5、夜明けの決闘 feat.餅
幸いなことに、あたしたちのシーツOR布団の戦いは、儀式の立会人たちにばれることはなかった。
昨夜の攻防に疲れ果てたあたしは、いつのまにか眠ってしまっていたらしく、床に寝っ転がってぐうぐう言っていたところ、女官長に優しく揺り起こされた。
ふと見ると、皇太子はだだっ広い寝台のど真ん中に、大の字になって眠りこけている。くそーっ。自分だけ悠々自適に眠りやがって。
そのあと、パパッと着物や髪を直されて、少ししたころ、食事が運ばれてきた。
あたしと皇太子は、並んで上座に座らされた。
皇太子妃になって、どんなに豪華な朝食を食べられるんだろうと期待していたところもあったが、出てきたのは白い餅が一切れ入った、お吸い物が一杯だけであった。しかも、ここには人間が二人いるってのに、供されたお膳はあたしたちの前に、一膳しかない。
「エ、これだけっ……」
何という拍子抜け。朝から油こってりな料理でも、ゼンゼン平気ですよ、あたしは。
まじまじと、お椀一杯の料理を見つめていると、女官長が言った。
「晴れて皇太子とその妃としてお立ちあそばされたお二人に、いつまでも国の重責として、民の心を慮っていただけますようにと、この一杯には下々の者の心が現れているのです。かつて、天災のために多くの人々が飢餓に命を落とした時代がございました。そのつらい定めをいつまでも忘れてはならぬと、第六代皇帝が皇太子として立つ者のためにお定めになられ……」
「あの、女官長。これ、一杯しかないんですけど。あたしの分は?」
この歳で正座をし、挙手をする羽目になるんて思わなかったが、女官長はしんみりとした表情で言った。
「さようでございます。ですから、お二人でこの一杯をお分けになるのが、初夜の朝の務めなのです」
なにいーっ。
このお椀一杯の食べ物を、憎きあんにゃろうと分け合って食べるだと!? なんつうはた迷惑な思いつきを、後世に残してくれたんだ、第六代皇帝め! あたしらが朝食を我慢しても、天災は見逃してはくれないぞっ。
隣に座っている男をチラッとうかがうと、眼差しはお椀の餅に吸い寄せられているようだった。
なにが悲しくて、コイツとご飯を半分こせねばならぬのだ。
憤慨していると、隣の男の腕が伸び、スッと箸を掴んだ。
あっ! 一膳しか用意されていなかった、貴重な箸を!
「ちょっとあんた。なんで勝手に、箸とお椀を持っているわけ?」
「そりゃ、食うためだろう」
お椀を口元に引き寄せた皇太子の腕を、がしっと掴んで止める。
皇太子の眉間にしわが寄ったが、そんなもんに構っている場合ではない。
「いやいやいや。どうして断りもなく、そういうことをするかなあ」
「なんでおれが、お前に断らなくちゃならない」
皇太子が、箸を持っている右手で、ぺいっとあたしの腕を払おうとする。
「いやいや。どう考えても、最初はあたしでしょ。レディーファースト。いや、毒味、毒味」
「はあ?」
腕に取りすがって、箸を持っている指を無理やり両手で開ける。よっしゃ、箸を奪取!
「恐れながら皇太子妃殿下、毒味はもうお済みですよ」
女官長が声をかけてきたけれど、申し訳ないが無視した。
「さあ、早くこちらへお椀を渡すのだ。なに、遠慮はいらん」
「毒味は済んだって言っていただろう。お前こそ、箸を返せ」
皇太子が、腕を伸ばしてきた。それを、上体をのけぞってかわす。
「先にアンタがお椀をちょうだいよ。そうしたら、返すからさ」
「それって、お前が先に食うってことだろう」
「当たり前じゃないの。餅は、渡さん」
「何を言っている。これはおれの餅だ」
「いいや、あたしの餅だ」
「なんだと……」
皇太子とのにらみ合いが、しばらく続いた。
「ねえ、陀尹、杜宇ちゃん。これが済んだら、あとで、ご飯いっぱい食べられるから……」
見かねたらしい皇妃・小耀さまが、声をかけてきた。
「小耀さま。今はもう、そういう問題ではないのです」
「そうです、母上。餅を制する者が、皇太子宮の真の覇者となる……それに異存はないな? 皇太子妃」
「そちらこそ、男に二言はないのだな? 皇太子よ……」
「もちろんだ。あとで泣こうがわめこうが、知らんからな」
「ほざけ。この離宮が、皇太子妃宮と名を改めるときは近い」
「違うのよ、二人ともっ。これは、仲良く一つのお椀の物を食べあって、贅沢を戒めましょうねっていう、意味あいがあるだけなのーっ。お餅は仲良く両端から食べあうのが理想なの! 餅を制する者が真の覇者ではないのーっ」
小耀さまの声が戦いのゴングとなり、あたしの箸がうなった。
「そこかっ! チェックメイトおお!」
「ちっ。油断も隙もあったものじゃないな……」
ひらりと、皇太子がかわす。チイッ。
「皇太子。どうやらきさま、十年会わぬ間に、相当な修練を積んだようだな。その動き、見切れなかった」
「こちらも、伊達に長く生きてはいないものでね」
お椀を掲げた皇太子が、正座したままゆらりと揺れた。コフー、とあたしは息を吐く。整えるのだ、精神を……。惑わされてはならぬ。ヤツの動きに!
