をされても逆ギレが怖くて見て見ぬふりをする人が多い今の世情で、歩夢くんは私を狙う銃口の前に飛び出してくれた。そんな貴方と同じ行動ができる人がいるのなら、その不満に私も聞く耳を持しましょう。でもそうでないなら歩夢くんは堂々としていれば良い。貴方は私の命の恩人。無論、それだけで破格の待遇で雇うんじゃない。あの時の行動力、そして物怖じしない言葉の全てが私の欲しいと思う調査員の姿そのものだったの」

 なんだろう、すごく照れくさい。雅さんが俺をベタ褒めするなんて。

「どうかしら、引き受けてくれる?」

 俺は少し逡巡した。いや、逡巡するふりをした。でも俺に尻尾が付いていたら間違いなくブンブンと激しく振り回していただろう。

「謹んで引き受けさせていただきます」

 そして俺はその書類にサインした。

「じゃあ、そろそろ失礼します。雅さんも疲れているでしょうし」

「今日はありがとう。事務所のことだけど」

「掃除と郵便物でしょ、分かってますよ。大事なものがあったら届けに来ます」

 そう言うと俺は病棟の看護師に帰宅する旨を伝えて廊下に出た。

 嬉々とした足取りで病院の出口に向かいながら考える。もしかするとあの調査報告書を読まなかったことを後悔するかもしれない。どうして読まなかったのかと自分を罵る日が来るかもしれない。でもそこも含めて俺はこれで良かったんだと思った。

 広大な外来受付に置かれたテレビが東海地方の梅雨が例年より早く明けたことを一斉に報じている。俺は駐輪場から自分のロードバイクを引っ張り出して跨がると、遂に始まった名古屋の夏を感じながらペダルを強く踏み込んだ。

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