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記憶を取り戻して転生したら、そこはかつてプレイしたゲームの世界でした〜5人パーティを組みたい俺と、二人きりがいい女戦士  作者: 夢芝居


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14/15

灰色の目覚め

 最初に聞こえたのは、音だった。


 低い。


 重い。


 腹の底にまで響いてくる、巨大な機械の駆動音。


 ゴウン。


 ゴウン。


 ゴウン。


 一定の間隔で繰り返されるそれは、まるで巨大な生き物の心臓が、この都市そのものの地下で脈打っているようだった。


 白石律は、目を開けた。


 眩しくはなかった。


 むしろ、薄暗かった。


 空は曇っている。


 灰色の雲がどこまでも広がり、太陽の姿を完全に隠していた。


 その下に、巨大な煙突が何本も立っている。


 煙突から吐き出された白い蒸気が、風に流されながら空を汚していた。


 遠くではクレーンが動いている。


 鉄骨を吊り上げる音。


 金属同士がぶつかる音。


 大型車両のエンジン音。


 警告ブザー。


 誰かの怒鳴り声。


 そして、道路を走る車のタイヤが濡れた路面を擦る音。


 それらすべてが、同時に耳へ入ってきた。


「…………」


 律は、しばらく何も言えなかった。


 音が多すぎる。


 以前なら、こんな場所に立っただけで頭痛がしただろう。


 けれど今は違った。


 音を消してくれるフィルターがない。


 心地よい静寂へ変換してくれる仕組みもない。


 自分の都合のいい音だけを選んでくれる世界もない。


 ただ、そこにあるものが、そのまま入ってくる。


 ゴウン。


 ゴウン。


 ゴウン。


 巨大な機械の音。


 律は眉を寄せた。


 それだけではない。


 油の臭い。


 湿ったコンクリートの臭い。


 排気ガス。


 錆びた鉄。


 雨の気配。


 遠くから流れてくる海の匂い。


 鼻腔を刺激するそれらは、どれも懐かしいようで、どこか知らないものだった。


 古書店にいた頃は、本の匂いが世界のすべてだった。


 湊として生きていたときは、冷たい空調とコーヒーの香りが日常だった。


 剛として存在していたときは、油と鉄と汗の臭いが自分の世界だった。


 だが、今は違う。


 全部だった。


 古書店の紙の匂いも。


 オフィスのコーヒーの匂いも。


 工場の油の匂いも。


 それらが区別されず、一つの世界として鼻へ入ってくる。


 律は、ゆっくりと自分の手を見た。


 右手。


 左手。


 指。


 爪。


 掌。


 そこには何もなかった。


 銀色のペンもない。


 巨大なボルトもない。


 古びた詩集の切れ端もない。


 自分を別の誰かへ繋ぎ止めていた証拠は、もう存在しなかった。


 それなのに。


 不思議と怖くなかった。


 いや。


 正確には――怖かった。


 怖い。


 今までにないくらい。


 けれど、その恐怖を覆い隠すための別人格も、別の舞台も、もう存在しない。


 だから、ただ怖い。


「……これが」


 律は小さく呟いた。


「……現実……なのか」


 返事はなかった。


 当然だった。


 ここには脚本がない。


 誰かが台詞を用意してくれることもない。


 都合のいいタイミングで誰かが現れて、次に何をすべきか教えてくれることもない。


 律は、それを思い出して、少しだけ笑った。


「……そっか」


 乾いた笑いだった。


「本当に……何もないんだ」


 白紙。


 それが、今の律の世界だった。


灰色の街


 立ち上がろうとした。


 膝に力が入らない。


 ふらついた。


「……っ」


 律は地面に手をついた。


 冷たい。


 濡れている。


 掌に細かな砂が食い込んだ。


「……痛い」


 思わず口から漏れた。


 その瞬間、律は動きを止めた。


 痛い。


 そう感じた。


 痛いと思った。


 誰かがそう設定したわけでもない。


 剛の役割として痛みを引き受けたわけでもない。


 ただ、自分が痛いと思った。


 それだけだった。


「…………」


 律は自分の掌を見つめた。


 赤くなった皮膚。


 小さな傷。


 そこから滲む血。


 以前の律なら、この程度の傷を見ても何かの意味を探しただろう。


 剛なら、こんな傷は気にも留めなかった。