「くらえ! 箸乱れ突き! ほあたああああ!」
「フン! フン! フンッ、フン! その程度か!」
あたしの箸さばき、すべてを避けた皇太子は、呼吸すら乱していない。
「堅牢なる餅の盾。……きさま、やるな!」
「今さら気付いたか。押しまくるだけが手段ではないぞ、箸ドリル」
「あなたたち、もう、いい加減にしなさいっ」
二人そろって、ステテン! と、小耀さまに頭をはたかれてしまった。
「食べ物で遊ぶんじゃありません! それに、みんな見てるのよ! なにが『ほあたあ』よ、『その程度か』よ。晴れのお席で、あなたたち、恥ずかしいとは思わないのっ」
そう言われて、正面を見渡すと、壁一面にズラリと並んだ女官たちが、苦笑いをしてこちらを見ている。
「な、仲がおよろしいことで、なによりでございます……」
女官長が、ホホホ、とから笑いした。
「ぐっぷ」
ハッ!
「あああーっ」
「な、なにっ。どうしたの、杜宇ちゃん!?」
絶叫すると、小耀さまや女官たちが振り向いた。
けれど、あたしはかすかな音を聞いてしまったのだ。
見れば、案の定、横で皇太子が、お椀を口に当てて、グビグビ、のどを上下させているではないかっ。
「反則! あんたそれ、今のは反則―っ。不意打ち、卑怯なり!」
指を突き刺して非難すると、皇太子はぷはーと、お椀を離した。
「今日もおれの勝ち」
ニヤッと、嫌な笑い方をする。
ぐっ、ぐぬぬぬぬぬう!
「え、ちょっと陀尹、あなたまさか、お餅を丸々飲み込んだの?」
「そんなバカな……!」
箸も使わず、つるりと餅を飲み込むだって!?
そんなこと、常人には考えられない……っ。
両手を床についてうずくまった。すると、高らかに笑う声が聞こえてきた。
「はっはっは。これで懲りただろう。これからは、二度とおれに生意気な口をきくんじゃないぞ、皇太子妃」
「バカはあなたよ、陀尹っ。あー、もう! お椀、空っぽじゃないの。おつゆまで全部飲んでしまったのね? あれほど、夫婦で分け合って食べるんだって言ったのに!」
なぬっ?
「え? あ、そうでしたっけ。母上……」
「そうよ。そうだって、何度も言ったわよーっ」
ママに怒られてうろたえているバカ息子をしり目に、あたしは誇らかに立ち上がった。
「どうやらぬかったようだな、バカ太子! この勝負は無効だ、あっはっは!」
「なにがあっはっはですか、恥を知りなさい、恥を!」
本日二発目の鉄拳が頭を襲った。
振り返ると、後ろに目を吊り上げて、山のようにそびえている迂幽彩がいた。
女官たちが、どよめいている。彼女たちの間を突っ切って現れたらしかった。
「あなたに皇太子妃としての自覚はあるのですか! 飲みなさい。ええい、まだ汁は残っています。この残りカスを口に含み、胃に落とし込めばよいのです! さすれば、この儀式も終了。これほど皇太子殿下を煩わせるとは、あなた、不届きです!」
皇太子がお膳に置いたお椀をがしっと掴み、あたしの肩を抱え込んで、無理やり顔に押し付けようとしてきた。
うおお!
