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記憶を取り戻して転生したら、そこはかつてプレイしたゲームの世界でした〜5人パーティを組みたい俺と、二人きりがいい女戦士  作者: 夢芝居


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13/15

白紙の重圧と、最初の一歩

白石律は、白い世界を歩いていた。


 右にも、左にも、道はなかった。


 前にも、後ろにも。


 標識はない。


 建物もない。


 空もない。


 地面すら、本当に存在しているのか分からなかった。


 ただ、自分の足元だけが、かすかに白く浮かび上がっている。


 一歩踏み出せば、その場所にだけ薄い影が生まれる。


 しかし、二歩目を踏み出した瞬間には、最初の足跡が消えている。


 まるで、この世界には過去というものが存在しないかのようだった。


「……」


 律は立ち止まった。


 振り返る。


 何もない。


 さっきまで自分が歩いてきたはずの場所も、完全な白。


 道筋すら残っていない。


「これが……白紙」


 呟いた声が、どこにも反響しなかった。


 古書店なら、声は本棚に吸い込まれていった。


 オフィスなら、ガラスや壁に反射した。


 工場なら、機械の音に掻き消された。


 けれど、ここには何もない。


 だから声は、自分自身の耳にしか届かない。


 そのことが、妙に恐ろしかった。


「……本当に、何もないんだ」


 律は笑おうとした。


 けれど、口元は引きつっただけだった。


 自由。


 そう言われれば、確かに自由なのだろう。


 誰にも命令されない。


 誰にも役割を与えられない。


 何をしてもいい。


 どこへ行ってもいい。


 何者になってもいい。


 けれど――


 何をしてもいいということは。


 何をすればいいのか、誰も教えてくれないということでもあった。


「……」


 律の胸に、重いものが沈んでいく。


 白紙。


 何も決められていない未来。


 そこには可能性しかない。


 同時に、失敗する可能性も無限にある。


 間違えるかもしれない。


 誰かを傷つけるかもしれない。


 嫌われるかもしれない。


 何も成し遂げられないかもしれない。


 また逃げたくなるかもしれない。


 それでも。


 自分で選ばなければならない。


「……怖いな」


 律は正直に呟いた。


 その瞬間だった。


 ――ザザッ。


 耳元で、ノイズが走った。


「……?」


 律が顔を上げる。


 白い世界の奥から、何かが近づいてくる。


 最初は小さな音だった。


 キーボードを叩く音。


 カタカタ、カタカタ。


 それが次第に大きくなる。


 やがて、周囲の白が歪み始めた。


 白い壁。


 黒い床。


 無数のモニター。


 机。


 椅子。


 そして、整然と並ぶサーバーラック。


「……戻れ」


 声がした。


 律は目を細める。


「……湊?」


「戻れ、律」


 白い空間の一部が、急速にオフィスへ変わっていく。


「そっちはデータがない」


 モニターに大量の文字が流れる。


「目的地もない」


 数字。


 グラフ。


 予測。


 分析。


 すべてが高速で更新される。


「成功条件も設定されていない」


 画面の一つに、大きな文字が表示された。


『ERROR』


「そんな場所に行って、何になる?」


 湊が姿を現した。


 黒いスーツ。


