1 「さあ、世界を滅ぼそう」
――その日、天を焦がすように放たれた光は、長く人々の心に残ることとなる。
赤黒い、亀裂のような稲妻が天を焦がした。
その直後。
闇を焼き払うかのように輝いた白銀の光。
その二つの意味を人々は識っていた。
この世界において、赤黒い稲妻は魔王の誕生。
そして、白銀の光は勇者の誕生を意味していた。
人々はあの、不気味な稲妻を見ても恐れなかった。
直後に放たれた白銀の光は、闇を払う唯一の力。未だかつて、闇に飲まれた光はいなかったのだから。
だからこそ、この日のことを人々は忘れない。
眩く白銀の光、きらきらと残滓が降り注ぐ、その空に。
――もう一度、その光を焼き尽くすように雷鳴が走ったのだから。
※
五年前、赤黒い稲妻と白銀の光が喰らい合ったその日から、世界には不穏な空気が流れていた。
魔物が凶暴化したとか、そういう直接的な被害は増えていない。
しかし、人々の心にも、国全体の空気にも、確かに重いものが混じっていた。
息を吸うだけなのに、なにか暗いものが身体の中に紛れ込むような感覚があるのだ。
ざらざらとした、異物感。常に重苦しい何かが足にしがみついているような。
人々はまことしやかに囁いている。
――五年前の勇者は、負けたのだ、と。
「勇者殿、もうすぐ魔王城が見えてきます」
地図を確認していた魔道士ロイドの声が聞こえる。
聖女リンは勇者カインの背を見つめた。背中は何も語らず、足を止めることもない。
やはり緊張しているのだろうか?カインは正義感が強く誰にでも優しく接する、まさに、勇者になるべく生まれたような男だった。
カインが勇者認定されたのは魔物の群れの中に一人残された村人を一人で助けに行った時だった。誰かを助けたいという心が彼を勇者にしたのだ。
だから、王立騎士団ではまだ若く、役職こそ就いていなかったが、一年前に世界認定の光が降り注いだ時も、誰もが納得したのだ。
「……あれか」
カインが短く呟いた声に我に返る。
切り立った崖の先から視界いっぱいに広がる荒野が見えた。
荒野の中に、灰色のイビツな建造物が鎮座している。
およそ人の手が造ったとは思えない、奇妙な造形。水面をめちゃくちゃに叩いて散ったしぶきのような形だった。
「ああ、やっと……」
声に色が乗った。
リンは、カインの聞いたことのない声音に目を細める。
どういう感情なのだろう?まるで……
「あそこに入り口らしきものがあるね、オレ、偵察してくるよ」
思考を遮るように勇者の幼馴染であるヒューが言った。
誰も返事をしていないのに、ひょいひょいと器用に崖を降りていく。
敵に見つかったらどうするのだと怒ろうとしたが、彼がシーフなのを思い出し、喉元で怒りを押し込める。
リンには、シーフのスキルの仕組みは分からないが、シーフの隠密を使えば、敵に気配を悟られにくくなるらしい。
まるで散歩に行ってくるよとでも言うように軽く動いてしまうヒューを止める者は誰もいなかった。
※
「魔王城のそばに村が……?」
「ちーっちゃい集落だけどな。こんな辺境によく作ったよ。全員、魔族化してた」
「そうですか……」
ヒューの報告を聞いたロイドが細く息を吐くように返事をした。
目には少しの同情。一度目をつむり、ゆっくりと開けた。
「一度魔族化した人間は元には戻りません。彼らは殺すしか救いがない。
しかし、それは魔王が城にいる今ではないでしょう」
ロイドの言葉に胸が痛くなる。リンも聖女教育の中でそう教わってきた。
魔王は存在するだけで、世界を変質させてしまう。
空気が、植物が、動物が、だんだんと魔王の魔力に汚染されてしまう。
それは人間でも逃れることはできない。五年前に先代勇者が命をかけ、倒しきれなかった魔王。
魔王が根城にした辺境には、小さな集落があった。住人は逃げることさえ許されず、苦しみの中で魔族に変質していったに違いない。
一行はヒューが探ってきた情報をもとに魔王城への潜入計画を立てた。
崖を下り、魔王城にほど近く、隠れやすい場所を見つけ、野営の準備をする。
リンはカインとヒューがいつになく長い話をしているのを見た。
寡黙なカインと軽口の多いヒュー。
まるで正反対の二人だが、意外なほど二人は息が合っているようだった。
密やかに話す声は内容が分からずともリンが眠りに落ちるその瞬間まで続いていた。
※
魔王城の中はとても静かだった。
前を遮る魔族や魔物を警戒していたのに拍子抜けするほど何もいない。
けれど、近づけば近づくほど、魔王の魔力を感じる。心の中にざわざわと暗いものが入ってくる感覚。
カツン、カツンと響く己の足音さえ恐怖に感じそうだった。
ひときわ大きな扉が見えた。
それは音もなく一行に向かって開いていき、ゆっくりと止まった。
奥から空気が流れてくる。そのすべてに魔王の魔力が含まれている。
いるのだ、奥に。
先陣を切ったのはカインだった。
恐れもなく、まるで見知った家を訪れるかのように。
一拍遅れてヒューが続く。そしてロイド。リンは最後だった。
ゆらゆらと頼りない明かりが等間隔で並んでいる。
通路を挟むように灯るそれらはまるで道標。
カインは一度も振り返らなかった。普段なら、仲間に気を配ることを忘れない彼が。
まるで追い立てられるように、一心不乱に進んでいた。
「……ついに、来たのね」
美しい声だった。
王座に座っていたのは、美しい声に違わぬ女だった。
白い肌につややかな黒髪。瞳は金、瞳孔が猫のように縦長だ。紅を刷いた唇は、艶めかしい赤。
黒い衣装は彼女が動くたびにきらきらと光を反射して、よく見ると小さな黒い宝石が緻密な柄を描くように縫い留められている。
女はゆっくりと立ち上がった。
すらりとした体躯が浮かび上がる。魔に魅入られるとはこのことか、リンは詰めていた息をゆっくりと吐き出しながら思った。
「やっと、会えた」
カインが言った。
「ずっと、探してたんだ」
リンにはカインの背中しか見えない。けれど、カインが笑っているような気がした。
シャッ
鞘から剣を引き抜く音が響く。
国王から賜った国宝。破魔の剣。
ゆっくりとカインが魔王に向かって歩き出す。なぜか、足が動かなかった。
カインがとうとう魔王の眼前に立つ。
誰も、動かない。
魔王さえ。
「さあ、世界を滅ぼそう!」
くるりと。
カインが身体を反転させた。
仲間に、剣を向けて。
「いや、倒して!?」
「は?」
「え?」
「あ〜ぁ、やると思った」
「やると思ったって何!?」
魔王の美しい声のツッコミだけが、虚しく城内に響き渡った。
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