いやだ。誰が、アイツが口をつけたものを食べようなどと思うもんか。
「ぎゃああ、ばっちい、ばっちいいいっ」
腕で口をふさいで拒否していると、迂幽彩がぐりぐり腕の隙間に押し込んできた。
「ばっちいとはなんですか、殿下に対して失礼な! 殿下の食べ残しは神へ捧げた供物に同じ! 皆で分け合って食べれば、幸が訪れようというもの!」
「それはおばさんだけだっていうの!」
「ええい、食らうのです。食らうのです!」
「いやだあああっ。ひいいいい、やめてえええっ」
「なんといか、凄惨な現場ね……」
「私はどういう気持ちでいたらいいのでしょう、母上……」
だれか、迂幽彩を止めてくれーっ!
お椀がギチギチと、二本の腕を割く。
もうダメかと思われたその時……扉が、音を立てて開いた。
「うるさいねえ」
壁際にいた女官が、一斉に振り向いて、慌てて腰を折っている。
どよめきの中、お供の女官に伴われて現れたのは、きらびやかな衣装に身を包んだ、一人の老婦人だった。
「いったい何ごとだい、あんたたち」
とたん、迂幽彩から力が抜け、お椀がコロコロと音を立てて転がった。
それが、老婦人のところまで弧を描いて転がっていき、彼女はそれを足で止めた。
「なんだい、なんだい。あんたたちは、だらしがないねえ。大の大人が揃いも揃って、支度もさせられないのかい。もう、昼の鐘が鳴っちまうよ」
老婦人は、皇太子の隣に呆然と立ちすくんでいる小耀さまをじろりと見つめて、口を開いた。
「自分の息子のおつとめも満足に果たせられないくせに、皇妃様とは良いご身分だ」
あたしの肩を掴んでいた迂幽彩の手が、サッと離れ、しずしずと後ろに下がっていった。
「そこの活きがいいの」
長いひだの衣を引きずりながら進んできた老婦人が、あたしの前に立ち、上から下まで、とっくりと見てきた。
懐から取り出した扇を、すっとあごに差し込まれた。
「あんた、ロクなもんじゃないね。さすがは、皇妃の選んだ妃殿下だ」
白い、つるりとした顔を不気味にゆがめて、老婦人は言った。
「孫の嫁にはふさわしくない。分不相応もいいとこだ」
孫、だと?
じゃあ、この人は……。
顎に当たる扇が、ひんやりと冷たい。見上げてくる老女の瞳は、底冷えするような輝きがある。
「皇太后陛下、いきなり、ご挨拶ですのね」
小耀さまが、押し殺した声で言った。
皇太后が、扇を下ろして、振り返った。
ほーっ。
「ご挨拶とは、あたしのセリフだね」
扇を開いて、パタパタと仰ぐ。たき物の、品の良い香りがした。
「大事な皇子の婚礼など、国の一大事だと思うんだがね。あんた、あたしに知らせずにやってしまうんだから」
小耀さまの口元が、ぴくぴくしている。
普段優しげな、どこか頼りなげな、儚い女性の雰囲気がある小耀さまが、なんだか豹変してしまったみたいに見えた。
「わたくしが御前へ参れば、やれ腰が痛いだの、足がむくむだの、皇太后陛下はいつもご病気を患っていらっしゃったので、お付きの女官に書簡をお渡しいたしましたわ」
「三日前に届いた書簡は、事前にあたしの了解を得たとは言わなーい」
「書簡は書簡です。それよりも、ご病気はよろしいのですか、陛下。先々日は、お腹の調子がお悪かったとお聞きしましたが」
「お気遣いなく。一日休んだら、すっかり良くなったさ。孫が婚礼を上げている間、ずっとお座敷にいたからね」
「まあ、それは大変お気の毒」
小耀さまと皇太后がにらみ合った。
女官たちは、一斉にうつむいて、ぶるぶる震えていた。
迂幽彩さえも、あたしの影に隠れて、完全に存在を消そうとしている気配があった。
うわあ。
こんなところで、嫁姑バトル、勃発!