 整った姿勢。


 冷静な表情。


 けれど、その目の奥には焦りがあった。


「お前は、ここなら安全だ」


「……」


「ここにいれば、失敗しない」


「……うん」


「正解を探せばいい」


「……」


「誰かに評価される方法を考えればいい」


「……」


「役に立てばいい」


 湊の声が少し強くなる。


「そうすれば、お前はここにいていい」


 律は彼を見つめた。


 胸の奥が痛かった。


 その言葉は、かつて自分自身が何度も繰り返したものだった。


 役に立たなければならない。


 認められなければならない。


 正しくなければならない。


 必要とされなければならない。


 それができなければ、自分には価値がない。


 湊は、その考えを一人で背負ってくれていた。


「……湊」


「なんだ」


「君は、怖いんだね」


 湊の表情が止まった。


「何?」


「僕が外へ行くことが」


「違う」


「違わないよ」


「僕は合理的に判断している」


「うん」


「不確定要素が多すぎる」


「うん」


「危険だ」


「うん」


「だから――」


「怖いんだね」


 湊は黙った。


 律は一歩近づいた。


「君は、僕が傷つかないようにしてくれてたんだ」


「……」


「失敗しないように」


「……」


「誰にも否定されないように」


 湊の唇がわずかに震えた。


「……そうだ」


 小さな声だった。


「僕は、お前が壊れないようにしていた」


 律の胸が締め付けられる。


「だったら、ありがとう」


「……」


「もう大丈夫」


「本当に?」


「分からない」


 律は正直に答えた。


「たぶん、何度も壊れそうになる」


「……」


「でも」


 律は笑った。


「そのときは、また君の力を借りるよ」


 湊が目を見開く。


「僕の?」


「うん」


「でも僕は――」


「消えなくていい」


 律は言った。


「君は僕だから」


 その瞬間。


 オフィスのすべてのモニターが停止した。


 流れていた数字が消える。


 グラフも。


 計算式も。


 予測データも。


 最後に一枚の画面だけが残った。


『不確定』


 湊はその文字を見つめた。


 そして――


 少しだけ笑った。


「……そうか」


「うん」


「不確定でも、進めるのか」


「進める」


「……なら」


 湊の姿が少しずつ透け始める。


「僕は、もう計算しなくていいのかもしれないな」


「うん」


「お前が自分で選ぶなら」


 湊は律を見た。


「僕は、もう答えを出す必要がない」


 その姿が白い霧へ溶けていく。


 最後に残った声だけが聞こえた。


「……ただ、考える力だけは忘れるな」


「うん」


 律は頷いた。


「ありがとう」


 湊は消えた。


 しかし。


 静寂は長く続かなかった。


 今度は――


 轟音。


 ドォォォォンッ!


 白い世界が激しく揺れた。


 空間に亀裂が走る。


 その亀裂の向こうから、大量の瓦礫が降ってきた。


「うわっ!」


 律は腕で顔を覆った。


 コンクリート片。


 鉄骨。


 砂埃。


 火花。


 そして、荒い呼吸。


「こんなところで何してやがる!」


 剛だった。


 作業着は泥と油にまみれ、拳には傷がある。


「剛……」


「道がねぇなら、作ればいいだろ!」


 剛が拳を振り上げる。


「こんな真っ白な場所、気持ち悪くて仕方ねぇ!」


 拳が白い地面を殴った。


 ――ドンッ!