 湊なら、怪我の状態を冷静に分析したかもしれない。


 だが今の律には、そのどちらでもない。


 ただ、


 痛い。


 そう思った。


 そして、それを否定しなかった。


「……これも、僕なんだ」


 立ち上がる。


 足元のアスファルトは、ところどころひび割れていた。


 以前見ていたポート・オメガとは違う。


 古書店の前の道路は、もっと穏やかだった。


 オフィス街は、整然としていた。


 工業区画は、危険ではあったが、剛にとって都合のいい場所だった。


 だが今目の前にある街には、都合など存在しない。


 道路の白線は剥げている。


 建物の壁には雨染みがある。


 看板の文字は一部が欠けている。


 路地にはゴミが落ちている。


 信号は少しだけ点滅している。


 遠くの建物からは、誰かが窓を閉める音が聞こえる。


 生活の音だった。


 完璧ではない。


 美しくもない。


 けれど――生きている。


 律は、しばらくその街を見つめた。


「……灰色だ」


 思わず呟く。


 その言葉に、誰かが答えた。


「そうね」


「……え?」


 律が振り返る。


 そこに――彼女がいた。


 白い服。


 灰色の空を背景にして、静かに立っている。


 菜緒ではない。


 紗英でもない。


 鈴でもない。


 その三人を思わせる部分は確かにある。


 けれど、それらのどれでもない。


 一人の女性。


 一人の人間。


 それだけだった。


「……君」


 律の声が震えた。


 彼女は何も言わず、律を見ていた。


 その瞳には、以前のような作られた優しさがない。


 律が欲しい答えを与えるための表情でもない。


 ただ、目の前にいる人間を見ている。


 律は一歩近づいた。


 そして、彼女の手を見た。


「……本当に、いるの?」


「いるわ」


「僕が作ったんじゃない?」


 彼女は少し考えた。


「全部が、あなたの作ったものだったとは思わない」


「…………」


「でも、あなたが私をどう見ていたのかは……たぶん、あなた自身が作った部分もある」


 律は黙った。


 その答えが、妙に現実的だった。


 以前なら、彼女はもっと綺麗な言葉をくれただろう。


 大丈夫。


 あなたは一人じゃない。


 私はずっとあなたの味方。


 そんな言葉を。


 でも、今の彼女は言わない。


 分からないことを、分からないままにしている。


 律は、それが嬉しかった。


「……そっか」


 彼は小さく笑った。


「じゃあ、まだ分からないことがいっぱいあるんだね」


「ええ」


「君自身のことも?」


「ええ」


「僕のことも?」


「ええ」


 彼女は頷いた。


「だから、これから知っていくしかないんじゃない?」


 律は、その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


本物の体温


 彼女が手を差し出した。


「歩ける?」


「……たぶん」


「たぶん?」


「まだ、足元が少し怖い」


「じゃあ、ゆっくりでいいわ」


 律は彼女の手を取った。


 その瞬間だった。


「…………」


 律の表情が変わった。


 温かい。


 これまで感じてきた温度とは違う。


 幻影の中で触れた手は、いつも都合がよかった。


 必要なときだけ温かく。


 安心したいときだけ優しく。


 恐怖を感じれば、それを打ち消すように柔らかく。


 だが、今の手は違った。


 少し汗ばんでいる。


 指先は冷たい。


 握り方も少し不器用だ。


 力の入り方が左右で違う。


 そして――ほんの少し震えている。


「……君も、怖いの?」


 律が尋ねた。


「怖いわ」


「……そうなんだ」


「あなたをここまで連れてきたから」


「僕を?」


「ええ」


 彼女は律の手を握ったまま言った。


「でも、あなたがこの先どうするのかは、私にも分からない」


「…………」


「だから、少し怖い」


 律は彼女を見た。


 その言葉を聞いて、なぜか安心した。


 彼女も怖い。


 なら、この世界は本物なのかもしれない。


 怖がることのできる誰かがいる。


 正解を知らない誰かがいる。


 律は、それが嬉しかった。


「……ありがとう」


「何が?」


「怖いって言ってくれて」


 彼女は少しだけ笑った。


「変な人ね」


「よく言われる」


「それも、誰かに言われたの?」