皇太后、朱亥娘。
現皇帝の母にして、後宮の主宰。またの名を、虎覧女社会のラスボス。
四十年ほど昔、ちまたではこんな小唄が流行ったという。
お花が集まりゃ首ちょんぱ。
お庭に咲いてりゃ首ちょんぱ。
花瓶に差されて首ちょんぱ。
種が育っちゃ首ちょんぱ。
痛いのいやなら花隠せ。
この、なんともバイオレンスな小唄を、あたしは私塾で出会った友達の親から聞いたのだ。彼女の母親は多くを語らなかったが、これは当時起こったある出来事を風刺しているらしい。
それは、世に言う妃嬪粛清。
まだ一介の妃にすぎなかった朱亥娘が、
『皇帝の妻はアタシ一人いれば充分なのよ!』
と発心し、言葉にたがわぬ行動を血と刃でもって謀り――見事、成功してしまったという事変である。
だから、先帝の後宮には側女が一人もいなくなった。先帝の崩御とともに宮廷を追われたのではなく、みんな殺されてしまったというのだ。
ある日、戦から帰ってきた皇帝に、それを咎められても彼女は平気なふうだったという。
平然と、
『あなたが我が国のために敵地を攻略するように、アタシも相応の戦いをしているのです』
と言ってのけ、それを聞いた皇帝は怒り出すどころか、納得したようにウンウン頷き、むしろ彼女の心意気をほめたたえたなんて逸話がある。
あたしが従者としてその場にいたら、がっくりと膝を折っているところだ。
先帝は、無類の戦バカだったから、戦と名がつきゃすべての罪を許す特異な習性があったのかもしれない。だけれど、それを考慮してもこの夫婦、いろいろと壮絶である。
その、恐怖! 粛清烈女が目の前にいるのだ。
ティンバラ、ティンバラ。
まさに、異国の宗教にもすがる思い。
控えている女官たちは青い顔をしてうつむいてしまっている。いつの間にかアホ太子まで居住まいをただし、迂幽彩に隠れるように、正座したままそろそろと移動していた。なんじゃアイツ。
一夫一妻制を断行したおばあちゃんは、このハーレム造営計画立案者にしてみればさぞかし恐ろしかろう。
母と祖母がアレなので、孫と祖母の関係もあまりよくない、とは聞いているが、いまやとっくに背丈を追い越した乳母の陰に隠れるほどのびびりようとは。その行動、普段だったら高笑いモノだけれど、あたしとしても、この状況では笑えない……。
「気の毒だって? それはこっちの言葉だね。こんな不出来な女が妃だなんて、あたしの息子もまあ、気の毒に」
皇太后は、ハンッと体を反らして笑った。小耀さまは気色ばんで、唇をぎゅっと噛みしめる。あたしは、じりじりと後退して退路を探した。
「わたくしに不満があるのは承知しておりますわ、陛下。そのはけ口がわたくし以外にないことも」
「ほうら、そういうとこだ。あたしはあんたのそういうとこが気に食わないんだ。まったく、可愛げってもんがない。これじゃ嫁の貰い甲斐がないよ。あたしも息子もね」
「わたくしは皇帝陛下に嫁したのであって、皇太后陛下のぬいぐるみになりに来たのではありませんわ」
「普通はねえ、もっとわきまえを持つもんだよ、あんた。こんなに口がさない女は、よっぽど教養がないんだ。ほんとに恥知らずな女だねえ」
小耀さまは、おもむろに一人の女官を呼びつけた。
びくびくと震えながらやってきた哀れな女官を自分の隣に並び立たせ、つと、手を上げさせる。
その手には、銀細工の美しい、手鏡が……。
「人の振り見て我が振り直せ、とは、古典に出てきた教訓でしたね?」
青ざめている女官の横で、小耀さまが、ニッコリと笑う。こ、この人、皇太后に、まったく負けてない!
その時ボキッと、鈍い音が聞こえた。注目してみると、皇太后の持っていた扇が、中心から折れていた。ふおおーっ!?
「イヤミのつもりかい? 嫌な女だ。いけすかないね」
「陛下は本当にご冗談がお好き。わたくしが私情でわめき散らすだけの女だったら、この地で首はとうに飛んでおりますわ」
「どういう意味だ」
「だって、陛下はすぐに物を壊していらっしゃる。ほら、その扇が可愛そう。白檀の価格は、近頃また跳ね上がりましたのよ」
おほほ、と品よく笑った嫁に、姑の肩がわなわなと震えた。
見える、見えるぞ。
皇太后と皇妃の背後に、ズモモモモと、とぐろを巻いている暗黒の雲が見える……! 暗黒の雲同士が衝突したら、大嵐っ。
それにしても、なんなんだ、この小耀さまの攻撃力は。
『皇太后に一緒に立ち向かいましょうね!』
なんてかわいらしく言われたが、リング入りしても一人で充分なパンチ力じゃないか。というか、さっきから小耀さま、人が変わったようなんですけど。こわいよー。
「呈家の小娘!」
寝台のついたてに隠れるようにしていたら、皇太后から急に呼ばれてしまった。
「どこにいるんだい、小娘!」
きょろきょろと、まるで鬼が獲物を狩るような形相で首を振っている。
ひええっ。
あたし、何かしましたかあっ!?
