第16話 正義の味方が増殖する
黒川ミオの席は、空いていた。
昨日まであれだけ教室の空気を支配していたのに、今日の空席は、拍子抜けするほど軽い。
しかし軽いのは椅子だけで、空気は重かった。
担任は朝のホームルームで、短く言った。
「昨日の件は、学校として事実確認を進めます。SNSでの投稿や拡散はやめてください。関係する動画は削除しなさい」
“やめてください”は、お願いに聞こえる。
教室の誰も、守る気はなかった。
圭介は窓側の席で、手のひらを見下ろした。
冷たい。昨日より、少しだけ。
エアコンの風が当たっているだけ、と言い訳できる程度の冷たさ。
それでも、指先は妙に白い。
(いい。今日は、見るだけ)
勝つために必要なのは、激情じゃない。
記録と、言葉と、場の支配だ。
圭介はもう、それを知っている。
黒川がいない教室に、別の熱が生まれていた。
「ねえ、黒川さ。今日来ないのウケる」
「いや、来れるわけないでしょ。あんなのバレたら」
「まどかに謝罪動画とか撮ればいいのに」
笑いが起きる。
昨日まで黒川の隣で笑っていた連中が、今日は黒川を笑っている。
正義の味方が、増殖していた。
黒川がいないから、矛先が空中に漂う。
漂った矛先は、いちばん弱くなった場所へ刺さる。
それが黒川になっただけだ。
「てかさ、黒川のインスタ、鍵かけたっぽくね?」
「逃げた逃げた」
「黒川ってさ、そもそも性格終わってたし」
“そもそも”という言葉が出た瞬間、圭介は、息を吐いた。
面白くない。
終わっているのは、性格だけじゃない。
空気も、構造も、全員の顔も。
教室の前のほうで、誰かが声を張った。
「ねえ、黒川いない今のうちにさ、みんなで黒川のこと先生に言わない? これからも被害者出るじゃん」
拍手に近い反応が起きる。
みんなで、という言葉が魔法みたいに働く。
“正しい側に乗れる”
その安心のために、人は簡単に集団になる。
圭介は、ペンを転がした。
机の上で、カラカラと乾いた音がする。
その音が止まると同時に、圭介は立った。
ざわめきが小さくなる。
圭介はもう、昨日から「言う奴」になっていた。
「先生に言うのは、いいと思う」
まず肯定する。
相手が否定されたと感じない温度で、入り口を作る。
そして、次で刺す。
「でもさ。黒川のこと、前から“性格終わってる”って思ってた?」
教室の空気が、ほんの少し固まる。
言葉の矛先が、今度は“正義側”へ向く。
前の席の男子が、すぐに言い返した。
「いや、俺は前から嫌いだったし」
「そうそう、みんな思ってたよね」
圭介は頷いた。
頷きながら、静かに続けた。
「じゃあ、なんで昨日まで笑ってたの」
一瞬、間が空く。
“昨日まで”が、効いた。
笑っていたのは、黒川が怖かったから。
逆らうのが面倒だったから。
自分が標的になるのが嫌だったから。
理由はいくらでもある。
でも、その理由は、被害者にとっては免罪符にならない。
「いや、別に、笑ってたっていうか……」
「雰囲気じゃん」
「誰だってさ……」
“誰だって”が出た。
圭介はそこで、視線を上げた。
黒板の前にいる担任ではなく、教室の中央の連中を見た。
「雰囲気で、人を潰せるんだ」
静かな声だった。
大声じゃない。怒鳴りじゃない。
なのに教室の端まで届くのは、圭介が“揺れない”からだ。
「僕の中に、記憶がある」
誰かが、息を飲んだ。
圭介は続ける。
淡々と。
講義みたいに。
「昨日、笑ってた人。黒川が動画を回してるとき、目をそらさなかった人。『やば』って言いながら笑った人。まどかが泣きそうになっても、助けなかった人」
名前は言わない。
でも、言葉は“個人”を正確に刺す。
個人は自分で、自分の顔を思い出す。
前のほうの女子が、焦ったように言った。
「でも私、やめなって言ったし」
「私も、なんか変だと思ってた」
圭介は、その言葉にも頷いた。
「やめなって言ったのは偉い。変だと思ったのも大事。……でも、それで終わりにするのは、ずるい」
ずるい。
その単語は、痛い。
正義側が一番嫌う言葉だ。
自分が正しいと思っている時ほど、刺さる。
「黒川がいないからって、黒川を叩き始めるの、簡単だよね。安全だもん」