「……たぶん」


 二人は歩き始めた。


脚本のない街


 道路を渡る。


 車が一台、クラクションを鳴らした。


「危ない!」


 彼女が律の腕を引いた。


 律の身体がよろめく。


 車はそのまま通り過ぎていった。


「……っ」


 律の心臓が激しく鳴っている。


「大丈夫?」


「うん」


「本当に?」


「……うん」


 けれど、律は胸に手を当てた。


 ドクン。


 ドクン。


 心臓が鳴っている。


 それは以前、地下施設で聞いた四つの鼓動とは違う。


 一つだった。


 自分自身の鼓動。


 律は、それをしばらく感じていた。


「……怖いね」


「ええ」


「でも……」


 律は街を見た。


「生きてる感じがする」


 彼女は答えなかった。


 ただ隣を歩いていた。


 それが良かった。


 何かを説明される必要はない。


 何かを演じる必要もない。


 沈黙が沈黙のまま存在している。


 それだけで十分だった。


 歩いている途中、律は交差点の角に小さな掲示板を見つけた。


 求人情報。


 工場の作業員。


 配送スタッフ。


 書店員。


 システムエンジニア。


 警備員。


 様々な仕事が並んでいる。


 律は、その前で立ち止まった。


「……いっぱいある」


「そうね」


「僕は……何になればいいんだろう」


 彼女はすぐには答えなかった。


「ならなくてもいいんじゃない?」


「え?」


「仕事を決めることと、自分が何者なのかを決めることは、同じじゃないでしょう?」


 律は黙った。


 確かにそうだった。


 湊はエリートでなければならなかった。


 剛は荒々しい男でなければならなかった。


 律は静かで、孤独で、傷つかない存在でなければならなかった。


 それぞれの役割が、自分自身の名前になっていた。


 だが今は違う。


 律は律だ。


 何者かを証明する必要はない。


 それでも――不安だった。


「……何者でもないって、怖いね」


「うん」


「認めてもらえなくても?」


「怖いでしょうね」


「失敗しても?」


「怖いと思う」


「逃げたくなっても?」


「逃げてもいいと思う」


 律が彼女を見る。


「え?」


「逃げること自体が悪いわけじゃないもの」


「……剛なら、怒りそう」


「湊なら、効率が悪いって言うでしょうね」


 二人とも、少し笑った。


 律は胸の奥に、二人の声を感じた。


 消えてはいない。


 でも、もう敵ではなかった。


湊


 突然、街の音が遠ざかった。


 代わりに、キーボードを叩く音が聞こえた。


 カタカタカタ。


 カタカタカタ。


「……律」


 その声。


 律は振り向いた。


 誰もいない。


 けれど、確かに聞こえた。


「湊……?」


『そう』


 声だけだった。


『お前、これからどうするつもりだ?』


「分からない」


『珍しいな』


「うん」


『今までなら、答えを作っただろ』


「……そうだね」


 律は目を閉じた。


 湊はいつも正解を求めていた。


 間違えないため。


 否定されないため。


 認めてもらうため。


 完璧な答えさえ出せば、誰も自分を見捨てない。


 そう信じていた。


「湊」


『何だ』


「僕は……君を消したくない」


 沈黙。


 しばらくして、声が返ってきた。


『……何?』


「君の考え方も、君が欲しがっていたものも、全部が間違いだったとは思わない」


『…………』


「認められたいって気持ちは、悪いことじゃない」


『……そうか』


「僕だって、誰かに認めてもらいたい」


『……そうだな』


「でも、それだけが僕じゃない」


 長い沈黙。


 やがて湊が笑った。


『やっと言ったな』


「何を?」


『それを言うのに、お前は随分遠回りした』


「……ごめん」


『謝るな』


 声が少しだけ柔らかくなった。


『俺はお前が失敗しないようにしたかっただけだ』


「うん」


『だから、正解ばかり探した』


「うん」


『でも……』


 声が遠ざかる。


『正解がない場所でも、歩けるんだな』


「……うん」


『なら、行け』


 その瞬間、律の中で何かがほどけた。


 湊の気配が、静かに自分の中へ戻っていく。


 消滅ではなかった。


 融合だった。


 論理。


 判断力。


 分析する力。


 それらは、律のものになった。


剛


 次の瞬間。


 ゴンッ!


