第49話
ギルド前の広場は、昨日とは違う騒がしさだった。
討伐隊が帰ってきた時ほど人で埋まってはいない。けれど、昨日の名残はまだある。ギルドの扉の近くでは職員たちが慌ただしく出入りしているし、通りを歩く人たちの話し声にも、レザルヴァン討伐という言葉が混じって聞こえた。
俺は広場の端で、荷物を肩にかけ直した。
しっかり眠ったはずなのに、体はまだ重い。腕や足の痛みも、寝て起きたら消えるようなものではなかったらしい。けれど、昨日みたいに歩きながら寝そうになるほどではない。
「おはようございます、コウイチ様」
先に来ていたミリアが、こちらへ頭を下げた。
そのそばには、ミリアの父親と母親、それからアレンもいる。父親は荷物のそばに立ち、母親は布包みを手に持っていた。
「おはよう。早いな」
「農場へ戻る日ですから」
ミリアはそう言って、少しだけ笑った。
「お前ら、ちゃんと来てたか」
ギルドの扉の方から、グラウスの声がした。
振り向くと、グラウスが細長い布包みを片手に持って歩いてくる。昨日より顔色はよくなっていて、歩き方もかなり普通に戻っていた。
ただ、完全に元通りではない。動きの一部が重い。
その後ろでフィーアが目を細めていた。
「ちゃんと来てたか、じゃないわよ。あなたが一番遅いじゃない」
「用事があったんだよ」
エイルも少し遅れてギルドから出てきた。杖を抱え、眠そうではあるが、昨日より足取りはしっかりしている。
「揃ったな。で、コウイチ」
グラウスが俺を見た。
「はい?」
「受け取れ」
そう言うなり、グラウスは持っていた布包みをこちらへ放った。
「うわっ」
慌てて両手で受け止める。
思ったより重かった。布越しでも、中身がただの棒ではないことはすぐに分かる。
「なんだ、これ」
「剣だよ。見りゃ分かるだろ」
「いや、それは分かるが」
布を少し開く。
中に入っていたのは、一本の剣だった。
新品ではない。柄には使い込まれた跡があり、鞘にも細かな傷がある。けれど、俺が最初に買った初心者用の剣とは見た目からして違った。装飾はないが、手に持った時の重さがしっかりしている。
「さっき、ギルドの貸金庫から出してもらった。俺が昔使ってたやつだ。お前にやるよ」
グラウスは横を向きながら言った。
「昔使ってたって……そんな大事そうなもの、もらっていいのか?」
「置いてただけだだしな」
「でも」
「お前の剣、折れただろ?」
それを言われて、荷物の中に入れている折れた剣のことを思い出した。
布に包んで、荷物の底に入れてある。持ってはいるが、今は出していない。出したところで、もう武器にはならない。
「丸腰でうろうろされても面倒だしな」
俺が訝しんでグラウスを見つめていると、グラウスは少しだけ口を曲げた。
「……礼だよ」
「礼?」
「助けられた礼。いちいち言わせんな」
声は小さかった。
ぼそぼそと、面倒そうに言っただけだった。
俺は布の中の剣を見る。急に、手の中にある剣の重さが変わった気がした。
「ありがとう」
「礼を言うのはこっちだろ」
「いや、これは普通にありがたい」
「なら受け取っとけ」
グラウスはそれで話は終わりだというように、ミリアたちの方へ向き直った。
フィーアが小さく笑っている。
「分かりにくいけど、ちゃんとお礼なのよ」
「言わなくていい」
「そういうところよ」
「伝わってるだろ」
グラウスは面倒そうに頭をかいた。
俺は剣をもう一度布で包み直し、荷物の横へ固定した。
「では、行きましょうか」
ミリアが言った。
声は落ち着いていた。けれど、その目はリューベールの門の方を向いている。
俺たちは、ヴェルデン農場へ向かった。
***
農場は、静かだった。
前に来た時は、家畜小屋の鳴き声や、動物が動く音が混じっていた。昼に家の中へ呼ばれた時も、外には農場特有の気配があった。
