第1話 失われた記憶と、女神の導き
第1話 失われた記憶と、女神の導き
意識が、白く霞む視界の中で揺れていた。
何かを見ている。
そう思った。
けれど、何を見ているのかが分からない。
目の前には、人がいる。
たくさんの人。
笑っている者。
急いでいる者。
誰かと電話をしている者。
小さな子供の手を引いて歩いている母親。
信号を待つサラリーマン。
雑踏。
車のエンジン音。
遠くから聞こえるクラクション。
そして、何よりも不思議だったのは――。
その光景を見ている自分自身が、何者なのか分からないことだった。
名前は?
年齢は?
住んでいる場所は?
家族は?
友人は?
仕事は?
何も思い出せない。
まるで、自分という存在だけが、世界から切り離されてしまったようだった。
それでも足は動いていた。
人の流れに合わせるように、男は歩いている。
目的地があるのか。
誰かを待っているのか。
それすら分からない。
ただ、歩いていた。
その時だった。
――ボールが転がってきた。
ころころ、と。
白いボールが歩道を横切り、車道との境目へ向かって転がっていく。
男の視線が自然とそれを追った。
「……?」
そして。
小さな影が見えた。
一人の少女だった。
まだ幼い。
十歳にも満たないだろう。
少女はボールを追いかけていた。
周囲を見ていない
車道の向こう側にいる母親らしき女性が、必死に叫んでいる。
「危ない!」
けれど。
少女は止まらなかった。
一歩。
また一歩。
そして――。
車道へ飛び出した。
その瞬間。
世界の時間が、奇妙なほどゆっくりになった。
迫ってくる大型車。
眩しいヘッドライト。
運転手の驚愕した顔。
少女の小さな背中。
伸ばされた手。
叫び声。
全てが、異様なほど鮮明に見えた。
男には考える時間などなかった。
いや。
考えるという行為そのものが、必要なかった。
体が先に動いた。
「――っ!」
男は少女へ向かって走った。
腕を伸ばす。
少女の背中を掴む。
そして、全力で突き飛ばした。
少女の身体が歩道へ転がる。
その直後。
男自身が車道へ飛び出した。
視界いっぱいに、巨大な車体が迫る。
逃げることはできない。
足が止まる。
いや。
もう、間に合わない。
――ドンッ!
凄まじい衝撃が身体を貫いた。
身体が宙へ浮く。
何かが折れる音がした。
肺から空気が一気に吐き出される。
世界が回転する。
空。
建物。
道路。
少女。
そして、青い空。
次の瞬間。
背中からアスファルトへ叩きつけられた。
痛い。
そう感じた。
けれど、その痛みすら長くは続かなかった。
身体の感覚が急速に遠ざかっていく。
音が消える。
光が消える。
そして――。
何もなくなった。
どれほどの時間が経ったのか。
分からない。
男は暗闇の中を漂っていた。
いや。
暗闇ですらない。
そもそも、自分がどこにいるのか分からない。
身体がない。
手もない。
足もない。
目もない。
それなのに、意識だけは存在している。
不思議な感覚だった。
死んだ。
なぜか。
それだけは分かった。
自分は死んだ。
少女を助けて。
そして――。
そこで記憶が途切れている。
その事実に、不思議と恐怖はなかった。
むしろ。
妙な安心感があった。
自分は、最後に何かを守った。
それだけは確かだったからだ。
すると。
暗闇の向こうから、一筋の光が差し込んだ。
最初は小さな光だった。
それが徐々に広がっていく。
白。
銀。
黄金。
無数の光が重なり、やがて世界そのものを覆い尽くしていく。
そして男の意識は――。
光の中へ浮かび上がった。
「……ここは?」
声が出た。
自分の声を聞くのは、いつ以来なのだろう。
男は自分の手を見る。
ちゃんとある。
足もある。
身体もある。
ただし。
何も身につけていない。
白い光だけが広がる空間。
床も天井もない。
どこまでも続く純白の世界。
その中心に。
一人の女性が立っていた。
長い銀白色の髪。