 白い地面に亀裂が走る。


「ほらな!」


 剛が叫ぶ。


「壊せば道になる!」


 律は、その亀裂を見つめた。


 確かに道のようにも見えた。


 けれど。


 その先にあるのは、また白紙だった。


「……剛」


「あ?」


「壊した先に、何がある?」


「知らねぇよ!」


「だよね」


「だったら歩きながら決めりゃいいだろ!」


 律は少し驚いた。


「……それ」


「あ?」


「僕が言おうとしてたことと同じだ」


 剛が黙る。


 しばらく律を見つめる。


 そして。


「……チッ」


 頭を掻いた。


「俺も変わったってことかよ」


「そうかもしれない」


「前なら、全部ぶっ壊して終わりだった」


「うん」


「でも今は……」


 剛が白紙を見る。


「壊したあと、何か作りたくなってきやがった」


 律は笑った。


「それなら、もう僕たちは同じだね」


「同じ?」


「うん」


 剛は鼻で笑った。


「最初から同じだろ」


 その言葉が、律の胸に響いた。


「俺はお前の怒りだ」


「うん」


「お前が言えなかったことを、俺が叫んでた」


「うん」


「殴りたかったら、俺が殴った」


「うん」


「壊したかったら、俺が壊した」


 剛は拳を見た。


「でもよ」


 その拳を、ゆっくり開いた。


「怒ってるだけじゃ、前には進めねぇんだな」


「……うん」


「だったら」


 剛は笑った。


「必要なときだけ呼べ」


「え?」


「どうしても殴らなきゃならねぇときは、俺が殴ってやる」


 律は笑った。


「分かった」


「ただし」


「うん?」


「自分まで殴るなよ」


 律は少しだけ黙った。


「……分かった」


「絶対だぞ」


「うん」


 剛の姿もまた、霧の中へ消えていく。


 最後に声だけが残った。


「……お前は、もう一人じゃねぇからな」


 律は目を閉じた。


「うん」


 静寂。


 今度こそ、何も聞こえなくなった


 律は自分の両手を見つめた。


 何度も見た手だった。


 地図を描いた手。


 文字を書いた手。


 震えていた手。


 何かを掴もうとしていた手。


 そして。


 何度も自分自身を守ろうとしていた手。


「……君たちは」


 律は小さく呟く。


「僕だったんだね」


 湊。


 剛。


 二人は敵ではなかった。


 異常でもなかった。


 消すべき幻でもなかった。


 彼らは、律が生き残るために作り出した欠片だった。


 自分では抱えきれなかった感情。


 自分では認められなかった願い。


 自分では許せなかった怒り。


 それらを別々の人格に押し込めることで、律はようやく今日まで生き延びることができた。


 だから。


 彼らを否定することは、自分自身の一部を否定することと同じだった。


「……ありがとう」


 もう一度、律は言った。


「僕を守ってくれて」


 白い世界が、静かに揺れた。


 すると。


 胸の奥に残っていたノイズが、一つずつ消えていった。


 ザー……。


 ザー……。


 砂嵐のような音。


 それが少しずつ小さくなる。


 やがて。


 完全な静寂。


 その静寂の中で、律は初めて――


 自分の心臓の音を聞いた。


 ドクン。


 ドクン。


 ドクン。


「……これが」


 律は胸に手を当てる。


「僕の音」


 誰かの声ではない。


 システムの警告でもない。


 脚本の台詞でもない。


 自分自身の鼓動。


 それだけだった。


 そのとき。


 遠くから、足音が聞こえた。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 律は顔を上げた。


 白い霧の向こうに、人影がある。


 細い輪郭。


 長い髪。


 ゆっくりと近づいてくる。


 律の胸が高鳴った。


「……菜緒?」


 影は止まらない。


「紗英……?」


 さらに近づく。


「……鈴?」


 女性は目の前で立ち止まった。


 けれど。


 そこにいたのは、菜緒でも。


 紗英でも。


 鈴でもなかった。


 どの服も着ていない。


 エプロンもない。


 スーツもない。


 作業用の軍手もない。


 ただ、白い服を着ている。


 それだけだった。


 律は彼女を見つめた。


「……君は」


 女性は何も言わない。


「誰?」


 その問いに。


 彼女は少しだけ微笑んだ。


「今のあなたには、まだ名前はいらないでしょう?」