でも今は、それがない。
土の匂いはする。乾いた風も吹いている。けれど、そこに生き物の声が混じらないだけで、同じ場所とは思えない。
柵は何箇所も折れていた。
地面に倒れた杭。外れた板。泥のついた縄。畑の畝は崩れ、まっすぐだったはずの線が、獣に踏まれたように歪んでいる。小屋の壁にも傷があり、納屋の脇には割れた木箱や板切れが散らばっていた。
全壊ではない。でも、どこを見ても、何かしら壊れていた。
「これは……」
言いかけて、続きが出なかった。
たぶん、直せるのだと思う。けれど、簡単ではない。
そんなことは、農場仕事に詳しくない俺でも分かった。
ミリアは、まっすぐ家畜小屋の方へ歩いていった。
半分ほど壊れた屋根が、斜めに落ちかけている。入口の扉は片方が外れ、もう片方も大きく歪んでいた。餌箱らしいものは割れて、床には乾いた泥と藁が混じっている。
そして、ところどころに赤黒い跡が残っていた。
それは小屋の中だけではない。
家畜小屋の入口から外へ、土を引きずったような跡が続いている。何か重いものが、森の方へ運ばれたような線だった。途中で草が倒れ、土が掘れている。
ミリアは、その跡の前で足を止めた。
誰も、すぐには声をかけなかった。
ミリアの母親が口元に手を当てる。父親は少し離れた場所で、壊れた小屋を見ていた。何か言いかけたように見えたが、言葉にはならなかった。
ミリアはゆっくりと、小屋の入口へ近づいた。
中を覗き込む。
そこには、家畜はいなかった。
鳴き声もない。
藁の上に残っているのは、壊れた餌箱と、散らばった縄と、踏み荒らされた床だけだった。
ミリアは黙っていた。
背中だけでは表情は見えない。
俺は何か言おうとして、やめた。
言えることがなかった。家畜が大事だったことは分かる。襲撃の時に、ミリアが家畜小屋へ走ろうとしたことも覚えている。
でも、今ここで俺が何か言ったところで、それはあまり意味を持たない言葉になる。
エイルが少し離れた場所で杖を握ると杖の先に淡い光が灯る。エイルは農場の方をゆっくり見回し、それから小さく息を吐いた。
「……本当に、もう危険はないようですね」
その一言にフィーアが頷く。
「なら、今やることは片づけね」
そう言っても、誰もすぐには動かなかった。
どこから手をつければいいのか分からない。壊れた柵も、小屋も、畑もある。散らばった板も、折れた杭も、泥で汚れた道具もある。
俺が視線を動かしていると、グラウスが家畜小屋の横へ歩いていった。
「グラウス?」
フィーアが声をかける。
グラウスは返事をせず、倒れていた太い板に手をかけた。半分割れた壁板のようなものだ。片手では動かず、もう片方の手も使って引きずる。
「ちょっと」
「片づけねぇと何も始まらねぇだろ」
グラウスは短く言った。
板の下から、折れた木片と泥が見えた。グラウスはそれを足で避け、もう一度板を引く。昨日よりは動けているが、重いものを持った瞬間、少しだけ肩が沈んだ。
「あなたね、失った血が一晩で戻ると思ってるの?」
フィーアが近づきながら言う。
「戻ってねぇから、ゆっくりやってんだよ」
「それを無理って言うの」
「板一枚だぞ」
「その板一枚ごときで倒れるほど弱ってるのよ、あなたは」
「倒れねぇって。大丈夫大丈夫」
「全然しんようならないわ!」
フィーアは文句を言いながら、グラウスが動かした板の端を持った。
「手伝うのかよ」
「手伝わないとあなたむちゃするでしょ?」
そのやり取りで、止まっていた空気が少しだけ動いた。
ミリアはまだ家畜小屋の前にいた。
けれど、グラウスとフィーアが板をどかす音を聞いて、ゆっくり振り返る。
一拍、間があった。
それから、ミリアは両手を握り直した。
「……まず、入口の周りを空けましょう」
声は思っていたより明るかった。