淡い光を宿した白い衣。
その背後には巨大な光輪が浮かんでいる。
瞳は黄金。
美しいという言葉だけでは足りない。
人間の美しさとは、どこか違う。
そこに存在しているだけで、空間そのものが彼女を中心に形作られているようだった。
男は思わず息を呑んだ。
「……あなたは?」
女性は静かに微笑んだ。
「私は、あなたたちの世界で女神と呼ばれる存在です」
「女神……」
「ええ」
女神は男を見つめる。
その視線には、哀れみとも慈愛とも取れる不思議な優しさがあった。
「あなたの魂は、長い旅を終えました」
「……俺は、死んだのか?」
「はい」
あまりにもあっさりと告げられた。
男は自分の胸元を見る。
当然、傷はない。
しかし。
あの衝撃だけは、まだ身体の奥に残っているような気がした。
「そうか……」
不思議だった。
もっと取り乱すと思っていた。
もっと怖がると思っていた。
けれど。
心の中は静かだった。
「少女は……?」
最初に出てきた言葉は、それだった。
女神の表情が少しだけ柔らかくなる。
「助かっています」
「……そうか」
男は目を閉じた。
胸の奥から、力が抜けていく。
「よかった……」
それだけで十分だった。
女神はそんな男をしばらく見つめていた。
「あなたは最後まで、自分のことを考えませんでしたね」
「……そうだったのか?」
「はい。あなたは死の直前、自分が助かる可能性を一度も考えませんでした」
男は苦笑した。
「そんなこと……考える暇なかっただけだよ」
「それでも、です」
女神は一歩近づく。
「あなたの魂は、とても不思議です」
「不思議?」
「多くの魂は、死を迎えると強い後悔を抱きます。もっと生きたかった。あれをしたかった。あの人に会いたかった――と」
女神は少しだけ視線を伏せた。
「ですが、あなたには、それがほとんどありません」
「……」
「最後に誰かを救えた。それだけで満足している」
「……たぶん」
男は自分でも驚くほど自然に答えた。
「なら……いいんじゃないか?」
女神が微笑んだ。
「だからこそ、私はあなたに選択肢を与えます」
「選択肢?」
「はい」
女神が右手を掲げる。
すると。
白い空間に、巨大な円形の光が現れた。
その中には、見たこともない世界が映し出されている。
広大な草原。
巨大な城。
空を飛ぶ魔物。
剣を手に戦う冒険者。
炎を放つ魔法使い。
そして。
巨大な迷宮。
「あなたには、もう一度生きる道があります」
「転生……ってやつか?」
「その通りです」
男は映像を眺めた。
異世界。
そう呼ぶのが一番近い。
「俺が、ここで?」
「ええ」
「どうして俺なんだ?」
「偶然、と言ってしまえばそれまでです」
女神は答えた。
「しかし、世界には時として、偶然では説明できない巡り合わせが存在します」
「巡り合わせ……」
「あなたの魂は、別の世界へ導かれることになりました」
男はしばらく黙っていた。
そして。
「……分かった」
「即答ですか?」
「死んだんだろ? だったら、もう一度生きられるなら、そのほうがいい」
女神は微笑む。
「では、最後に一つ」
「何?」
「転生する際、何か望むものはありますか?」
その言葉に。
男は黙り込んだ。
力。
金。
地位。
不死。
そんなものを望むこともできるのだろう。
しかし。
何かが引っかかった。
自分には、何かが欠けている。
名前すら思い出せない。
自分がどんな人生を送っていたのかも分からない。
死ぬ直前の出来事以外。
何も。
だから。
男はゆっくりと口を開いた。
「記憶を……」
「記憶?」
「失った記憶が欲しい」
女神の黄金の瞳が僅かに見開かれた。
「……前世の記憶を?」
「ああ」
「それは……」
女神は珍しく言葉を詰まらせた。
「驚きました」
「変か?」
「ええ。かなり」
女神は小さく笑った。
「転生とは、本来、過去を捨てて新しい人生を始めるためのものです」
「そうなのか」