「……」


「名前を決めてしまえば、また役割にしてしまうから」


 律は息を呑んだ。


 確かに。


 そうだった。


 菜緒。


 紗英。


 鈴。


 名前を与えた瞬間、彼女はそれぞれの役割になった。


 古書店の少女。


 エリートを支える女性。


 工業地帯で寄り添う少女。


 でも。


 本当は一人だった。


「……じゃあ、どう呼べばいい?」


「呼ばなくてもいい」


「それは困る」


 彼女は少し笑った。


「どうして?」


「君と話したいから」


「……」


「呼び方がないと、話しかけられない」


 女性は少し考えた。


「なら」


 彼女は言った。


「あなたが決めればいい」


「僕が?」


「ええ」


 律は困ったように笑った。


「また僕が名前を作ったら、君を閉じ込めてしまいそうだ」


「それなら、今は決めなくていい」


「……うん」


 二人の間に沈黙が落ちる。


 けれど。


 不思議と気まずくなかった。


 以前までの会話は、どこか台本のようだった。


 自分が言えば、彼女が答える。


 自分が悲しめば、彼女が慰める。


 自分が苦しめば、彼女が抱きしめる。


 自分が望む言葉を、彼女はいつも返してくれた。


 だからこそ。


 それは完璧すぎた。


 今の彼女は違う。


 少し困った顔をする。


 沈黙もする。


 すぐには答えない。


 そして――


 律の望む言葉を、必ずしも返さない。


 それが。


 不思議なほど嬉しかった。


「……君は」


「うん?」


「本当に僕のことを心配してる?」


「してるわ」


「僕が間違ったら?」


「心配する」


「失敗したら?」


「心配する」


「それでも一緒にいてくれる?」


 彼女は少し考えた。


 そして。


「一緒にいられるなら」


 そう答えた。


 律は目を見開いた。


「……なら、どうして断言しないの?」


「現実には、断言できないことが多いから」


 律は笑った。


「そっか」


「うん」


「それが現実なんだね」


「たぶんね


 女性が、手を差し出した。


 律はその手を見つめる。


 細い指。


 白い肌。


 少しだけ震えている。


 律はゆっくり手を伸ばした。


 指先が触れた。


「……」


 律は息を止めた。


 温かい。


 想像ではなかった。


 映像でもない。


 幻覚でもない。


 その温度は、不規則だった。


 少し冷たいところがある。


 指先は少しだけ湿っている。


 手のひらには、微かな汗。


 そして。


 指がほんの少し震えている。


「……温かい」


「そう?」


「うん」


「あなたの手も温かいわ」


「……」


 律は手を握った。


 その瞬間。


 世界の白が少しだけ薄くなった。


 足元に、影が生まれる。


 初めてだった。


 この世界に、自分以外の存在が確かにいることで生まれた影。


 律はその影を見つめた。


 二人分。


 確かにある。


「……これ」


「なに?」


「影」


「ええ」


「僕一人だったときは、なかった」


「そうね」


「君がいるから?」


「そうかもしれない」


 律は笑った。


「やっぱり、君は変だ」


「あなたにだけは言われたくないわ」


 二人は小さく笑った。


 その笑い声が白い世界に響く。


 今度は。


 ちゃんと反響した。


 その瞬間だった。


 世界が崩れた。


「――っ!」


 女性の手を握っていた律が、思わず周囲を見る。


 白い空間に、巨大な亀裂が走っている。


 上空。


 足元。


 遠く。


 すべてに線が入る。


「何が起きてる?」


「防衛機制が最後の抵抗をしているの」


「まだ?」


「あなたが完全に外へ出ることを拒んでいる」


「でも、湊も剛も受け入れた」


「だからこそ」


 女性が言った。


「最後に残っているのは、あなた自身の恐怖」


「……僕の?」


「ええ」


 律の目の前に、巨大な鏡が現れた。


 そこに映ったのは――


 自分。


 幼い頃の自分。


 泣いている自分。


 怒っている自分。


 笑っている自分。


 そして。


 誰かを待っている自分。


「……」


 鏡の中の律が、口を開いた。


「外へ出たら、全部失うぞ」


 律は答えない。


「君が今まで作ったものが消える」


「……」


「菜緒も」


「……」


「紗英も」


「……」


「鈴も」


 律の胸が痛む。