「はいっ!」
ビュッと、挙手しながら出て行くと、皇太后はじめ、部屋中の目という目が、こちらを見据えた。な、なんだこの、針のムシロ感はっ。
「コソコソするんじゃないよ、若いのがっ!」
言いがかりだーっ。
「ったく、どいつもこいつも、あたしの周りにはロクなのがいない。いいかい、小娘。あたしはあんたを孫の嫁とは認めない。あたしはあんたの一族も嫌いだし、だいいち、アレの選んだ馬の骨だからだ」
アレ、というのに小耀さまを指さし、馬の骨、というところで、アホ太子がプッと吹き出した。
ア、アンニャロウ。
「皇太后陛下。これは皇帝陛下が決断し、臣民も歓迎した婚姻ですわ。そもそも、陛下も太子の婚姻を望まれていらっしゃったではありませんか」
「あたしが望んだのは、こんなへちゃむくれとの縁談じゃないよ。もっとマシなの用意しな。縁談のえの字も知らないのかい。こんなんじゃ、孫の隣は務まりようがないよ」
へ、へちゃむくれっ。もっとマシなのっ? こんなんじゃ!?
おや、どこからかかすかな笑い声が……って、皇太子、お前か!!
「陛下の個人的感情はどうあれ、これは虎覧国の総意であることに違いありませんわ。そのようなこと、おっしゃらないでください」
「この際だ。国なんか関係ないね。あたしが認めないって言ってんだ。呈家の小娘、よく覚えておおき。一生平和に暮らしたいと思うなら、さっさと尻尾を巻いて帰るんだね!」
皇太后は、フン! と大きく鼻を鳴らし、ここにいた大半の女官を引き連れて去っていった。この緩急、まさに、嵐の去ったあと……。
あたしは、呆然としてしまって、二の句が継げなかった。
皇太后に、盛大に、脅迫されてしまった……。
「杜宇ちゃん、大丈夫?」
小耀さまが、あたしの肩を揺さぶってくれたおかげで、ハッと正気に返った。
心配そうに顔を覗き込んでくれている小耀さまの背後では、腰を抜かしてしまったのか、鏡を持った女官ががっくりとくずおれ、女官長たちが必死に抱え起こそうとしている。
大丈夫? って、あたしたち、そんなわけありませんよね。女官さん。
なんてことを思いつつも、小耀さまを安心させるように、小さくうなずくと、あたしは意を決して歩き出した。
目指すは、迂幽彩と、その背後に隠れているあのびびり王子。
「さっそくだけど、離縁しない?」
腰抜けは、仲良しの乳母と一緒に、ぱっくりと口を開けた。
皇太后にあんなにぼろくそ言われてなお、ここにとどまる理由はない。あたしだって、この結婚に納得していないし、だったらさっさと別れちゃってもいいじゃないか。
「二人とも、いたくて一緒にいるわけでもないしさ、これで終わりってことにしようよ。ウチの家のほうは、なんとか黙らせるからさ、皇太后陛下もああいってることだし、独身に戻ろう」
「ちょっと、杜宇ちゃん、なに言ってるの!」
小耀さまが止めに入ってきた。
けれど、あたしの意思は固い。むしろ、皇太后の脅し文句で、なんだか目が覚めた思いである。あたしがここにいなければならない理由は、みじんもない!
皇太后に言われた通り、あたしは平和に暮らしたい。
「おまえ、なにもわかってないな」
あたしの頭の中では、すでに離縁が決行された時のイメージが固まりつつある。
意気揚々と実家の門をくぐり、懐かしい母屋に足を踏み入れ、ここであったが百年目、両親とジジイを問い詰める。
『此度の不義理、追って沙汰を申しつける!』
キメ文句は、これで行こう。
けれど、皇太子と乳母は同じように眉をひそめた。
「離縁など認められるはずはありません。後宮の女にとって、皇帝や皇太子との別れは、自身が死ぬときです」
迂幽彩が、耳を疑うような言葉を口にした。
「し、死ぬとき!?」
「そんなことも知らなかったのですか、あなたは。この国のすべては皇帝に帰するもの。ものに権利はありません」
「ものって、あたし人間だけど!?」
「すべて、と言ったでしょう。いったいあなたは、この国の何を勉強してきたのですか」
「ぜんぶ初耳っ」
「お前の事情など俺たちが知るか」
迂幽彩とアホ太子に、侮蔑された。
な、なんということっ。
なんという傲慢っ。
「でも、皇太子のあんたが離縁を申し出たら、いいんじゃないのっ!?」
そうだ。
あたしから離縁する、というのが、『もの』の分際で生意気だからダメだというなら、コイツから提案すればまかり通るんじゃないか?