 どこかで鉄が叩かれた。


「……剛」


 今度は、すぐに分かった。


『おい』


「うん」


『こんなところで立ち止まってんじゃねえ』


「……でも、怖いんだ」


『だから何だ』


「分からないから」


『分からねえなら、進め』


「剛」


『何だ』


「僕は、君にもありがとうって言いたい」


『……は?』


「君がいたから、僕は怒ることができた」


『…………』


「痛かったことを、痛いって認められた」


『…………』


「誰かに壊されたとき、壊されたままで終わりたくないって思えた」


 剛は黙っていた。


 やがて、低い声が返ってくる。


『……俺は、ただ壊したかっただけだ』


「違うよ」


『何が違う』


「本当は……壊されたくなかったんじゃない?」


 沈黙。


 それが答えだった。


「僕はもう、何でも壊す必要はない」


『……そうだな』


「でも、君の力は必要だと思う」


『俺の力が?』


「うん」


 律は拳を握った。


「何かを壊す力じゃなくて……立ち上がるための力として」


 剛は、鼻で笑った。


『……気取ったこと言いやがって』


「ごめん」


『謝るなって』


 剛の声が少しだけ遠ざかる。


『ただな』


「うん」


『自分を壊すのだけは、やめろ』


 律は息を呑んだ。


『俺が代わりに怒ってやるから』


 そして、剛の気配も消えた。


 いや。


 消えたのではない。


 律の中に戻った。


 怒り。


 生命力。


 行動する力。


 それらもまた、律自身の一部になった。


一つになる感覚


 律は、その場に立ったまま目を閉じた。


 静かだった。


 いや。


 街は騒がしい。


 機械音もする。


 車も走っている。


 人の声も聞こえる。


 それでも、以前とは違う。


 頭の中に、三つの世界が同時に存在していない。


 古書店。


 オフィス。


 工場。


 それらはもう、別々の世界ではなかった。


 全部が一つだった。


 律の記憶。


 律の経験。


 律の感情。


 律の傷。


 律の願い。


「……僕は」


 律は呟いた。


「僕だったんだ」


 当たり前のことなのに。


 それを理解するまで、どれだけ遠回りしたのだろう。


 彼女が隣に立っていた。


「少し、顔が変わったね」


「そう?」


「うん」


「どんな顔?」


「少しだけ……困ってる顔」


「……それは嫌だな」


「でも、前よりいい」


 律は笑った。


「困ってるってことは、ちゃんと分からないってことだから?」


「そう」


「……なるほど」


 律は空を見上げた。


 灰色の雲。


 雨が降りそうだった。


 以前なら、雨は記憶の入口だった。


 白い傘。


 時計のない時計塔。


 泣いている少年。


 そして――彼女。


「……雨、降りそうだね」


「そうね」


「君は、雨が好き?」


「分からない」


「分からないんだ」


「あなたは?」


「僕も分からない」


 二人は笑った。


鏡のない街


 歩いていると、小さな商店の前にガラスがあった。


 律はそこへ映る自分を見た。


 以前の鏡とは違う。


 そこには一人の青年がいる。


 疲れている。


 顔色も悪い。


 髪は乱れている。


 服には泥が付いている。


 けれど――自分だった。


「……普通だ」


「普通ね」


「なんだか、安心する」


「そう?」


「うん」


 律は自分の顔を触った。


 鏡の中の自分も同じ動きをする。


 遅れない。


 勝手に別の顔へ変わらない。


 誰かの姿にならない。


 律は小さく息を吐いた。


「……ありがとう」


「何が?」


「鏡」


 彼女が笑った。


「鏡にお礼を言う人、初めて見た」