「湊も」


「……」


「剛も」


 律は目を閉じた。


「全部、お前が作ったものだ」


「……分かってる」


「だったら、ここにいればいい」


「……」


「失わずに済む」


 律は鏡に近づいた。


「でも」


 鏡の中の自分を見る。


「ここにいる限り、僕はずっと同じだ」


 鏡の律が黙った。


「僕は、彼らを失いたくない」


 律は言った。


「だから、彼らを自分の中へ連れていく」


「……」


「君も」


 鏡の中の自分に向かって言う。


「一緒に来て」


 鏡が震えた。


「逃げなくていい」


 亀裂が広がる。


「怒っていてもいい」


 鏡が割れる。


「怖くてもいい」


 破片が落ちる。


「認められたくてもいい」


 最後の亀裂。


「それでも――」


 律は拳を握った。


「僕が僕であることを、誰かの許可にしない」


 鏡が砕け散った。


 無数の破片が白い世界へ落ちていく。


 しかし、地面に触れる前に光へ変わった。


 その光が律の身体へ戻ってくる。


 胸へ。


 頭へ。


 指先へ。


 全身へ。


 温かい。


 痛い。


 怖い。


 でも。


 確かに自分のものだった。


 女性は律の手を握ったままだった。


「終わったの?」


「いいえ」


「え?」


「始まったのよ」


 彼女の視線の先。


 白い世界の遠くに、一つの道が生まれていた。


 最初は細い線。


 やがてそれは、道路になった。


 その両側に街灯が現れる。


 建物が生まれる。


 信号。


 電柱。


 看板。


 車。


 人影。


 そして――


 雨。


 ポート・オメガの街だった。


 けれど。


 律が知っているポート・オメガとは違った。


 どこか現実的で。


 どこか雑然としていて。


 完璧ではない。


 建物の壁には汚れがある。


 道路にはひび割れがある。


 看板の文字も一部欠けている。


 車のクラクションが鳴る。


 誰かが怒鳴っている。


 犬が吠える。


 遠くで工事音がする。


 あまりにも不完全だった。


 だからこそ――


 生きている。


「……これが」


 律は息を呑む。


「本当のポート・オメガ?」


「そうかもしれない」


「また、それ?」


「だって、私にも全部は分からないもの」


「……そっか」


 律は笑った。


「じゃあ、自分で確かめる」


「ええ」


 彼女が頷いた


 律は一歩、道へ踏み出した。


 その瞬間。


 足元に影ができた。


 自分の影。


 そして、その隣に――


 彼女の影。


 二つ。


 並んでいる。


 律は少しだけ目を細めた。


「……これでいい」


「何が?」


「地図」


「地図?」


「うん」


 律は空を見上げた。


「もう、紙に描く必要はない」


 彼女は微笑む。


「そうね」


「歩いたところが、僕の地図になる」


「ええ」


「間違えたら?」


「戻ればいい」


「迷ったら?」


「立ち止まればいい」


「怖くなったら?」


 女性は律を見る。


「私がいるとは限らないわ」


「……」


 その答えに、律は少し驚いた。


「そういうところだよ」


「何が?」


「君が本物みたいに感じる理由」


 女性は少し笑った。


「なら、怖くなったら自分で立って」


「うん」


「それでも無理なら」


「うん?」


「誰かに助けを求めればいい」


 律は目を見開いた。


「……誰かに?」


「ええ」


「僕が?」


「あなたが」


「助けてって?」


「そう」


 律はしばらく黙っていた。


 それは、彼にとって難しい言葉だった。


 これまでの世界では。


 湊が解決した。


 剛が壊した。


 律自身が逃げた。


 誰かに助けを求める必要がなかった。


 いや。


 本当は。


 求められなかった。


「……助けてって言ってもいいんだ」


「もちろん」


 女性は答えた。


「それも現実だから」


 律は、その言葉を胸の中で何度も繰り返した。


 助けて。


 怖い。


 分からない。


 寂しい。


 失敗した。


 そう言ってもいい。


 完璧じゃなくていい。


「……じゃあ」


 律は息を吸った。


「最初の一歩を、僕一人で完璧に歩く必要もないんだ」


「ええ」


「そっか」


 律は笑った。


「それなら、少しだけ楽だ」


 二人は歩き始めた。


 雨の中を。


 ゆっくりと。