「前世の記憶は、魂の負担となります。だから通常は封じられる」
「それでも欲しい」
「なぜ?」
男は少し考えた。
そして。
「……自分が誰だったのか知りたい」
それが答えだった。
「何をして生きて、何を好きになって、誰と出会って、何を大切にしていたのか」
男は自分の胸に手を当てる。
「何も知らないまま生まれ変わるのは……なんとなく嫌なんだ」
女神は静かに男を見つめた。
やがて。
「分かりました」
その声には、どこか嬉しそうな響きがあった。
「あなたの願いを叶えましょう」
女神が手を伸ばす。
細く白い指先が、男の額に触れた。
瞬間。
「――っ!」
世界が弾けた。
光。
音。
匂い。
感情。
無数の情報が、一気に流れ込んでくる。
幼い頃。
学校。
家。
友人。
試験。
アルバイト。
笑い声。
ゲーム。
コンビニ。
夜更かし。
パソコン。
スマートフォン。
そして――。
一つのタイトル。
『クロニクル・オブ・エターナル』
それを見た瞬間。
男の意識が大きく揺れた。
「……あ……」
思い出す。
自分の名前。
自分の人生。
自分が最後まで熱中していたゲーム。
その全てが戻ってくる。
「俺は……」
男は呟いた。
「正春……」
それが自分の名前だった。
正春。
それまで忘れていた名前。
けれど今は、はっきりと分かる。
自分は正春という人間だった。
そして。
最後の日。
仕事から帰ってきた正春は、いつものようにゲームを起動していた。
『クロニクル・オブ・エターナル』
剣と魔法のファンタジーRPG。
広大な世界を旅し、魔王を倒す。
それだけなら、よくあるゲームだった。
だが、このゲームには大きな特徴があった。
――五人パーティー。
プレイヤーキャラクター一人。
そして四人のヒロイン。
四人の仲間はNPC。
それぞれが異なる人格、過去、能力、価値観を持っている。
戦闘だけではない。
彼女たちとの会話。
選択肢。
好感度。
イベント。
仲間同士の関係。
場合によっては、誰か一人を選ぶことで他のイベントが消滅することもある。
正春は、そのゲームをやり込んでいた。
特に。
四人のヒロインが好きだった。
剣士。
魔法使い。
聖女。
盗賊。
それぞれ全く違う性格。
それぞれに違う人生。
それぞれに叶えたい願いがあった。
正春は何度もゲームをクリアした。
通常ルート。
隠しルート。
真エンド。
バッドエンド。
全て見た。
そして死ぬ直前も。
ゲームをプレイしていた。
その記憶が戻った瞬間。
正春の表情が変わった。
「……まさか」
女神を見る。
「この世界って……」
「お気づきになりましたか?」
女神は答えなかった。
ただ。
意味ありげに微笑んだ。
「俺がプレイしていたゲームの……」
言葉が続かない。
「……世界なのか?」
「それについては、あなた自身の目で確かめてください」
「女神様……」
「はい」
「何か知ってるだろ」
女神は笑った。
「さあ?」
「絶対知ってるだろ」
「ふふ」
その笑みを見て。
正春は確信した。
この女神。
絶対に何か知っている。
しかし、問い詰める暇はなかった。
足元に巨大な魔法陣が浮かび上がる。
「時間です」
「え?」
「あなたの新しい人生が始まります」
光が強くなる。
「待ってくれ!」
「心配する必要はありません」
「いや、そうじゃなくて!」
正春は叫ぶ。
「ゲームの世界なら、あの四人は――!」
「きっと、あなたを待っています」
女神の声が響いた。
「ですが」
その声だけが、やけに鮮明に聞こえた。
「あなたが知っている物語と、この世界の物語は同じとは限りません」
「……どういう意味だ?」
「それは――」
女神は微笑む。
「あなた自身で見つけてください」
次の瞬間。
世界が白い光に包まれた。
「……ん」
最初に感じたのは、匂いだった。
土。
木材。
香辛料。
そして。
馬糞。
「……最悪だ」
正春は目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、青い空だった。
