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花のような



「逸くん。お客さんこれから来るって」


 そう言いながら田中さんが部屋に入ってきた。

 

 一日中そわそわしながらマリちゃんを待っていると、すでに外はオレンジ色になっていた。まるでクリスマスイブの夜のように、ぼくはワクワクしていた。

 

 これから、マリちゃんがやってくる。ぼくの恋人がやってくる。

 

 遠くから聞こえる靴の音を聞きながら、体を揺らす。

 マリちゃんはどんな声だろう。どんなニオイがするだろう。

 カツカツ、という聞きなじみのない靴の音がどんどん大きくなる。それと同じくらい、ぼくの鼓動もどんどん大きくなっていく。


「失礼します」


 少しふるえた声が聞こえてくると同時に、マリちゃんの姿が見えた。


 全身黒い。ぴっちりとしたズボンに、セーターを着ている。写真と同じ人だ。

 

 思わず泣きそうになった。


「マリちゃん!」

 大きく声を上げる。

 ぼくの方に近づいてくるマリちゃんも、少し泣きそうな顔で笑った。それを見た田中さんも同じような顔をしている。

「ごめんね逸くん。スマホ壊れちゃって連絡できなくて……」

 マリちゃんは少し傷のついた黒いスマホを、カバンから取り出してぼくに見せた。

「まったく動かなくなっちゃって、修理に出してたの。本当にごめんね」

「そんなのどうだっていいよ。マリちゃんが無事でよかった」

 ぼくはマリちゃんと抱き合った。

 恋人同士のハグというよりは、感動の再会を果たした兄弟のような抱擁を交わした。マリちゃんの髪の毛が、はらりとぼくの頬に触れる。

「マリちゃん髪の毛切っちゃったんだね」

 ぼくはマリちゃんから離れ、マリちゃんの顔をまじまじと見た。マリちゃんは写真と同じ顔だけど、胸まであった髪は写真とはちがい、アゴの周りで切りそろえられている。

「短くしたくて切ったの。でも長いほうがよかったかな」

 マリちゃんは苦笑いしながら、自らの髪をなびかせた。

 ぼくは首を横に振って、「そんなことない」と正直に否定した。

 

 田中さんがどうぞと出した丸椅子にマリちゃんが座る。ぼくの目線と同じ高さにマリちゃんの顔がやってくる。写真で見たとおりの顔だ。鼻はすらっと細長くて、目はまんまる。まつげはグワンと上を向いている。肌は白くて、唇はきれいなピンク色だ。


「逸くん。少しだけ私から逸くんについて説明してもいいかな?」

 そう言った田中さんは、ぼくがうなずく前にぼくとマリちゃんの間に入ってぼくのことについて話してくれた。


 ぼくは心因性の記憶喪失になっている。

 原因は不明。

 現在ある確実な記憶は小学一年生まで。

 それ以降はピンポイントでしか思い出せない。

 

 明らかになっている事実を、田中さんがわかりやすく説明してくれる。マリちゃんは神妙な顔で静かにうなずいていた。

 

 田中さんから一通りの説明を受けたマリちゃんは、聞いた情報を十分に味わうかのように無言になった。それから、深呼吸をするかのようにマリちゃんは息を吸った。


「逸くんは、私のこと、わかる?」


 言葉をつまらせながらマリちゃんがぼくに問いかけてくる。


 わからない。そう言ったら悲しむだろう。でも、わからないのにわかると嘘をついたらもっと悲しむだろう。

 ぼくは、正直に答えることにした。


「わからない。でも、毎日必死マリちゃんのことに思い出そうとしているんだ」

「そうなんだね」

 マリちゃんはきつねの嫁入りのように晴れているのか降られているのかわからない表情をした。さみしさあふれるその表情に、ぼくは胸が苦しくなった。

「ごめんね。マリちゃん」

「いいんだよ。逸くんは悪くないから」

 マリちゃんがそう言ってくれることだけが救いだった。だから、ぼくはできるだけ明るく努めることにした。


「マリちゃんのこと思い出すために、たくさん質問してもいいかな」

「うん。もちろん。たくさん話そう」

 マリちゃんがぼくの手をぎゅっと握ってくれる。外から来たばかりのマリちゃんの手は冷たかったけれど、ぼくの熱い体温となじんでぬるくなっていくのは気持ちよかった。


 ぼくはこたから聞いたマリちゃんの情報を、答え合わせするかのように尋ねた。


「マリちゃんとぼくは恋人なんだよね。三歳差だって、友達から聞いたよ」

「そうだよ。逸くんは二十歳の大学二年生で、私は二十三歳の大学院一年生」

「ぼくたちはいつ出会ったの?」

「小学生のときだね。私たちは小学校から大学までずっと同じなの。私が小学四年生のときかな、そのときの運動会で、私たち同じ団になって仲良くなったんだよ」


 ぼくはマリちゃんの話をスマホにメモしていく。まだ何も、頭で思い出すことはできていない。

 