少し無理をしているのは分かる。けれど、ただ元気なふりをしている声とも違った。言葉を出す前に一度止まって、それでも前を向くことを選んだように聞こえた。
「小屋の中を見ないと、何が使えるかも分かりません。板は割れていないものを右へ、折れているものは左へ。柵に使えそうなものは残してください」
ミリアはそこで、俺の方を見た。
「コウイチ様は、運べそうなものだけで大丈夫です。重いものは無理しないでください」
「分かった。運べそうなものだけ運ぶ」
「グラウスさんは、軽いものだけでお願いします」
「俺もみんなと同じ扱いでいいんだけどな……」
「そういうわけにはいかないわよ、バカ」
フィーアが即答して、それにミリアが少しだけ笑った。
作業が始まって、俺は壊れた柵の近くへ行き、使えそうな板を選ぶ。
完全に割れているものは避け、片側だけ傷んでいるものを持ち上げた。乾いているように見えた板も、泥を吸っているのか重い。
「これ、使えるか?」
ミリアの父親の方を見ると、彼は少し考えてから頷いた。
「短く切れば、柵の補強には使えるな」
「じゃあ、こっちに置きます」
俺は言われた場所へ板を運んだ。
足元には、踏み荒らされた土がある。畑の端には虫が這ったような細い跡が残り、ところどころ苗が倒れていた。畝の形も崩れている。
板を運ぶだけでも、何度か足を取られた。
農場仕事は、想像よりずっと地味で、ずっと疲れる。
けれど、今は何をすればいいのかが分かりやすかった。
板を拾い、使えるか見て、運び、積む。
それだけでも、少しずつ片づいていく。
「コウイチ、そっちの板、釘が出てるわよ」
フィーアの声が飛んだ。
「本当だ。危な」
「手を切ったら、今日は治すより先に怒るわよ。私だって昨日は回復魔法を散々使ったんだから」
「わ、わかった」
俺が釘の出た板を慎重に持ち直すと、エイルが近くに来て、短くなった板を別の山へ分けていた。
「これは、薪にした方がいいか?」
「燃やせるなら、それも必要ですね」
ミリアが答える。
その声はまだ少し硬い。けれど、指示ははっきりしていた。
ミリアの母親は、使える布や縄を分けている。父親は少し離れた場所から、どの板を残すかを指で示していた。
グラウスは結局、軽いものだけでは済ませなかった。
気づけば、少し重そうな木材を肩に担ごうとしている。
「グラウス」
フィーアの声が低くなる。
「これくらい軽いぜ」
「その苦しそうな表情で言われても説得力ないわよ」
グラウスは一瞬だけ黙った。
「……半分持ってくれ」
「最初からそういいなさいよね」
そんなやり取りが続くうちに、家畜小屋の前は少しずつ広くなっていった。
壊れたものは、まだ多い。
でも、散らばっていた板が分けられ、折れた柵の周りに通れる場所ができ、入り口の前から大きな瓦礫が消えると、それだけで農場が少し息をしたように見えた。
昼を過ぎても、作業は続いた。
家畜小屋の中に残った藁を出し、使える道具を脇へ寄せる。折れた柵の杭を抜き、畑の端に集める。倒れた苗は、ミリアと母親が見て、残せるものと駄目なものに分けていた。
俺は木材を何度も運んだ。
肩が痛く、腕も重い。
昨日の戦闘で疲れているのか、単に農場仕事がきついのか、もうよく分からなくなってきた。
***
「少し休憩にしましょう」
ミリアの母親がそう言ったのは、日が少し傾き始めた頃だった。
たぶん、三時くらいだと思う。
正確な時間は分からない。けれど、朝から動き続けた体には、休憩という言葉がかなりありがたかった。
俺は畑の端に腰を下ろした。
土が服につくのも、もうあまり気にならない。手のひらには木材を持った跡が残っていて、指を開くと少し痛んだ。
グラウスは少し離れた場所で、木箱に腰を下ろしている。
「座ったわね」
フィーアが言った。