「……は? じゃあ黒川かばうの?」
男子が噛みつく。
圭介は首を振った。
「かばわない」
その一言で、相手の“逃げ道”を塞ぐ。
“圭介は黒川側”というレッテルを貼れなくなる。
「黒川がやったことは、黒川が背負えばいい。先生に言うなら言えばいい。警察に相談するならするべき」
圭介は一拍置いた。
「でも、黒川を叩いて気持ちよくなってる人は、同じことしてる」
教室の空気が、ぴし、と割れる音がした気がした。
正義は、気持ちよさとセットになると腐る。
腐った正義は、また誰かを吊るす。
圭介はそれを、止めたいわけじゃない。
止めるのは無理だ。
でも、少しでも“抑止力”になればいい。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ」
誰かが小さく言った。
圭介は答えた。
「やるなら、記録でやる」
机の上のスマホを、指で軽く叩く。
それだけで“昨日”が蘇る。
「誰が正義かを決めるゲームじゃなくて、何が起きたかを積む。先生に渡す。学校に残す。外に出すなら、弁護士とか警察の相談先を通して、消せない形で」
言葉にすると冷たい。
圭介の体温みたいに。
でも、冷たいことが必要な時がある。
熱で人を救おうとすると、熱で人を殺す。
担任がようやく口を挟んだ。
「……宮坂、ありがとう。みんな、今の話、聞いて。黒川の件も含めて、学校で対応する。勝手な拡散は――」
「先生」
圭介は担任を遮った。
遮ること自体が、もう圭介の“位置”を示していた。
「学校が対応する、って言葉、信じたい。でも、信じるには手順が必要」
担任の顔が硬くなる。
圭介は淡々と言った。
「まず、被害者の安全。次に、加害の事実の固定。最後に、再発防止。……順番を間違えないで」
担任は、言い返せなかった。
教室の誰も、笑えなかった。
それでいい。
圭介は座った。
椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きい。
(完成した)
圭介が教室の“空気”に対して、初めて勝った瞬間だった。
黒川に勝った、じゃない。
構造に、勝った。
昼休み、圭介は一人で廊下の端にいた。
スマホの画面には、母・早苗の短いメッセージ。
《今日の放課後、学校で面談。終わったら一緒に手続き進める》
圭介はそれに「了解」と返す。
この家は、手順で進む。
その手順があるだけで、圭介はまだ立っていられる。
次に、別の通知が入った。
知らないアカウント。
昨日から続く、外部のDM。
《お前、いい気になってるな》
《黒川潰したヒーロー(笑)》
《弟、◯◯中だろ》
指先が、少しだけ止まった。
“弟”の文字だけが、体のどこかを直接撫でた。
圭介の目が、細くなる。
怒りじゃない。
確認だ。
(どこまで知ってる)
(誰が言ってる)
(どう繋がってる)
続けて、もう一通。
《家の近く、駅のとこ。毎日通るよな》
《今日、見に行くわ》
圭介はスマホを伏せた。
呼吸は乱れない。
心臓も鳴らない。
でも、圭介の中で“守る”が、ゆっくり固まっていく。
「……悠斗」
声に出さない。
出したら、現実になるから。
圭介は立ち上がって、教室に戻った。
担任の机の前で止まり、低い声で言った。
「先生。昨日の録画と、DM。学校の外の人間が絡んでます。……今日、警察相談まで含めて動いてください」
担任は、圭介の顔を見た。
昨日より、今日の圭介のほうが少し青白い。
その青白さが、“本気”の証拠みたいに見えた。
担任は頷いた。
「分かった。宮坂、君のお母さんにも連絡する」
圭介は頷き返した。
“記録で詰める”の流れに、現実の大人を乗せる。
そして、廊下の窓から、校門の外を見た。
誰かがいる。
かもしれない。
いない。
かもしれない。
それでも、悪意はもう、教室の外まで伸びてきている。
圭介はスマホをもう一度手に取って、DMのスクショを撮った。
画面の光が、指先を白く照らす。
冷たい指先。
冷たい抑止力。
それでいい。
この戦いは、殴って勝つ戦いじゃない。
圭介は、次の通知を待たずに、先に動き始めた。




