5
閉店した店の中で、キセ氏は独り、レジを叩いていた。
ピッピ、という軽やかな電子音の合間に、風の音が聞こえる。天気予報では、今日のこの北風が木枯らし1号だと言っていた。古いビルを揺らすように、強風は容赦なく吹き付けている。
この分では、外はかなり寒いのだろうとキセ氏はぼんやり思った。コートを着てきたほうが良かったかもしれない。厚着だから大丈夫だろうと、置いてきてしまったが。
レジを閉め、キセ氏はうんと伸びをする。売上金を鞄の中にしまいこみ、店の鍵を手に取る。今日の業務はこれでおしまいだ。
鞄を抱え、椅子から立ち上がった時だった。
唐突に、インターホンが鳴った。
思わずびくっと肩をあげてしまった自分を恥じつつも、キセ氏はすぐにはインターホンを取らなかった。閉店の看板は扉の前に掲げてある。時間も時間だし、普通の客であれば、それを見てわざわざ入店しようと試みるはずが無い。
物騒な客か、単なる酔客のいたずらか、それとも晩秋の幽霊か。
キセ氏は店の中でじっと息を殺していた。
再び、ピンポン、と電子音が鳴った。
意を決し、キセ氏はそっとインターホンに近づき、静かに受話器を取った。
「はい」
「……開けて」
受話器の向こうから小さな声が聞こえる。キセ氏の胸は大きく波打った。聞き覚えのある声だった。
受話器を置き、鍵を外して取っ手を掴み静かに扉を開いた。入り口に立っていた人物は、ふらりと揺れながら、キセ氏にぶつかるようにして入ってきた。
メイコさんだった。
ふらふらと不安定に揺れる体を慌てて支え、キセ氏はメイコさんをテーブル席に座らせる。メイコさんはそのままテーブルに突っ伏し、しばらく動かなかった。
「大丈夫?」
キセ氏が声をかけると、
「お水」
くぐもった声が返る。キセ氏はコップに水を入れ、彼女の前に置いた。メイコさんは顔を上げ、覚束ない手つきでコップを掴むと勢い良く飲んだ。
数ヶ月ぶりに会ったメイコさんは、あの時とは別人のようだった。美しかった瞳には力がなく、目の下にはクマができている。顔色が悪く、肌はぱさぱさと荒れており、疲れているのが一目で分かる。
どこかでかなり飲んできたようで、メイコさんの吐く息からはきついお酒の臭いがした。キセ氏はカウンターからデキャンタを取り出して水を満たし、メイコさんの傍に置いた。
俯いたまま、メイコさんは返事をしない。
ここを出た後メイコさんが何をしていたのか、あのお金をどうしたのか、キセ氏は訊かなかった。ただ、時折彼女が発する、何なのよあの男、だの、裏切り者、だのという呟きでおぼろげに事情を理解した。
キセ氏はメイコさんの向かいに黙って座っていた。
店の中には木枯らしの吹く音だけが響いていた。
しばらくして、メイコさんはむくっと起き上がり、水を飲んだ。とろんとした目つきでコップを置き、空を睨む。その視線がゆっくりと降りて、キセ氏の目とぶつかった。
メイコさんは、ふっ、と笑った。
「通報しないの」
キセ氏はゆっくりと首を横に振る。
「へーえ」
馬鹿にしたようにメイコさんは幾度も頷く。
「何で?あたしに恩売るつもり?それとも見逃す代わりにあんたに何かしろっての?」
お酒に掠れた声で畳み掛ける口調は荒く、顔には歪んだ笑みが貼りついている。キセ氏はすっと目を閉じた。真っ赤に潤んだ目をしながら悪態をつく彼女に、なんと言葉をかけて良いか分からなかった。
「違うよ」
息を吸い、目を開けて、まっすぐメイコさんを見つめる。アーモンド形の瞳が少したじろいだように揺らいだ。
動揺を隠すように、メイコさんはふん、と鼻で笑った。
「そうよね、あんたも悪いもんね。どこの誰とも知れない女の嘘を信じて、雇ったんだから」
馬鹿みたい、いい歳して騙されて、と吐き捨てる。
キセ氏は静かにメイコさんを見つめた。下がり気味の眉のせいで、その表情は泣いてるように見えた。
「君が本当の姪じゃないことは、知っていたよ」