「座っただけだろ」
「そのまま少しは動かないで」
「お前は俺の母親か」
「聞かない人にはそれくらい言うの」
「母親でもそこまでうるさくねぇよ」
グラウスは何か言おうとして、やめた。
エイルが小さく笑っている。
俺も少し笑った。
畑の方へ目を向けると、ミリアが鍬を持っていた。
休憩と言われたのに、まだ手を止めていない。
崩れた畝の端に立ち、土を起こしている。力任せではなく、少しずつ、確かめるように鍬を入れていた。倒れた苗の横の土を起こし、固まった泥を崩し、また足元を見る。
無理をしている部分は、たぶんある。
家畜小屋の静けさも、森へ続く引きずられた跡も、消えたわけではない。壊れた柵も、小屋も、まだそこにある。
それでも、ミリアは畑に鍬を入れていた。
壊れた場所を見るだけではなく、直す方へ手を伸ばしている。
「コウイチ様、あとでそこの木材もお願いします」
ミリアが振り返って言った。
声は明るい。
少しだけ、いつものミリアに戻っていた。
「休憩じゃなかったのか?」
「休憩です。でも、考えることはできます」
「休めてるか、それ」
ミリアが少し笑った。
俺は畑の端で、水を一口飲んだ。ぬるい水が喉を通る。顔を上げると、農場全体が見えた。
壊れた場所は多い。直すところは、たぶん数えきれない。
今日一日で終わるわけがないし、明日になればまた別の問題が出るのだろう。柵を直して、小屋を直して、畑を戻して、それから何をどうするのか、俺にはまだよく分からない。
散らばっていた木材はまとめられている。家畜小屋の入口は少し開いた。畑には人が立っている。グラウスが文句を言い、フィーアがそれを叱り、エイルが道具を分け、ミリアの家族がそれぞれできることをしている。
俺も、その中で木材を運んだ。
ふと、最初にこの世界で目を覚ました時のことを思い出した。
草原の中で何も分からずに立ち、遠くに見える壁を目指すしかなかった。金も使えず、スマホもほとんど役に立たないまま、とりあえず歩き出した。
あの時は、この世界で何ができるのかなんて、何一つ分かっていなかった。
リューベールに着いて、冒険者になって、グラウスたちと組んで、ミリアの農場に来た。怖い思いも、痛い目もあった。理不尽だと思ったことも一度や二度ではない。
それでも今、俺は畑の端に座って、土で汚れた手を見ている。
この手で魔物を倒せるとか、すごいことができるとか、そういう話ではない。
壊れた板を運ぶくらいならできる。
誰かが直そうとしている場所に、少し混ざるくらいならできる。
ミリアが鍬を振り下ろすと、土が起きる。
この世界で生きていくのは、たぶん、こういうことも含まれている。
面倒で、疲れて、分からないことだらけで。
それでも、手を動かせる場所がある。
俺はもう一度、水袋を持ち直した。
まだ全部を分かったわけじゃない。でも、なんとなく、この世界で俺は生きていけそうな気がした。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
第49話で、『ただいまイセカイ生存中!!』は一巻分くらいの一区切りです。
最初は何も分からず草原に放り出されていたコウイチですが、冒険者になり、仲間と出会い、怖い目にも、痛い目にも遭いながら、なんとかここまで生き残りました。
私もコウイチと同じように、何も分からないまま「書きたい」という気持ちだけで小説を書き進めてきました。
まだまだ至らないところも多かったと思いますが、ここまで追いかけてくださった方には、本当に感謝しています。
この先を書くかどうかはまだ決めていませんが、コウイチたちの物語はここで一度区切りになります。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




