1 沈黙の姫
伯爵令嬢セシリアは、『沈黙の姫』と呼ばれている。
舞踏会でも。茶会でも。彼女の声を聞いた者はほとんどいない。
言葉を持たないわけではない。ただ、めったにその唇を開かないだけだった。
窓の外には、ただ畑と森だけが広がっている。
幼い頃に母を亡くして以来、彼女は父と二人、領地の屋敷で暮らしてきた。社交界の喧騒とは遠く離れた平穏。
父もまた、多くを語る人ではなかった。朝、顔を合わせても、ただ小さく顎を引くだけ。
食卓を挟んでも、交わされるのは「スープを」「ありがとう」といった、最低限の言葉。
けれど、そこに冷徹な拒絶はない。
流れるのは、いつも静かで、妙に居心地の良い時間だった。
そうして、二十歳を迎えようとする今まで、婚約者のひとりもできずにいた。
晩秋の風が窓を揺らす午後、屋敷に叔母のレオノーラがやってきた。
「セシリア。確かに『寡黙は美徳』と言いますけれど、あなたのは度を越しています」
窓辺で本を読んでいたセシリアは、わずかに視線を落とした。
外から、枯れ葉の舞う乾いた音が聞こえてくる。
レオノーラがテーブルに着くと、使用人が茶器を並べていく。
「あなた、人に興味がないのかしら?」
本を持つ指先に力がこもり、セシリアは息をぐっと堪えた。
使用人が部屋を去ると、レオノーラは顔を上げる。
「――あなたのは、寡黙ではなく無関心です」
その言葉は、妙に胸に残った。
人が嫌いなわけではない。ただ、興味が持てなかった。
誰が誰と恋をしようと。誰が誰を嫌おうと。
静かに本を読んでいられれば、それでよかった。茶会での移り気な噂話よりも、書物の中の知らない世界を旅することの方が、よほど心を満たしてくれたから。
セシリアは静かに本を閉じ、茶の用意がされたテーブルへ歩み寄った。
レオノーラが茶器を手に取る。白い湯気が、その口元で散った。
「……といって、急におしゃべりになれと言っても無理でしょう。そこで――」
カチャリ、と硬い音が響く。
茶器を置いたレオノーラは、悪戯っぽく微笑んだ。
「あなたにぴったりの縁談を持ってきましたの。ミクラノア侯爵、エデュアルド様です」
セシリアは小さく首を傾げた。
「その方がね、『寡黙な令嬢』をお探しなのです。……どうかしら?」
窓を叩く風が止み、部屋は急な静寂に沈んだ。
自分の鼓動だけが、とくん、と響く。
沈黙を求める、侯爵。
――お探しなのです。
じっと落とした視線の先で、細かな茶葉が静かに底へ沈んでいく。
長い沈黙の果てに、セシリアの唇が微かに開いた。
「……なぜ、ですか?」
「さあ?」
二人の間に、白い湯気が頼りなく立ち上る。
「いかがです、お兄様?」
レオノーラの視線を追い、セシリアは振り返った。
いつの間にか、父が窓辺に立っている。気配があまりに静かで、気づかなかった。
「……いいんじゃないか」
父の短い一言。
それだけで、セシリアの縁談は決まった。