穏やかな言葉に、メイコさんの顔から拭い去ったように笑みが消えた。
「どういうこと」
すっと首をもたげ蛇のように睨みつける。その目を見返しながら、キセ氏はゆっくりと口を開いた。
「最初は、本当に本物なのかと思ったけれどね。話すうちに違うんだろうなと気づいた。まぁ、理由はないし、勘みたいなものだけれど」
兄との確執など、身内でしか知りえない話を知っているメイコさんを、しばらくの間キセ氏は信用していた。だが、それもほんの少しのことだ。話すうちに、小さな齟齬や曖昧な記憶が出始め、キセ氏はおやっと思った。
後ろ暗い連中との付き合いがありそうな彼女のこと、キセ氏の身辺調査などあっという間だったに違いない。大まかな事情を掴んだ後は適当に話を合わせ、姪に成りすますつもりだったのだろう。
ただ、さすがに小さな事――幾度も見せた手品や、いつも選んでいたカードなど――までは、調べ切れなかったのだろう。そんな小さなほころびがキセ氏の中で違和感として残ったのだ。
「……さすがに今回みたいなのは、あたしも無茶してるとは思ってたわよ。上手くいけばラッキーくらいに考えてた」
メイコさんは静かに呟いた。
「でも、ここみたいに個人でやってて、店主の周りにあたしが成りすませる人間がいて、そこそこ儲けてるとこなんてなかったから」
要するに、入り込みやすい店だったということだ。「今回みたいなのは」と言う言葉にメイコさんの辿ってきた暗い道を感じ、キセ氏は胸が締め付けられる思いがした。
「ここのことは、どうやって?」
彼女は、有名な酒販会社が運営するバー紹介サイトの名を口にした。
「あんた、前に取材されてたでしょ。気をつけなさいよ、どんなやつが見てるか、分かったもんじゃないんだから」
あたしが言うことじゃないけどさ、と笑う。
キセ氏が取材を受けたのは一年半前のことで、そのページはプリントアウトして、事務所のファイルに大事に取ってある。記事をきっかけに常連になってくれた客もいるが、まさか違う意味で目をつけていた人間がいたとは。あけすけな物言いにキセ氏も思わず苦笑してしまった。
あはは、と場違いに明るい声で一しきり笑ったかと思うと、メイコさんはその余韻を断ち切るようにすっと息を吸い、真顔になった。
「なんで追い出さなかったのよ。偽者だって分かってたんでしょ」
知ってたんでしょ、詐欺だって。
鋭く切りつける声を、キセ氏は静かに受け止める。
「何でだろうね」
テーブルの上で手を組み、胸の内に沈んでいる思いを掬い上げるように俯いて目をつぶる。メイコさんは厳しい顔でキセ氏を睨みつけていた。答え次第ではいくらでも罵倒できるよう、胸のうちに沢山の言葉を用意していた。
窓の外からは風音が聞こえる。
木枯らしの吹き荒れる中、しんと静まる店内で2人は身じろぎもしなかった。
やがて顔を上げたキセ氏の口には、微かな笑みが浮かんでいた。
「騙されてもいいって、思ったのかな」
メイコさんは訝しげに目を細める。
「というより、騙されたかったのかもしれない」
「何よ、それ」
「私には血の繋がった肉親がいて、一緒に店を切り盛りしている。親しく助け合っている。嘘でもいい、たった一時でもいいから、そう信じたかったのかな。そういう夢を見たかったんだろうな」
キセ氏はふふっ、と静かに笑う。自分でもおかしくてたまらない、と言うように。
メイコさんは目を伏せた。予想しなかった答えとキセ氏の翳った笑みに戸惑い、どう応えて良いか分からなかった。
二人は俯き、それぞれの手元だけを見つめていた。
「……馬鹿みたい」
メイコさんが顔を上げた。
「バッカじゃないの、そんなつまんないことで」
言葉に反して口調は弱々しく、微かに震えている。伏せられた目はせわしなく動くもののキセ氏を見ることは無い。
虚勢を張るメイコさんに、キセ氏はそっと呟く。
「君はそう思うかもしれない。君はまだ若く、気力もあるだろうから」