雲が流れている。
鳥が飛んでいる。
太陽が眩しい。
正春はゆっくりと身体を起こした。
「……生きてる」
手を握る。
指が動く。
足も動く。
胸に手を当てる。
心臓が鼓動している。
「本当に……転生したのか」
周囲を見る。
そこには。
石畳の広場が広がっていた。
木製の屋台。
露店。
果物。
パン。
肉。
薬草。
武器。
防具。
様々な商品が並んでいる。
行き交う人々の服装も現代とは全く違う。
布の服。
革鎧。
ローブ。
腰に剣を下げた冒険者。
魔法使いらしき女性。
そして。
馬車。
馬車が普通に道路を走っている。
「……異世界だ」
思わず呟いた。
けれど。
驚きはそれだけではなかった。
正春は広場の向こう側を見た。
巨大な建物。
城壁。
塔。
そして――。
巨大な時計塔。
「……」
見覚えがある。
ありすぎる。
ゲームのオープニングで何度も見た景色。
最初の街。
初心者が最初に訪れる場所。
冒険者登録をする街。
そして。
物語が始まる場所。
「……フォルトック」
口から自然に名前が出た。
正春は息を呑む。
「やっぱり……」
フォルトック。
ゲーム内では、かつて巨大な砦だった場所を中心に発展した城塞都市として設定されていた。
魔王領から遠く離れているため比較的平和。
しかし、東の森には低級魔物が出現する。
南には鉱山。
北には交易路。
西には王都へ続く街道。
冒険者が集まりやすく、ゲーム開始地点として非常に都合のいい街だった。
正春はゆっくり立ち上がった。
「……本当に、ゲームの世界だ」
胸の鼓動が速くなる。
だが。
すぐに違和感が生まれた。
「……待て」
正春は周囲を見回す。
「ゲームと……違う?」
確かにフォルトックだ。
建物の位置。
時計塔。
市場。
城壁。
大通り。
ほぼ間違いない。
しかし。
細部が違っている。
ゲームでは存在しなかった小さな店。
知らない人物。
見たことのない看板。
ゲームではNPCとして配置されていなかった子供たち。
そして。
何より。
人々が生きている。
当たり前のことなのに。
ゲームでは感じられなかったものが、ここにはあった。
パン屋から漂う焼きたての匂い。
市場の商人が客と値段を交渉する声。
子供たちの笑い声。
鍛冶屋から響く金属音。
馬の鳴き声。
風に揺れる旗。
全てがリアルだった。
「……ゲームじゃない」
正春は呟いた。
「ゲームの世界を再現した……別の世界だ」
その瞬間。
背筋に冷たいものが走った。
もしそうなら。
ゲームの知識は、完全な攻略法ではない。
あくまで参考にしかならない。
そして。
もう一つ。
正春には重要な問題があった。
「……俺、金ないじゃん」
ポケットを探る。
当然、何もない。
財布もない。
スマートフォンもない。
身分証もない。
所持品ゼロ。
「……転生させるなら、せめて初期装備くらいくれよ」
女神に文句を言いたくなった。
だが。
ふと。
腰に何かがあることに気づいた。
「……?」
手を伸ばす。
そこには一本の短剣があった。
鞘は古い。
装飾もない。
見るからに安物だ。
正春は抜いてみる。
刃は鈍い。
「これだけ?」
苦笑する。
すると。
頭の中に奇妙な感覚が走った。
――正春。
「……?」
声。
いや。
声ではない。
記憶だった。
ゲーム開始時の主人公が持っていた初期装備。
名もなき短剣。
攻撃力三。
売却価格二十ゴールド。
正春は思わず笑った。
「本当にゲームそのままじゃん」
しかし。
笑いながらも。
心の奥では妙な興奮が膨らんでいた。
自分は今。
かつて何百時間も遊んだ世界にいる。
画面の向こう側だった世界。
攻略情報を調べ。
イベントを覚え。
何度も繰り返した世界。
そして。
そこには――。
あの四人がいる。
正春は時計塔を見る。
「……四人」
四人のヒロイン。
彼女たちは、この街から始まる物語の中で正春と出会う。