 律は何度も振り返りそうになった。


 けれど、振り返らなかった。


 霧の向こうには、もう何もない。


 古書店も。


 オフィスも。


 工場も。


 それらは消えた。


 けれど。


 消滅したわけではない。


 全部、自分の中に残っている。


 湊の冷静さ。


 剛の強さ。


 そして、かつて逃げ続けた自分。


 それらを抱えたまま。


 今度は前へ進む。


 しばらく歩くと。


 道路の向こうに、小さな交差点が見えてきた。


 信号が赤になる。


 二人は立ち止まった。


 律は信号を見上げる。


「……赤だ」


「そうね」


「止まらないと」


「そうね」


「なんだか」


「うん?」


「変な感じだ」


「何が?」


「前は、世界の信号まで僕が決めてた気がする」


 女性は笑った。


「今は?」


「今は……」


 律は赤信号を見つめた。


「僕の都合では変わらない」


「そうね」


「でも」


 律は笑った。


「それが嬉しい」


 やがて信号が青になった。


 律は一歩進む。


 そのとき。


 遠くから車が走ってきた。


 律は反射的に足を止めた。


「……危ない」


 女性が律の腕を掴む。


 車が目の前を通り過ぎる。


 風が二人の髪を揺らした。


「……」


 律は呆然とした。


 心臓が激しく鳴っている。


「今の」


「ええ」


「本当に危なかった」


「そうね」


 律は息を吐いた。


 そして――


 笑った。


「……怖い」


「うん」


「でも」


 律は自分の胸に手を当てる。


「ちゃんと、生きてる」


 女性は何も言わなかった。


 ただ、少しだけ笑った。


 その夜。


 ポート・オメガの街に、静かな雨が降り続いていた。


 律は見知らぬ通りを歩いていた。


 どこに向かっているのかは分からない。


 けれど、以前とは違う。


 今は。


 分からないことを、分からないまま受け入れられる。


 そのとき。


 ポケットの中に何かが触れた。


「……?」


 律は手を入れる。


 何もないはずだった。


 けれど。


 一枚の紙が入っていた。


「……これ」


 取り出す。


 白い紙。


 何も描かれていない。


 しかし。


 紙の端に、一つだけ文字があった。


 ――Ω。


 律は眉を寄せた。


「……オメガ?」


 その瞬間。


 背後から、声がした。


「それ、まだ持ってたの?」


 律が振り返る。


 誰もいない。


「……?」


 今の声。


 女性ではなかった。


 湊でもない。


 剛でもない。


 そして――


 自分でもない。


 律は周囲を見回した。


 雨。


 街灯。


 濡れた道路。


 誰もいない。


「……誰?」


 返事はなかった。


 ただ。


 遠くのビルの屋上。


 一瞬だけ。


 白い傘が見えた。


 律は目を凝らした。


 だが、次の瞬間には消えていた。


「……」


 紙を握る。


 胸の奥がざわつく。


 第四の鼓動。


 あの地下施設。


 第四人格。


 白い傘。


 まだ何かが残っている。


 律はそれを感じていた。


 けれど。


 今は追わなかった。


「……一つずつでいい」


 そう呟いた。


 紙をポケットへ戻す。


「まずは、この街を知ろう」


 律は歩き出した


 同じ頃。


 ポート・オメガ地下深部。


 白い施設の奥。


 一つのモニターに、新しい表示が出ていた。


『人格統合率――81%』


『現実認識――57%』


『虚構維持率――0%』


『脚本――消失』


『安全箱――解除』


 そこまでは、順調だった。


 しかし。


 その下に。


 新しい文字が表示される。


『第四因子――接触可能領域へ移行』


 さらに。


『対象――白石律』


 そして。


『接触者――未確定』


 画面が点滅する。


 その瞬間。


 施設の奥で、四つ目の椅子がゆっくりと回転した。


 誰も座っていない。


 それなのに。


 椅子の上には、一滴の水が落ちた。


 雨水だった。


 次の瞬間。


 椅子の隣に、白い傘が立てかけられている。


 そして。


 誰もいないはずの部屋から。


 少女の声がした。


「……やっと、外へ出た」


 モニターが一斉に切り替わる。


『WHITE REALITY』


『PHASE 1――COMPLETE』


『PHASE 2――START』