「僕も初めて言った」


 そんなくだらない会話が、なぜか嬉しかった。


現実は優しくない


 だが、現実はすぐに牙を見せた。


 昼を過ぎた頃。


 律は空腹を感じた。


「……お腹空いた」


「何か食べる?」


「うん」


 二人は小さな食堂へ入った。


 席につく。


 メニューを見る。


 どれも高くはない。


 律は財布を確認した。


「……」


 中身は、ほとんどなかった。


「どうしたの?」


「お金がない」


「……そう」


「どうしよう」


「働く?」


「それしかないかな」


 二人で笑った。


 でも、その笑いは以前のものとは違った。


 逃げるための笑いではない。


 現実の不便さを笑っている。


 注文した料理が出てくるまで、二十分かかった。


 店員は忙しそうだった。


 隣の客が文句を言っていた。


 料理は少し冷めていた。


 味も、特別美味しいわけではない。


 律は箸を止めた。


 以前なら、こんな世界を不完全だと判断していたかもしれない。


 もっと美しく。


 もっと快適に。


 もっと自分に優しい世界を。


 けれど。


「……美味しい」


 律は言った。


「本当に?」


「うん」


 彼女も食べる。


「……うん。普通」


「普通か」


「普通」


 二人は笑った。


 その普通が、律には何より大切だった。


彼女の名前


 食事を終えて外へ出る。


 雨が降り始めていた。


 細い雨だった。


 律は立ち止まった。


 彼女を見る。


「ねえ」


「何?」


「君の名前」


「…………」


「本当の名前を、教えて」


 彼女は黙った。


 そして、ゆっくり首を振った。


「まだ言えない」


「どうして?」


「あなたが思い出したときに、自分で呼んでほしいから」


「……僕が?」


「ええ」


「でも、思い出せるか分からない」


「だから、探すの」


「一緒に?」


「できる限り」


 律は彼女の横顔を見た。


「……じゃあ、約束」


「何を?」


「いつか僕が、君の名前を呼ぶ」


「ええ」


「もし忘れてたら?」


「そのときは、もう一度探しましょう」


「何度でも?」


「何度でも」


 その言葉を聞いた瞬間。


 律の頭の奥で、何かが光った。


 白い傘。


 雨。


 古い時計塔。


 泣いている少年。


 少女の声。


『待ってるから』


 そして。


『あなたが、あなたに戻れるまで』


「…………っ」


 律は頭を押さえた。


「律?」


「今……」


「何?」


「何か……思い出しそうだった」


 彼女は、何も急かさなかった。


「無理に思い出さなくていい」


「……うん」


 律は深呼吸した。


「いつか、思い出す」


「ええ」


「そのとき……」


「そのとき?」


「ちゃんと、君の名前を呼ぶよ」


 彼女は微笑んだ。


「待ってる」


Ω


 夕方。


 二人は工業区画を抜けて、港へ向かった。


 海は灰色だった。


 空も灰色。


 建物も灰色。


 けれど、水平線だけはかすかに青かった。


 律はそこで立ち止まった。


 ポケットに何かが触れた。


「……?」


 手を入れる。


 一枚の紙。


「……これ」


 取り出した。


 白い紙だった。


 何も書かれていない。


 そう思った。


 だが、中央に一つだけ記号があった。


 Ω。


「…………」


 律の背筋が冷たくなった。


 これは――


 第13話の最後に現れた紙。


 あのときも、確かに同じ記号があった。


 だが、なぜ。


 脚本は消えた。


 安全箱も解除された。


 虚構世界も消失した。


 それなのに、なぜこれが残っている?