少なくともゲームでは。
一人目。
王国騎士団に所属する少女。
剣の才能に恵まれながらも、ある理由から周囲に心を閉ざしていた。
二人目。
魔法学院を追放された天才魔術師。
三人目。
神殿に仕える聖女。
そして四人目。
裏社会で生きる盗賊の少女。
ゲームでは。
この四人と主人公が出会い。
五人でパーティーを組む。
そして。
世界を救う旅へ向かう。
「……俺が主人公なのか」
正春は自分の胸に手を当てた。
ゲームでは名前を自由に設定できた。
正春はいつも、自分の名前をそのまま入力していた。
だから。
主人公の名前も――。
正春。
「……笑えるな」
ゲームでは自分が操作していた。
けれど。
今は自分自身が、その主人公になっている。
正春は広場を歩き始めた。
まずは情報収集。
ゲームの知識が正しいのか確認する必要がある。
最初に向かったのは冒険者ギルドだった。
ゲームと同じ場所にある。
木造の大きな建物。
入口には剣と盾の紋章。
中へ入ると。
「いらっしゃい!」
受付嬢の声が響いた。
正春は足を止めた。
この受付嬢も知っている。
ゲームでは最初のチュートリアルを担当するNPC。
名前は――。
「……ミレイア」
「はい?」
受付嬢が首を傾げた。
「私の名前をご存じなんですか?」
「あ……」
しまった。
正春は慌てて笑う。
「いや……その……どこかで聞いた気がして」
「そうですか?」
受付嬢は不思議そうな顔をした。
しかし。
それ以上追及はしなかった。
「冒険者登録をご希望ですか?」
「ああ」
「では、こちらに手を置いてください」
差し出されたのは、青い水晶だった。
正春が触れる。
水晶が光る。
「魔力反応……微弱」
「……」
「身体能力……平均的」
「……」
「特別な才能……」
受付嬢が首を傾げる。
「……表示されませんね」
「え?」
「申し訳ありません。測定器が古いのかもしれません」
正春は内心で冷や汗をかいた。
ゲームでは主人公には初期スキルが存在する。
だが。
今の自分には。
ステータス画面すらない。
「……まさか」
正春は手を見た。
転生者特典。
女神の加護。
チート能力。
そういうものを期待していた。
しかし。
何もない。
「……普通の人間?」
女神は何も与えていない。
いや。
正春は思い出す。
女神が与えたもの。
――記憶。
それだけだった。
「……なるほど」
正春は小さく笑った。
別に構わない。
自分にはゲームの知識がある。
世界の構造。
魔物。
ダンジョン。
イベント。
隠しアイテム。
それらを知っている。
それだけでも十分な武器になる。
……少なくとも。
そう思っていた。
ギルドを出た正春は、街を歩きながら記憶を整理した。
物語の開始地点。
フォルトック。
ゲームでは主人公が十八歳の時に冒険者となる。
そして。
最初のイベントが起きる。
――東の森で少女を救う。
その少女こそ。
一人目のヒロイン。
「……待て」
正春は立ち止まった。
「年齢は?」
ゲーム開始時の主人公は十八歳。
しかし。
今の自分の身体は。
十代半ばほどに感じる。
近くの店の窓に映る姿を見る。
黒い髪。
黒い瞳。
細身の身体。
顔立ちは、前世の自分より若い。
「……十六くらいか?」
どうやらゲーム開始時より少し前の時間らしい。
つまり。
まだ物語が始まっていない。
「だったら……」
正春の心臓が高鳴った。
「四人とも、まだ出会ってない」
ならば。
自分が先に会える。
ゲームでは決められていた出会い。
決められていた会話。
決められていたイベント。
それを。
自分の手で変えられるかもしれない。
正春は拳を握った。
「……面白い」
しかし。
その直後だった。
――ドンッ。
「きゃっ!」
誰かとぶつかった。
「悪い!」
正春が振り返る。
そこにいたのは。
一人の少女だった。
赤い髪。
腰まで届く長い髪を、左右で結んでいる。
大きな瞳。
まだ幼さの残る顔。
腰には短剣。
そして。
