愛のカタチ
飲み込めないまま口に溜まっているビールが、口内でだんだんぬるくなっていくのがわかる。
「君の視線の先にはいつも僕じゃない誰かがいた。好きな人なのか嫌いな人なのかはわからなかったけれど、少なくとも僕より執着している人間がいた。僕と食事をしているときも、体を交えていたときでさえ、君はいつも別のことを考えていただろう」
私は夫の言葉に首を振らなかった。
生まれてからこの方、私はずっと茉梨に執着していた。茉梨が私の存在をなかったかのように振る舞っても、私は双子という関係にしがみついていた。
茉梨が私の存在を恥ずかしく思い、周りに双子の姉である私の存在を隠していたことも知っていた。
でも、『年上の姉がいる』と茉梨に何度双子の関係を切られても、私は茉梨に絡みついていた。
茉梨に彼氏ができても、自分に夫ができても、私は茉梨を一番に愛していた。
茉梨は私のことが嫌いだったと思う。出来の悪い私と双子であることを、ずっと嫌がっていたと思う。だから周りに私の存在を隠していたのだと思う。それでも、私はずっと茉梨のことを愛していた。茉梨に愛されたかった。
「ごめんなさい」
夫は一口ビールを飲んでから謝った私の方を見た。そして微笑みながらアーモンドをかじった。
「今君が本当に言いたいことは『ごめんなさい』じゃないんじゃないの? 言いたくないなら聞かないけど」
夫はそう言い残し、台所へと移動した。
私は今、何が言いたいのだろう。
それすらわからない。自分がわからない。
初めて逸くんに「茉梨ちゃん」と呼ばれたとき、もう戻れないところに来てしまったことを悟って怖くなった。高速道路を走り始める瞬間のように、緊張感が走った。
それっぽい嘘をつき続けながら逸くんの隣で過ごしていると、逸くんの記憶の中の茉梨がどんどん私に近づいていることに気が付いた。
嘘をつくたびに、逸くんの中の茉梨が薄れていった。自分を謙遜するたびに、茉梨を傷つけているような気持ちになった。茉梨に近づくことを望んでいたはずなのに、全然喜べなかった。
夫が切ったトマトを乗せたお皿と、二人分の小皿とお箸を持って戻ってくる。
「私ね」
「うん」
ぽたり、とテーブルの上に涙がこぼれる。私が泣くなんてお門違いだ。泣きたいのは裏切られた人たちだ。でも。それでも。
「逸くんに対して、どうして茉梨のことを忘れてしまったの。あなたは一番忘れちゃいけない人じゃないのってずっと思ってた」
自分の中の本当の気持ちが溢れ出て止まらない。
逸くんの家で茉梨の遺書らしきものがないかくまなく調べたけれど、どこにもそんなものは見つからなかった。
逸くんがすべて思い出せば、私が自分から罪を告白しなくてもよかった。だけど、逸くんは茉梨のことを何も思い出さなかった。
本当の事実なんてどこにもなかった。茉梨が生きてきた証を誰も知らない。目の前には、茉梨が死んだことと、忘れられた茉梨の存在しか残されていなかった。
「あなたと結婚したのも、茉梨に見せつけたかったの。茉梨の気を引きたかったから」
先に結婚された嫌悪感でもいい、美形の旦那を手にいれたことに対する嫉妬心でもいい。とにかく茉梨の感情の一部になりたかった。
「もちろんあなたのことは好き。でもそれよりも、私は茉梨を愛していた。誰に許されなくてもいいから、茉梨のことが知りたかったの」
夫を裏切ってでも、私は茉梨のことが知りたかった。たとえ夫が離れていくことになっても、茉梨に近づけるならそれでよかった。茉梨さえ手に入れば何でもよかった。
なのに。
「でもそれも、ずっと苦しかった」
ポツリと雨のように言葉をこぼす。
嘘をつき続けるというのはとても辛かった。常にボロを出さないように気を張って過ごすのはとてもしんどかった。自分が眠っている間に嘘がすべてバレてしまうんじゃないかと思うと、毎日眠りにつくのが怖かった。
そして何より、平気で嘘をつくことができるくらい妹を愛してしまった自分が恐ろしくてたまらなかった。
私に近づいてくる夫を上目遣いで見上げる。視界が溢れてくる涙でぼやけて、歪んできた。
ぼやけて見える夫の顔を見て、彼が傷ついていることがわかった。普段機嫌を顔に出さない夫が、唇を噛みしめてから、口を歪めて笑った。
それから夫は私を抱きしめた。
「やめて」
私は身をよじって夫の腕から抜け出そうとした。
今の私にこんなことをされる権利はない。
身をよじるが、夫はびくともしない。
首をひねって夫の目を見る。夫はピカピカの泥団子を眺める子供のような目をしていた。夫に愛されて幸せなはずなのに、私が夫の愛を恐ろしく感じてしまった。
「君が自分を許せないのなら、僕がその分も君を許してあげたい」
湯船につかっているときに漏れるような声が耳元からする。涙がどっと溢れた。
「嘘をつくな、なんて言わない。ただ、自分の気持ちに嘘はつかないでほしい。嘘をついた自分のことだけは忘れないでほしい。嘘をついて騙された人は悲しいと思う。裏切られたと思うはずだ。君がしたことは悪いことかもしれない。でも、妹さんのことを『知りたい』と思ったことは悪いことなんかじゃない。世界中の人に嘘をついたとしても、夫である僕に嘘をついたとしても、自分を騙すことだけはしないでほしい。妹を愛していた。それすら消そうとするのはやめてほしい」
こんなに愛を伝えてくれているのに、未だ私は夫を恐ろしく思ってしまう。
自責の念から涙が溢れる。
「自分の気持ちをどこかでちゃんと表現してほしい。ちゃんと口にして確認してほしい。それをしてくれるのが僕だったらとても嬉しい」
張り詰めていた心が緩み、全身の力が抜けていく。
私はずっとこの人に何を隠そうとしていたのだろうか。初めから正直にすべて話していれば、もっと楽だったかもしれない。こんなに気持ちが張り詰めることはなかったのかもしれない。
妹を愛している、という許されない感情を消化する方法をずっと考えていた。でもそんなこと考えなくてもいいのかもしれない。消化せず、永遠に体の中にとどめておいてもいいのかもしれない。そしてときどき、この人にさらけ出してしまってもいいのかもしれない。
「ずっと間違いだと思ってた。妹を愛しているなんておかしいと思ってた。茉梨が死んでから、自分のおかしさがはっきりしてくるようになった」
茉梨のものが得られるなら、平気で嘘がつける。そんな自分が日に日に明確になっていって怖かった。
「君はおかしくなんかない。感情に良い悪いはないよ。どんな感情だって君の正しい感情なんだから、『僕よりも妹を愛している』というその感情は間違いなんかじゃない。許されないものなんかじゃないよ」
夫はそう言ってから私の頭を撫でた。
「君の感情をおかしいと言うやつがいれば、僕はそいつを殺したいと思うよ」
背筋に悪寒が走った。
「君の感情を許さないと言うやつがいれば、僕はそいつを殴りつけたいと思うよ。でもこの感情をおかしいと思ったことはない。僕が思う率直な気持ちだから。・・・・・・それくらい、君を愛しているから」
夫が当たり前のようにこぼす。
やはり、この人の愛は恐ろしい。
そう思った。




