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最後の客が蒸し暑さの残る夜の町に消えるまで見送って、メイコさんは盛大に伸びをした。
「あー、疲れたぁ。暑い」
「さっきまで、冷房が効きすぎて寒いって言ってたじゃないか」
「そうですけど、外に出たらやっぱり暑かったんですもん」
何なんでしょうね、夜になってもこんなに暑いなんて異常だわ、と文句を言いながらメイコさんはエレベーターのボタンを押す。並んで4階まで上がると、メイコさんは仕掛け扉を慣れた手つきで難なく開けた。
店は閉まっても、二人にはやることがある。売り上げの計算、レジ閉め、簡単な掃除、そして、手品の練習だ。
「さ、それじゃあやろうか」
キセ氏はカウンターの向こうに回り、メイコさんはその前に座る。カウンターの内側から紙とペン、灰皿、マッチを取り出し、何をするのかと目を輝かせているメイコさんの前に並べた。
「今から教えるのは、心を読む方法だよ」
言いながら、キセ氏はメイコさんに紙とペンを差し出す。
「ここに、私に言いたいことを書いて欲しい。給料上げろとか、休みをよこせとか、何でもいいよ。口では言いにくいことってあるだろうから。ただし、心からの声でないと駄目だ」
キセ氏はくるりと後ろを向いた。リキュールボトルと対面しながら、背中の向こうでメイコさんが少し悩み、やがて何かを書き付け始めたのを聞いていた。
しばらくして、
「書きましたよ」
という涼しげな声が聞こえる。
「じゃあ、それを私に見えないように、文字を内側にして折りたたんで。なるべく小さくね」
紙を折る密やかな音のあと、声をかけられて、ようやくキセ氏は前を向いた。メイコさんはほっそりした指先に、数センチ四方に折った小さな紙を摘んでいた。
それを受け取り、キセ氏は灯りにかざして中の文字が透けないことを確認する。
「見えないね?」
「はい」
「では」
キセ氏は灰皿を手元に寄せると、紙を小さく破り始めた。
1回、2回、3回。
手の中で重ねながら、幾度も紙をちぎる。その様子をメイコさんは息をつめてじっと見つめる。
破り終えた紙を灰皿の中に入れると、キセ氏はマッチを1本擦った。つんと鼻を突く臭いと同時に炎があがる。キセ氏は確かめるようにメイコさんの前で軽く振って見せると、それを灰皿の中に放り込んだ。
「あ」
メイコさんがぽかんと見ているうちに、火は紙を舐め、すぐに大きな炎となった。
キセ氏はその上に右手をかざし、すっと目を閉じる。
「この炎から、書いてもらった文字、君の心の声を読み取ろう」
それまで食い入るように灰皿を見つめていたメイコさんは、え?と視線をキセ氏に転じ、思わず息を呑んだ。
白いシャツの手首をきちんと留め黒いベストを着たキセ氏は、いつもの穏やかな表情から一転、下がり気味の眉をしかめ、厳かな顔をしていた。かざした右手が、ゆっくりと、幾度も灰皿の上を行き来する。
炎の声を聞こうというように。
メイコさんの心の声を聞こうというように。
そこにいたのは、今まさに奇跡を呼び起こさんとする、一人の魔術師だった。
メイコさんは、息をするのも忘れていた。
しばらくして、キセ氏は、ふっと目を開け、右手を下ろした。灰皿の中では、まだ炎が小さくなりながらも揺らめいている。メイコさんもふぅ、と息を吐いた。張り詰めていた空気が緩んだ。
「叔父さん、私の書いたこと、分かった?」
メイコさんはささやくようにそっと口を開く。キセ氏はいつもの落ち着いた声で、
「ああ。炎から伝わったよ」
と頷きながらも、不思議そうな顔をする。
メイコさんは厚い唇に静かな笑みを浮かべた。
『ごめんなさい』
二人は同時に口にした。
それこそ、メイコさんがキセ氏に伝えたいことだった。
「別に、謝られるようなことはないと思うけど……」
「だって、私、ご迷惑おかけしてますから。いきなり押しかけて雇えなんてお願いしたし、手品は相変わらず落ちこぼれだし。きっとこれからも叔父さんを困らせます」