 最後の一行。


『現実世界との接続を開始します』


 暗転。


 翌朝。


 律は目を覚ました。


 窓から差し込む光を見つめる。


 昨日までとは違う。


 何かが違う。


 けれど。


 それが何なのかは、まだ分からない。


 律はベッドから起き上がる。


 鏡を見る。


 そこには、自分が映っていた。


 以前なら。


 その鏡に湊が映った。


 剛が映った。


 知らない誰かが映った。


 今は――


 白石律。


 ただ一人。


「……」


 律は鏡に近づいた。


 そして。


 そっと笑った。


「おはよう」


 鏡の中の自分も笑う。


「……今日は、どこへ行こうかな」


 答えはない。


 それでいい。


 律は服を着る。


 靴を履く。


 ドアを開ける。


 外へ出る。


 朝のポート・オメガが広がっていた。


 人が歩いている。


 車が走っている。


 店が開く。


 誰かが笑っている。


 誰かが怒っている。


 誰かが泣いている。


 誰も律のことを知らない。


 誰も律の役割を決めていない。


 誰も律に正解を教えてくれない。


 それは――


 以前なら、恐怖だった。


 今は違う。


 律は道路の先を見た。


 その先には、まだ知らない街がある。


 知らない人。


 知らない場所。


 知らない未来。


 白紙。


 律は一歩踏み出した。


「……行こう」


 誰に言うでもなく。


 自分自身に向けて。


「僕の明日へ」


 その足跡は。


 今度は消えなかった。


 雨上がりの道路に、確かな靴跡が残っている。


 一歩。


 また一歩。


 その後ろには、歩いてきた証が続いている。


 律はそれを見なかった。


 ただ前を向いて歩いた。


 白紙だった世界に。


 初めて。


 自分自身の意思で。


 一本の線を刻みながら。


 その線は地図ではない。


 逃げ道でもない。


 誰かが用意した脚本でもない。


 生きた人間が歩いた跡だった。


 だから。


 曲がってもいい。


 間違ってもいい。


 途切れてもいい。


 また始めればいい。


 そのすべてが。


 白石律の人生になる。


 そして――


 彼はまだ知らない。


 その最初の一歩を。


 遠くから見つめている存在がいることを。


 白い傘の下。


 一人の少女が。


 静かに微笑んでいる。


「……今度こそ」


 少女は呟いた。


「あなた自身の言葉で、私の名前を呼んで」


 雨が止んだ。


 雲の切れ間から、朝の光が差し込む。


 ポート・オメガの中心。


 巨大なガントリークレーンが、ゆっくりと動き始めた。


 その警告灯が一つ。


 二つ。


 三つ。


 そして――


 四つ目。


 赤い光が点灯する。


 ドクン。


 ドクン。


 ドクン。


 ドクン。


 四つの鼓動が重なった。


 その瞬間。


 律は足を止めた。


 何かを感じた。


 振り返る。


 誰もいない。


 ただ。


 遠くの道路の向こうに。


 白い傘が見えた。


 律は目を細める。


 少女の姿が、一瞬だけ見えた。


 そして。


 少女は、口を動かした。


 声は届かなかった。


 けれど。


 律には、なぜか分かった。


 ――また会おう。


 律は微笑んだ。


「うん」


 小さく頷く。


「また会おう」


 少女の姿が霧の中へ消えていく。


 律は前を向く。


 歩き出す。


 もう、地図はない。


 脚本もない。


 安全な箱もない。


 あるのは。


 自分自身と。


 白紙の未来。


 それだけだった。


 けれど。


 それだけで十分だった。


 なぜなら。


 白紙とは。


 何もないという意味ではない。


 まだ、何も決まっていないという意味なのだから。


 だから律は。


 その白紙を恐れない。


 今日という一日を。


 自分の足で歩く。


 明日という一日を。


 自分の意思で選ぶ。


 そして。


 いつか振り返ったとき。


 そこに残っている無数の足跡を見て。


 初めて思うのだろう。


 ――僕は、確かにここにいた。


 それが。


 白石律にとっての。


 本当の地図になる。


 そして、その地図の最初の一行には――


 こう記される。


 「僕は、僕として歩き始めた」

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