正春はその顔を知っていた。
ゲームでは。
最初の仲間ではない。
ヒロインでもない。
ただの街のNPCとして一度だけ登場する少女。
――のはずだった。
「……」
少女が正春を見る。
「……あんた」
「え?」
「どこかで見たことある」
正春は息を止めた。
「俺を?」
「うん」
少女は首を傾げる。
「でも……変ね」
「何が?」
「初めて会った気がしない」
その言葉に。
正春の背中を冷たい汗が伝った。
ゲームには存在しなかった台詞。
NPCには存在しなかった反応。
つまり。
この世界は。
やはり。
ゲームとは違う。
少女は笑った。
「まあいいや。それより――」
彼女は正春の手にある短剣を見た。
「冒険者?」
「ああ」
「へえ」
少女は楽しそうに笑う。
「じゃあ、いつか一緒に冒険しようよ」
「……え?」
「じゃあね!」
少女は走っていった。
正春はその背中を見送った。
「……なんなんだ、今の」
胸の奥に、奇妙な感覚が残る。
まるで。
世界そのものが。
正春の知っているシナリオから、少しずつ外れ始めているようだった。
その夜。
正春は安宿の小さな部屋で、一人ベッドに横になっていた。
窓から時計塔が見える。
針は深夜を指している。
静かな街。
昼間とは違う。
魔法の街灯が淡く輝き、石畳を照らしている。
正春は天井を見つめる。
「……女神」
呟く。
「本当に、俺をこの世界に送ったのか?」
返事はない。
当然だ。
けれど。
正春には分かっていた。
これは偶然ではない。
女神は何かを知っている。
そして。
自分がこの世界に来た理由も。
きっとある。
「……四人を探す」
正春は決めた。
まずは一人目。
ゲームでは。
彼女との出会いは三日後。
東の森。
魔物に襲われているところを主人公が助ける。
それが最初のイベント。
「三日後……」
正春は指を三本立てる。
「なら、それまでに準備する」
武器。
防具。
食料。
冒険者登録。
そして。
情報。
ゲームでは最初のダンジョン攻略までに必要な情報も全て知っている。
だから。
自分なら。
もっと早く強くなれる。
正春は目を閉じた。
その瞬間。
頭の中に女神の言葉が蘇った。
『あなたが知っている物語と、この世界の物語は同じとは限りません』
「……」
正春は目を開けた。
「分かってるよ」
窓の外を見る。
時計塔。
その向こうに広がる夜空。
「だから、面白いんだろ」
かつて画面の中にいた世界。
かつて攻略した物語。
かつて何度も救った仲間たち。
けれど。
ここでは違う。
彼女たちはNPCではない。
生きている。
笑う。
泣く。
怒る。
傷つく。
そして。
死ぬかもしれない。
「……だったら」
正春は拳を握った。
「今度は、俺が守る」
前世では。
最後に一人の少女を救った。
それが人生最後の記憶だった。
なら。
この新しい人生では。
もっと多くの人を救ってみたい。
そんな気持ちが芽生えていた。
三日後。
フォルトック東門。
朝日が昇る。
正春は一人、森を見つめていた。
背中には小さな荷物。
腰には新しく買った剣。
まだ安物だ。
それでも。
以前の短剣よりは遥かにマシだった。
「行くか」
門を抜ける。
森へ。
ゲームでは何度も訪れた場所。
けれど。
現実の森は違った。
風が吹く。
葉が揺れる。
鳥が鳴く。
土を踏む感触。
遠くから聞こえる獣の声。
全てが生々しい。
正春は慎重に歩いた。
ゲームなら。
ここで最初のイベントが起きる。
そして。
森の奥から。
「……聞こえた」
悲鳴。
正春は走り出した。
「誰かいるのか!」
木々の間を抜ける。
そこには。
一人の少女がいた。
金色の髪。
白銀の鎧。
手には長剣。
複数の魔物に囲まれている。
「……っ!」
正春は息を呑んだ。
知っている。
この少女を。
ゲームの中で。
何百回も見た。
何度も一緒に戦った。
何度も彼女のイベントを見た。
そして。
彼女は。
四人のヒロインの一人。