「いやいや」
キセ氏は灰皿に少量の水をかけながら首を振る。
「私は充分助けられているよ。おかげでずいぶんとバーらしくなったし、お客も増えた」
湿らせた灰を拭うと、キセ氏は穏やかな笑みを浮かべて灰皿をカウンター上に戻した。
キセ氏がタネを明かすと、メイコさんは、
「なあんだ」
と少しがっかりしたようだった。
「本当に心を読んだのかと思ったのに」
「そりゃ手品なんだから、タネも仕掛けもあるよ」
手品師の弟子らしからぬメイコさんのリアクションに、キセ氏は苦笑してしまう。
「それでも、タネを知らない人にとっては読心術なんだから」
さ、次はそっちの番、と道具一式をメイコさんの方へ寄せる。キセ氏に指導されながら、メイコさんはぎこちない手つきで練習を始めた。
時折、
「その破り方だと、文字を読んでいるように見える」
「紙を落とすとき、なるべく文字が表にならないように気をつけて」
といった指摘をされ、その度にメイコさんは頷いてやり直す。灰皿に積もった紙の山を捨て、そこに新たな紙をちぎり入れ、それが積もって再び山となる。
うだるような夏の夜の底で、手品師とその弟子は静かに、しかし熱を帯びながら、秘密めいた儀式のように幾度も同じことを繰り返す。
遠くに響いていた電車の音も、いつの間にか聞こえなくなった。
いつしか、かなりの時間が過ぎていた。
「もう、これくらいにしようか」
時計を見ながら、キセ氏は練習の終了を宣言した。メイコさんはふぅ、と息をつき、指先をこすり合わせる。
「紙の破りすぎで手が痛いです」
「ずいぶんやったからね」
キセ氏は手元のメモパッドをぱらぱらとめくる。買ったばかりなのに、すでに紙の半分近くはメイコさんの犠牲になっていた。
「まぁ、でも、良い手品だから。覚えておくといいよ」
マッチ、紙、ペンを一まとめに片付け、水でゆすいだ灰皿をペーパータオルで拭く。メイコさんは、うーんと伸びをしながら頷いた。
「確かに、インパクトのある手品ですよね」
「インパクトも大事だけど」
「大事だけど?」
カウンターの下にしゃがみ込んで灰皿を戻し、ひょい、と顔を上げると、カウンターに身を乗り出してメイコさんがこちらを覗き込んでいる。
キセ氏はシンクに手を着いて身を起こし、気障っぽいことを言うようだけど、と前置きをした。
「親子だって恋人同士だって、お互いの心の中を知ることはできない。人の気持ちを理解するのは難しいし、きっと本当に深いところまで分かり合う事はできないだろう。でも、この手品じゃ心が通じる。分かってもらえたって気になれるんだよ。例えタネがあったとしてもね。それって、素敵なことだと思うんだ」
少し照れくさげなキセ氏の言葉に、メイコさんはふふっ、と笑う。
「そうですね。叔父さんにも、私の心は伝わったし」
目を伏せたその表情がどこか寂しげに見え、キセ氏は少し驚いた。メイコさんの瞳はカウンターではなく、その向こうの、彼女にしか見えない何かを見ているようだった。
だが、それもほんのわずかな間のことで、次の瞬間にメイコさんはぱっと顔を上げ、笑顔で腕まくりをした。
「さ、それじゃ片付けしましょうか」
いつもの通りの、元気なメイコさんだ。
キセ氏は頷き、事務所の掃除用具入れに向かった。先ほどの憂いを秘めた眼差しが気になりつつも、きっと薄暗い店の照明のせいだろうと結論付け、モップと塵取りを取り出した。
二人で手分けして店内を片付け、売り上げの処理をしてレジを閉め終わった時には既に未明と呼ばれる時刻になっていた。キセ氏はふう、と息をつくと、売上金を夜間金庫用の袋にしまう。メイコさんが来てから店の売り上げは右肩上がりで、袋はなんとか立体的な姿を保てるようになっていた。今までも決して悪くはなかったが、歴代の売り上げ最高記録を毎日のようにたたき出しているのだからすごいものである。もしかすると、メイコさんは招き猫が化けているのかもしれない。