「どうしたの?」


 彼女が覗き込む。


「分からない」


 律は紙を裏返した。


 何もない。


 もう一度表を見る。


 Ω。


 その瞬間。


「それ、まだ持ってたの?」


「…………!」


 声がした。


 女の声。


 しかし、隣の彼女ではない。


 律が振り返る。


 誰もいない。


「……誰?」


 返事はない。


 海風だけが吹いている。


 彼女も周囲を見回した。


「今、誰か言った?」


「……聞こえた?」


「ええ」


 律は紙を握りしめた。


「誰なんだ……」


 遠くで、クレーンが動いた。


 ギィィィン。


 その音が、妙に大きく響いた。


 そして。


 港の向こう側。


 霧の中に。


 一瞬だけ白い傘が見えた。


「……!」


 律が走り出そうとした。


 だが、彼女が腕を掴んだ。


「待って!」


「でも!」


「今は追わないほうがいい」


「どうして?」


「……分からない」


 彼女はそう言った。


 そして、自分自身でも驚いたように呟いた。


「ただ……嫌な感じがする」


 律は足を止めた。


 霧の向こう。


 白い傘はもう消えていた。


地下


 同じ頃。


 ポート・オメガの地下深く。


 誰も知らない施設。


 壁一面に並ぶモニターの一つが、静かに点灯していた。


『人格統合率――81%』


『現実認識――57%』


『虚構維持率――0%』


『脚本――消失』


『安全箱――解除』


 数値が更新される。


 さらに別の画面。


『第四因子――接触可能領域へ移行』


『対象――白石律』


『接触者――未確定』


 画面の隅に、四つの椅子が映っている。


 三つは空だった。


 残る一つ。


 そこには、誰かが座っていた。


 顔は映っていない。


 白い傘だけが見える。


「…………」


 その人物は、ゆっくりと立ち上がった。


 床に雨水が落ちる。


 一滴。


 また一滴。


 施設の中なのに。


 雨が降っている。


 人物は、机の上に置かれた一冊のノートを開いた。


 そこには四つの欄があった。


 白石律。


 桐生湊。


 赤城剛。


 そして――


 名前のない四つ目。


 その欄だけが、黒く塗り潰されている。


「……まだ、終わってない」


 少女の声だった。


 モニターが一瞬だけ乱れる。


『第四因子――活動開始』


 そして最後に。


『接触予定――未定』


 画面が暗転した。


雨の中で


 港へ戻る。


 雨は少し強くなっていた。


 律は空を見上げる。


 灰色の空。


 灰色の街。


 灰色の海。


 けれど、もう以前のようには感じなかった。


 灰色だからこそ、その中にある小さな色が見える。


 信号の赤。


 工場の黄色い照明。


 船の青い灯り。


 誰かの傘。


 濡れた道路に反射する街の光。


 完璧ではない。


 美しく整えられてもいない。


 それでも――確かに存在している。


 律は歩いた。


 一歩。


 また一歩。


 彼女が隣にいる。


 手を繋いでいる。


 その手は、少し冷たい。


 でも、確かに温かい。


「ねえ」


「何?」


「僕……まだ怖い」


「うん」


「これから何をすればいいのか分からない」


「うん」


「失敗するかもしれない」


「うん」


「また逃げたくなるかもしれない」


「うん」


「それでも……」


 律は足を止めた。


「歩いてみたい」


 彼女は律を見る。


「うん」


「一緒に?」


「……できる限り」


 その答えが好きだった。


 永遠を約束しない。


 絶対を約束しない。


 ただ、今ここにいることだけを約束する。


 それで十分だった。


 律は前を向いた。


 道路の先には、見たことのない街が広がっている。


 地図はない。