けれどね、とキセ氏はメイコさんの目を覗き込み、笑った。
「独りで生きるのは、寂しいものだよ」
朝日が昇り、目覚め、誰もいない家で取る朝食。話す相手もいないままに迎える昼。店に出て、ほんの少しの時間客と交わす会話の心地よさ。そして、暗く静まり返った部屋に灯りを点す時の静けさ。店がなければ、誰とも言葉を交わさずに一日が終わる。
自分など、いてもいなくても変わらないのではないかと、ふと感じる。
その途方も無いやるせなさ。
「……」
メイコさんは何も言えなかった。きゅっと固く結ばれた唇が微かに震えていた。
「タネがばれれば、手品はただのペテンになる。けれども、信じている人にとっては、それは紛れも無い奇跡なんだよ」
ゆっくりと、言い聞かせるようにキセ氏は言葉を続ける。ひざの上に手を置き、俯いてじっと目を閉じるメイコさんに向けて語りかける。
「君は立派な手品師だった。私に、お客さんに、この店に、素敵な奇跡を見せてくれた。だから私は、君のことを胸を張って断言できる」
温かな眼差しが、柔らかな声が、メイコさんを包み込む。
「この私の、手品師キセの姪だと」
テーブルの向こうで俯くメイコさんの表情は見えない。けれども、キセ氏はメイコさんの強張った肩から、ふっと力が抜けたのを感じた。
メイコさんは、ゆっくりと顔を上げた。潤んだ瞳からは歪んだ色が消えて、静かな湖面を思わせる黒に透き通っていた。
「……あたしもね、ちょっとだけ、本気になってた」
震える唇を静かに解く。キセ氏は頷きながらメイコさんを見る。
「あいつが色々調べて、この店なら楽勝だって言ってさ。あたしもその気になって、ここに入って。一ヶ月もいればいいって思ってた。あんたにうまいこと取り入って、金さえ手に入れればすぐに逃げ出せるって」
でも、違った、と掠れた声で小さく笑う。
「なんかさ、お客さんと話したり、お酒作ったり、手品するのが、すごく楽しくて……けどさ、本当のあたしは、あんたとはなんの縁も無い、ただの馬鹿な女だからさ。それを忘れるなんて都合いいこと、しちゃいけなかった」
「だから、出て行った?」
メイコさんは頷く。長い髪がさらりと前に流れ片目を隠したが、それも直さず彼女は続ける。
「あたしはここにいちゃいけないって思った。それであいつのところに帰った。けど、もうそこにもいられなくなっちゃった」
結局あたし、ただの金づるだったみたい、と乾いた声で笑う。
本当に居場所の無くなったメイコさんは、ふらふらと酒を飲み歩いて、いつの間にかこの古ビルにたどり着いていた。普通なら絶対に騙した相手の下に戻ることなどないのに、気がつけば店の前にいたのだという。
なんでかな、とメイコさんは呟いた。何で、何でだろ、と自らに問い幾度も呟いた。
「許してもらえるわけ無いのにね。騙された者同士、一緒にいたって仕方ないのにね」
柔らかな陰がメイコさんの顔を縁取る。何も見ない目で、空に向かい、メイコさんはふっと静かに笑った。
「あたしも、信じたかったのかな」
不意に、キセ氏は立ち上がり、すっと右手を差し出した。
「さあ、ここには不思議なトランプがある。正直者にも不届き物にも、誰の目にも見えない、不思議なトランプ。これより、奇跡をお目にかけましょう」
静まり返った店の中に、キセ氏の朗々とした口上が響く。優しい顔立ちからは想像もできないよく通る声に、メイコさんは思わずびっくりして顔を上げた。
目の前にすっと立つキセ氏は堂々と胸を張り、ぴんと背筋を伸ばしている。そうしていると意外と背が高いということに、今更のようにメイコさんは気づいた。
力強い笑顔で、キセ氏は見えないトランプを両手で広げ持ち、呆気に取られるメイコさんにそれを差し出す。
「さあ、一枚選んで」
戸惑いながらも、メイコさんは一枚引く仕草をする。キセ氏は芝居がかった仕草で眉を上げ、
「そのカードでいいんだね?」
確認し、
「では、そのカードを覚えて」
強く、心に念じて!