最初の仲間。
正春は剣を抜いた。
「――そこをどけ!」
少女が振り返る。
驚いたように目を見開く。
「あなたは……?」
正春は笑った。
「助けに来た」
魔物が一斉に振り向く。
唸り声。
牙。
爪。
ゲームでは簡単な敵だった。
けれど。
現実では。
命を奪う獣だ。
正春は剣を構えた。
手が震える。
怖い。
当然だ。
前世では戦ったことなどない。
それでも。
逃げるつもりはなかった。
なぜなら。
目の前にいる少女は。
いつか自分の仲間になるはずの存在だから。
「……絶対に」
正春は呟く。
「死なせない」
その言葉に。
少女が目を見開いた。
「……私を?」
「ああ」
「どうして……?」
正春は答えなかった。
答えられなかった。
だって。
彼女のことを知っているなんて。
今は言えるはずがない。
正春は剣を握り直した。
そして。
一歩前へ出る。
「行くぞ!」
魔物が襲いかかる。
少女が剣を構える。
二人の間に。
一瞬だけ視線が交わった。
それは。
ゲームの中では存在しなかった瞬間だった。
決められたイベントでもない。
攻略チャートにも載っていない。
誰かに操作されたものでもない。
正春自身が選んだ一歩。
その一歩が。
世界の物語を変え始めていた。
そして。
まだ誰も知らない。
この出会いが。
後に世界の運命そのものを大きく変えることを。
正春が知っている物語では。
四人のヒロインは。
それぞれ別々の場所で。
それぞれの運命を背負っていた。
剣士は。
守れなかった過去を抱えていた。
魔術師は。
才能を妬まれ、居場所を失っていた。
聖女は。
神に仕える使命と、自分自身の願いの間で苦しんでいた。
盗賊は。
誰も信じないことで、自分を守っていた。
ゲームでは。
主人公である正春が彼女たちを救う。
そして。
彼女たちは正春と共に世界を救う。
それが物語だった。
だが。
今は違う。
ここにいる彼女たちは。
NPCではない。
ただのキャラクターでもない。
一人の人間だ。
自分の意思で生きる。
自分の意思で選ぶ。
そして。
自分の意思で運命を変える。
正春も同じだ。
彼はもうプレイヤーではない。
画面の外から世界を見る存在ではない。
この世界に生きる、一人の人間だ。
だから。
もし物語が変わるなら。
最後まで。
自分の手で変えてみせる。
女神が何を知っているのか。
なぜ自分が転生したのか。
なぜ記憶を取り戻させられたのか。
そして。
この世界がゲームとどこまで同じで、どこから違うのか。
その答えは。
まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなことがある。
正春は。
再び歩き始めた。
今度こそ。
自分自身の人生を生きるために。
そして。
画面の向こう側にいた四人の少女と。
まだ見ぬ仲間たちと。
五人で始まる。
新しい物語のために。
――これは。
一度死んだ男が。
ゲームの世界へ転生し。
かつて自分が操作していた仲間たちと出会い。
決められていた運命を塗り替えていく物語。
その最初の一歩である。
――そして。
誰も知らないところで。
白い光の世界に残された女神は。
一人、静かに微笑んでいた。
「……ようやく始まりましたね」
黄金の瞳が。
遠く離れた世界を見つめる。
「正春」
その声は。
誰にも届かない。
「あなたが選ぶ未来を……私は見届けましょう」
女神の背後。
無限の光の中で。
一瞬だけ。
巨大な黒い影が揺らめいた。
「……ただし」
女神の笑みが消える。
「あなたの知っているゲームには、存在しなかったものもあります」
黒い影が消える。
何事もなかったかのように。
世界は再び静寂に包まれた。
「五人の運命が交わる時――」
女神は静かに目を閉じる。
「本当の物語が始まるでしょう」
そして。
フォルトックの森では。
正春と一人の少女が。
初めて共に剣を振るっていた。
それが。
新たな五人の物語の。




