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自分の世界が壊されることを、願っている。
明日がもう来ないことを、願っている。
退屈からの脱却を、願っている。
電気の消された、真っ暗な部屋。静けさが溢れるその場所で、一定の電子音だけが、机に置かれたモニターから発せられている。
光る画面に表示されているのは、場所もわからないどこかの景色と、現在時刻だけ。
午前一時。
この時間帯になると、いつも憂鬱になる。
理由は多義にわたるが、自身の進路についてが八割と言っていい。将来の夢、進学か就職の選択、考ええるだけで頭が痛くなる。
だから逃げている。こうして夜更かしをして、できるだけ朝を遠ざけようとしている。
もっとも寝ていようと、起きていようと、日が昇るまでの時間は変わらないのだが。気の持ちよう、というやつだ。
寝て起きたら、世界が全く変わっていればいいのに。
非現実的で、くだらない妄想が頭に浮かんだ。
もしそうなったら、俺はどう生きていくのだろう。
「……知るかよ」
現実逃避なんてしても意味がない。はなから答えなど持ち合わせていないのだから。
そんなことより、明日どう言い逃れをするか考える方がまだ現実的だ。
「寝よ」
体をベッドに投げ出し、瞼を閉じる。
ゆっくり体が沈んでいくような感覚と共に、俺の意識は深みへと落ちて――おち、て……?
頬に、風が触れた。
(……風?)
眠気からか曖昧だった思考に、疑問が浮かぶ。
風だって? そんなはずはない。
俺が寝た時、部屋は閉め切られていたはずだ。窓もドアも、開けていなかった。なのに、何故……
瞬間、俺の身体に強い重力が襲った。心臓が跳ね上がり、冷や汗が噴き出る感覚。
それはまるで、ジェットコースターを勢いよく下っている時のような……
閉じていた瞼を開ける。
開いていく視界。写るのは、慣れ親しんだ自室でも、モニターから漏れる光でもない。
広がっていたのは――
どこまでも続く、深い青色の空だった。
***
「は?」
自分でも驚くほど、間の抜けた声が出た。
「はあ?」
ただ、仕方のないことだ。誰だって、地面からはるかに離れた上空に投げ出されたら、同じ反応をするだろうから。
「はああああああ!?」
絶叫。人生で一番大きい声量であろうそれは、無情にも吹きまく風の轟音に掻き消される。
俺は、さっきまで自室のベッドにいたはずだ。学校で起きることを思い浮かべながら、億劫なまま寝たはずだった。しかし現実はどうだ。
視界の先――地面の景色は、月光だけが差した暗い森が広がっているのみ。建物が放つ光も何もない。
ここはどこだ?
家でないことだけは確かだろう。では、なぜ森に? ……分からない。唯一分かることといえば、俺はこれから死ぬ。それだけだった。
落ちる。
胃がギリギリと締め付けられ、平衡感覚が失われていく。地面が近づいてきているのか、俺が地面に近づいているのか。
それすら分からなくなって――
「……え?」
ぶつかる瞬間。地面まで、ほんの数センチ。俺の身体は、空中で静止した。ピタリ、そんな擬音が鳴りそうなほど。
心臓が、激しく鼓動する。血流が身体を巡る感覚と共に、浅い息が整っていく。
助かった。そう理解するまで、五秒ほど。
……しかし安堵感は、浮かんでこなかった。理解しがたい状況が、感情に蓋をしていた。
(あり得ないだろ)
俺は、死ぬはずだった。意味が分からないまま、高速で地面にぶつかって。しかしなぜか、体が空中で止まっている。
「勘弁してくれよ……」
ため息がこぼれ出た。立て続けに起きる異常に、頭痛を覚える。
緊張から解き放たれたからだろう。強張っている体から、疲労が湧き出てくる。
もう、何も考えたくない。そう、思考を放棄しようとした時、声が……聞こえた。
混沌とした状況を切り裂く、凛とした声が。
「いやーびっくりしたよ。人が、空から落ちてくるなんてね」