言いながら、見えないトランプを切る。
突然のことにどうして良いか分からなかったが、メイコさんは言われるままに一つの絵柄を思い浮かべた。
「……覚えた」
頷くと、キセ氏は透明なトランプを扇形に広げる。
「この中の好きな場所に、そのカードを差し込んで」
メイコさんは、見えないカードを指でつまみ、そっと扇の中に戻す。
キセ氏はカードの山を整えると、それを二つに分け、重ね、また二つに分け、と素早くシャッフルし、滑らかな手つきで混ぜていった。
やがて、キセ氏は静かな手つきでトランプをテーブルに置いた。そしておもむろにカウンターの裏に回りこみ、下から何かを取り出した。
古いポラロイドカメラがメイコさんの目の前に現れた。
「さあ、さっきのカード、覚えているね?」
メイコさんは頷く。キセ氏は、よろしい、と透明なトランプを、位置を違わずすっと持ち上げ、一枚引き抜いた。続いて胸ポケットから見えない何かを取り出し、上部を掴んで引っ張る仕草をする。
「透明なペンだよ」
言いながら、キセ氏はカードに何かを書くように手を動かし、透明なキャップを閉め、再び胸ポケットに手をやった。見えないカードに見えないペンで見えない文字を書き、キセ氏はそれをメイコさんの前に置くように手を出した。
「さっき君が選んだカードにね、私からのメッセージを書いておいたから」
「見えるわけないじゃない。そんなもの無いんだから」
キセ氏は笑って首を横に振る。そして、ゆっくりとした手つきでポラロイドカメラを持ち上げ、メイコさんに向ける。
「額に手を当てて、さっきのカードを強く思い出して」
「……」
「さあ。君が信じてくれれば、見えないカードは姿を現す」
メイコさんは、そっと右手を額に当てた。目を閉じ、先ほど選んだカードを思い浮かべた。
赤く輝く柔らかな心の形。
遠い昔の少女が好んだ数字。
パチッ、と軽い音がした。
メイコさんが目を開けると、目の前のカメラから写真が吐き出されていた。キセ氏はそれを手に取り、テーブルの上に置く。
2人が見守る中、薄灰色の艶やかな紙に、段々と像が浮かび上がってくる。
薄暗い店内。壁にかかる装飾用のランプ。木でできた仕掛け扉。
瞳を閉じ一心に念じるメイコさん。
その頭の上には、宙に浮かぶカード――
メイコさんはぱっと写真を手に取り、食い入るように見つめた。自分の頭上にくっきりと写るのは紛れもなく見えないトランプの中から選んだ、メイコさんの心の中のカードだった。
ハートの7。
その空白部分には、黒い文字が描かれている。
小さなその文字を、メイコさんは目を近づけて必死に読み取った。
「あ……」
文字の羅列が意味を成した途端、メイコさんは一言も発することができなくなった。胸の奥に温かなものが広がり、塊となってぐっとこみ上げる。それは涙に変わって、猫を思わせる美しい瞳から大粒の真珠を連ねたようにいくつも零れ落ちた。
メイコさんは写真をテーブルに置き、両手で顔を覆った。
「ね、奇跡は起こっただろう」
メイコさんは幾度も幾度も頷いた。
幼子のようにしゃくりあげるその華奢な肩を、キセ氏は優しく叩いた。
風音が静かに店の中に入り込み、寄り添う二人の周りで柔らかな声のように響いていた。