事務所から鞄を取り出し、キセ氏は着替えを済ませたメイコさんに声をかけた。
「じゃあ、帰ろうか」
「あ、叔父さん」
メイコさんはショルダーバッグをぽん、とカウンターに放った。
「私、さっきのやつ、もうちょっと練習してきます」
「え?」
「家でやってもいいんですけど、集中できないから。ここでやりたいんです」
いいですか?と一応訊くものの、メイコさんは居残り練習をする気満々でカウンターの内側に入り込み、灰皿を取り出している。
今までもこうやってメイコさんが「自主練」と称して残ったことは何度かあった。店の戸締りを任せても問題はなかったし、キセ氏が体調不良で早退した時は、夜間金庫への預けをお願いしたことだってある。メイコさん一人を残すことに、キセ氏は何の不安もなかった。
唯一心配なのは帰り道だが、メイコさんはタクシーを使うから大丈夫だと言う。
「ついでに夜間金庫にも行ってきますよ。叔父さんが一人で歩いて行くより、私がタクシーで寄り道するほうが安心でしょ」
それもそうだ。キセ氏は頷いて、夜間金庫の袋と店の鍵をメイコさんに預けた。
「明日は休みだけど、鍵大丈夫?」
「平気です、ちゃんと預かっときますよ」
「色々付いてるから、気をつけてね」
「分かってますって」
おかしそうに笑ってメイコさんは鍵をちゃらちゃらと揺らす。それがバッグの中にしまわれたことを確認し、キセ氏は頷いて扉を開けた。
「じゃ、あまり遅くならないように」
「はい。おやすみなさい」
メイコさんは手を振る。キセ氏は右手を上げてそれに応え、店を出た。閉まりかける扉の細い隙間から、メイコさんの笑顔が見えた。
それが、最後だった。
二日後、店に出たキセ氏は扉が施錠されていない事に驚き、慌てて店内に飛び込んだ。しんと静まりかえった店はきちんと片付いていたが、酒屋などへの支払い金を入れていた金庫は空っぽの中身を寒々と晒していた。カウンターの上には、白い紙が1枚残されており、飛ばないように鍵で重石がされていた。
キセ氏は震える手でメモを拾い上げた。
――ごめんなさい
流れるようなメイコさんの字だった。
むっと空気のこもった店の中に、キセ氏は呆然と立ち尽くしていた。
その日、いくら待ってもメイコさんは現れなかった。
売上金と、金庫内のお金と共に、メイコさんはキセ氏の前から姿を消した。
キセ氏はメイコさんのことを警察に通報しなかった。無くなった額は決して少なくはなかったが、幸いこのところ売り上げが良かったこともあって、結構な金額がストックしてあったのだ。店の経営にすぐに困ることもない。
それに、キセ氏はメイコさんを――メイコさんだった女性を、糾弾したくなかった。そんなことをした所で、どうにもならないと思っていた。
ただ、喪失感だけはどうしようもなかった。メイコさんのいなくなった店は灯りが消えたようで、キセ氏は通夜の席にいる気分だった。一年前まではこれが当たり前だったということが信じられない。あの明るい笑顔なしで、自分はどうやっていたのだろう。
それでも、きっと慣れてしまうのだろうとキセ氏は思った。突然現れたメイコさんが、いつしかいて当たり前の存在になったように。彼女のいない寂しさにも、すぐに慣れる。
常連客には、メイコさんは実家の都合で帰ることになったと伝えた。どの客も残念そうに顔をしかめ、
「寂しくなるね」
と口々に言った。中には、
「俺、今度メイコちゃんに一周年祝いのプレゼント持って来ようと思ってたんだ」
とキセ氏に打ち明ける人もいた。
メイコさんは、店の顔として愛されていたのだ。
メイコさんを惜しむ数々の言葉に、キセ氏はいつもの通りに穏やかに笑って、
「今度会ったら、伝えておきます」
と応えた。
その機会がいつ訪れるかは分からない。普通に考えれば、メイコさんが戻ってくることは二度とないのだから。
それでも、キセ氏は「今度会ったら」という文句を使った。「ワン・ツー・スリー」という手品の決まり文句のように、思いを込めて。
今度会ったら。
会えることがあるならば。