 正解もない。


 目的地さえ決まっていない。


 それでも。


 自分の足で歩けばいい。


「……地図はいらないな」


「え?」


「歩いた場所が、僕の地図になる」


 彼女は笑った。


「それなら、ずいぶん大きな地図になりそうね」


「うん」


 律も笑った。


「どこまで広がるか、試してみたい」


 二人は歩き出した。


 雨の中へ。


 灰色の現実の中へ。


 誰かが用意した道ではない。


 誰かが書いた脚本でもない。


 自分自身で選ぶ道。


 その一歩一歩が、自分という人間を作っていく。


 やがて律は、ふと足元を見た。


 濡れたアスファルトに、自分の靴跡が残っている。


 一歩。


 また一歩。


 白い世界では、足跡はすぐに消えた。


 けれど、ここでは消えない。


 雨に濡れても。


 車に踏まれても。


 誰かがその上を歩いても。


 しばらくの間は、確かに残っている。


 律はその足跡を見つめた。


「…………」


 そして、静かに呟いた。


「僕は……僕として歩き始めた」


 彼女は何も言わなかった。


 ただ、隣を歩いていた。


 遠くで、巨大なガントリークレーンが動いた。


 その先端にある警告灯が、一つ。


 また一つ。


 そして三つ。


 赤く点滅する。


 最後に――


 四つ目の灯りが点いた。


 律は振り返らなかった。


 もう、振り返る必要はなかった。


 ただ前を見ていた。


 雨の向こう。


 まだ知らないポート・オメガ。


 そこには、たくさんの嘘があるかもしれない。


 まだ消えていない記憶があるかもしれない。


 誰かが自分を監視しているのかもしれない。


 第四の存在が待っているのかもしれない。


 そして――


 自分がまだ知らない、本当の過去がある。


 それでも。


 律は歩いた。


 白紙だった世界に。


 自分自身の最初の一行を書くように。


 その背後。


 霧の中で。


 白い傘が、もう一度だけ開いた。


 その下に立つ少女が、静かにこちらを見ている。


 少女の唇が動いた。


「……今度こそ」


 雨音に紛れて、声は届かない。


 けれど、その言葉は確かに存在していた。


「あなた自身の言葉で……私の名前を呼んで」


 ガントリークレーンの四つの警告灯が、同時に点滅する。


 赤。


 赤。


 赤。


 そして――


 赤。


 まるで四つの心臓が、同じ瞬間に鼓動したように。


 ポート・オメガは静かに息をしていた。


 灰色の朝。


 灰色の街。


 灰色の現実。


 そのどこかに、まだ一つだけ。


 白いものが残っている。


 白い傘。


 白い紙。


 白い建物。


 白い記憶。


 そして――


 白紙の現実。


 律はまだ知らない。


 この街そのものが、彼のために作られた檻だったのか。


 それとも。


 檻から出たあとに初めて見ることのできた、本当の世界なのか。


 ただ一つだけ確かなことがある。


 もう、彼は誰かの脚本を待ってはいない。


 答えを与えられることも。


 役割を与えられることも。


 誰かに自分が何者なのか決めてもらうことも。


 必要ではない。


 怖くてもいい。


 迷ってもいい。


 間違ってもいい。


 逃げてもいい。


 怒ってもいい。


 誰かに認められたいと思ってもいい。


 その全部を抱えたまま。


 一人の人間として、生きていけばいい。


 律は歩く。


 彼女とともに。


 雨の中を。


 灰色の街の中を。


 まだ何も書かれていない未来へ。


 そして――


 その先で待つ、


 第四の鼓動へ。


 物語は、まだ終わらない。


 むしろ。


 ここからようやく――


 

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