だって、皇帝の息子なんだし。
皇太子は、ふう、と息をついた。
「お前との婚姻は皇帝陛下の肝いりだ。皇帝陛下の、だ。わかるか? 息子の俺じゃなく、こ、う、て、い、の」
「うっ」
こやつ、心を読んだのか!?
「にしても、そんなに諭すように言わなくたって、わかってるけど!」
苦しまぎれの文句を言うと、イヤミ太子ははらりと長い前髪をかき上げ、腕を組んだ。
「それなら結構。俺の細君にしては、昨日から、あまりにバカな発言が多いもので。念を押さなければわかってくれないと思った」
ニヤリと笑う。
きいいっ!
どんな時でも安定的に嫌なヤツ!!
呼ぶなっ。細君などという名であたしを呼ぶなっ。
「悔しかったら皇帝を説得してみろ。それについては俺も協力を惜しまない。だがな、お前との婚姻は俺の涙ぐましい工作のなれの果てだということだけは承知してかかれよ」
「どういうこと?」
「皇太子はあなたとの結婚話を回避するために、あらゆる策を弄しました。しかし、不幸にもすべて失敗に終わり、国破れて山河ありという結果に……」
迂幽彩が、涙をこらえるように、クウッと、鼻頭を抑えた。
え。ますます、どういうこと?
皇太子はあたしとの結婚を阻止しようとしていたけれど、無駄に終わったって、そういうこと?
でも、どうして失敗……。
「ハッ!」
感ずるものがあり、隣の女性を振りむいた。迂幽彩と皇太子の視線も、同じようにそちらへと向かう。
「小耀さま、もしや……」
「だってえ、わたくし、前々から言っていたじゃない? 杜宇ちゃんが陀尹のお嫁さんに欲しいって! 陛下も賛成してくれたのよっ。だからねえ、陀尹たちがいろいろ言ってきたけど、来るそばからぜんぶキレイに断っちゃったわ」
最大の障壁は、これかーっ!
皇太后に面と向かっていた時とは打って変わって、かわいらしく頬を膨らませた小耀さまが、甘えたような声ですりよってきた。
ナルホド、ここで、ふりだしに戻るというわけか。
猫なで声で機嫌を取ってくる小耀さまに腕をぎゅうっと抱きかかえられ、あたしはといえば途方に暮れてしまった。
チラ、と二人を見やれば、同時にため息。
できるもんなら、この母親を説得してくれ、という思いを、ひしひしと感じる……。
しかし、説得に失敗するどころか、あたしはまんまと小耀さまの策にはまり、現在の状況を作り出しました。鼻先の人参につられてこの結果と相成りました。面目次第もございません。
「つまり、皇太后さまの言った、平和に暮らしたいなら尻尾巻いて帰れ、というのは……もしや」
「死ぬよりつらい目に遭わせてやるってことですわね」
「アラ、陛下ったら、ずいぶんとんちが効いてるわね」
「ええ、母上。さすがはおばあさま。脅し文句も優美です」
どこがだっ。
どこがっ!
つまりあたしは、遠回しにさっさと自刃でもして果てろと言われたのだ。
どうせ逃げ道がないこの後宮地獄で、これから平和に暮らしたいなら早々に首をくくるべし、と!
腹ではなく首!
幸福な未来は天の国にしかありませんことよ、オホホ、オホホホと、最後通牒を突きつけられたのだ! バイオレンス小唄を発祥させたお人に!
「あたしが、なにしたっていうんだーっ!」
嫁姑戦争をすっとばして、大姑が孫嫁に宣戦布告をしてくるなんてっ。これじゃ、小耀さまの防波堤どころか、ただの土くれ。土塁にもなりませんよ、あたしは。
「まことにご愁傷様ですこと、お嫁様」
珍しく迂幽彩に、情けをかけられた。
その後ろでは、皇太子がにやにやしながら、握り拳を上下に振っている。
昨日の今日だからわかったぞ。
キサマ、ティンバラを振っているな!?
お読みくださって、ありがとうございました。