最初に見えたのは、白いローブと身長ほどの杖。月の光を反射するシルク生地が、ふわりと揺れ、杖が地面を叩いて音を鳴らした。
次に、風にほどける肩にかかるくらいの青髪と、整った顔立ち。
淡い青色の瞳がこちらを見ている。
「空中旅行はどうだった?」
青髪の女性が楽しそうに――けれど、どこか底の見えない声でそう言う。
(旅行、ねえ)
俺は疲労、困惑、諦めすべてを込め、掠れた声で答えた。
「……最悪だ」
***
異世界。
未知の世界に、魔法という特異な現象。
俺の中でそれは、創作であり、空想だった。
(さっきまでは)
目の前では、青髪の女性が焚火を挟んで座り、暇そうに指先から出した小さな火を弄んでいる。
数時間前の俺なら、マジックだと笑い飛ばしていただろう。
だが空から落ちて、空中で止められ、指先から火を出される。
この状況でそれらを否定できるほど、俺の頭は正常じゃない。
「それで、君の名前は?」
いつの間にか彼女が、こちらを向いていた。弄んでいた火はどこかに消え、暇そうな雰囲気は鳴りを潜めている。
俺に情報を整理する時間をくれていたのかもしれない。
もっとも、情報量が多すぎて全く時間は足りていないのだが。
「俺は、幸路彰。アキラって呼んでくれ」
「アキラかあ。珍しい名前だ」
彼女は俺の名前を反芻して、不思議そうな様子で言った。
「その極東というか……東の生まれなんだ」
咄嗟についた嘘だった。異世界と言っても伝わらないだろうし、話を円滑に進めるための嘘。
「へえ」
しかしそれを聞いた青髪の女性は、瞳をスッと細くする。
「東に国なんてないはずだけど?」
失敗した。これでは元々不審な人物だったのに、怪しさを上塗りしただけではないか。そう後悔をした時には、もう遅かった。すでに彼女の手には、杖が握られている。
焚火の上――俺と彼女の中心に、握りこぶしほどの火球が生成される。火球は赤々と燃え、今にもこちらに飛んできそうだ。
発せられる熱が、こちらにまで伝わってくる。
「単刀直入に聞く。君は、何者かな? どうして空から落ちてきたんだい?」
こちらを見る、青色の瞳。その視線は鋭く、目の前の俺ではなく、どこかより深い場所を見ているようだった。
嘘は通じない。直感だが、そう思った。
だが、だからと言って正直に話してどうなる? 知らぬ間に異世界に来て、空を飛んでいましたと。なので、俺は怪しいものではないですと。
……信じてもらえるかは怪しい。
ならば、有耶無耶にするべきか?
思考を巡らせてしばらく。口から出たのは、
「嘘をついたのは謝る。けど正直な話、俺も事態を把握できてないんだ。俺が何者で、空から落ちた理由なんて、こっちが聞きたい」
ほとんど投げやりだった。ヤケになったと言っても良い。
それを彼女がどう捉えたかは分からない。ただ彼女は先ほどまでの剣呑な気配を消し、口元を隠しながら笑った。
それはもう、笑いすぎだろと言いたくなるくらいには。
「君、面白いねえ」
「……どーも」
いったいどこに笑うポイントがあったのだろうか。俺としては、全くの真面目だったのだが。
……まあ、ひとまず矛を収めてくれたのは確かだ。
「じゃあ、俺の自己紹介は済んだってことで……次は君の番だ」
「私?」
彼女は、自身を指差しながら、首を傾げた。
「ああ。俺がしたんだから、君もすべきだろう」
それが礼儀ってやつだ。異世界に礼儀があるのかは知らないが。
「私は……」
彼女はしばらく首を傾げ、青髪を左右に振っていた。そんなに悩むことか? とは思ったが、見知らぬ怪しい人物に、自身の情報を教えるのは抵抗があるのかもしれない。
そう思ったが、彼女はすぐにこちらを向き、ゆっくりと口を開いた。
「私はメアリー」
そう言って、彼女は笑う。
「ただの……しがない賢者さ」
どこか――懐かしむように。
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