 続けて質問していく。

「じゃあ、ぼくたちはいつ恋人になったの?」

「私が高校三年生のとき、逸くんに告白したんだよ」

「どうして?」

「恥ずかしいなー。えっとね、大学に合格して引っ越すことが決まって、逸くんとバラバラになっちゃうなーと思ったら、怖くなったの。だから焦って告白したんだ……」

 まばたきを増やして恥ずかしそうに話すマリちゃん。

 マリちゃんが告白してくれた事実すらぼくは覚えていない。それに加えてぼくは、もっと大事なことを覚えていない。

「じゃあさ、マリちゃん・・・・・・」

 ぼくは言葉を振り絞った。今から聞こうとしていることは、本気でマリちゃんを怒らせてしまうかもしれない。でも、わからないままにしているのはもっとダメだ。

 

 深呼吸をしてから、マリちゃんに尋ねた。


「ぼくとマリちゃん。ケンカしてた?」


 声がふるえた。

 こたの言葉を思い出す。ケンカした内容を忘れるなんて最低だ。ぼくが謝らなくちゃいけないことならなおさら最低だ。

 マリちゃんが上を向いて、あー、と低い声を出す。

 たった数秒、時間がすぎるのがやけに遅く感じた。

 本当のことを聞くのは怖い。でも知らないままじゃダメだ。本当のことを知らなくちゃ。


「ラインのことだよね。あれ、本当、しょうもないことで私が怒っちゃっただけだから気にしなくていいよ」

 マリちゃんは上を向いていた首を下ろして、ニッコリと笑った。

「本当?」

「本当だよ。私あのとき生理でイライラしてたの。ごめんね」

「せいり?」

 わからない単語だ。ぼくがそれを知らないということを田中さんが気付いてくれたのか、間に割り込んできた。

「生理はね、赤ちゃんを産むために来る女の子の日のことだよ。お股からいっぱい血が出てとってもしんどいんだよ」

 お股から血。想像するだけでグロテスクだ。とっても痛そうだ。

「生理になると私、いつも無意味に逸くんに当たって謝らせてたよね。ごめんね」

 マリちゃんが頭を下げる。

「うんうん。それならよかった」

 

 取り返しのつかないことだったらどうしようかと思ったので、そんなことでよかった。とてつもなく怒らせて、嫌われていなくてよかった。


「マリちゃんは他の人に乗り換えしてない?」

 再度マリちゃんの言葉で確認したくて問いかけると、マリちゃんは頭を揺らしてふっと笑ってうなずいた。髪が揺れて、その髪からはお花のニオイがした。

 マリちゃんの笑顔を見ながら、あることないこと言ってぼくに無駄な心配をさせたこたに、心の中で怒りを向けた。

 

 マリちゃんの笑顔を見ると、心の奥底にある気持ちがザワザワする。ぼくの記憶の中の写真が揺れている音だろう。

 

 もっとマリちゃんと話したい。

 もっとマリちゃんにぼくたちのことを聞きたい。

 

 ぼくは前のめりになりながら、マリちゃんに質問を続けた。


「ぼくは一人暮らししてるみたいだけど、マリちゃんも一人暮らししてるの?」

「うんうん。私は実家に住んでるよ。大学入学と同時に家族全員で滋賀から兵庫に引っ越したんだ」

 一つ一つスマホにメモしていく。


「ふーん。じゃあアルバイトはしてる?」

「うん。私はドラッグストアでアルバイトしてるよ」

 ドラッグストア。

 お母さんとよく一緒に行くところだ。荷物持ちをすれば、好きなお菓子をひとつ買ってもらえる。

 ぼくの頭の中のお母さんとの写真が一枚、ぺらりとめくれる。でも、マリちゃんの記憶とは何のつながりもない。だからあまり喜べない。


「マリちゃんに兄弟はいるの?」

「いるよ。年上の姉が一人」

「ぼく、会ったことある?」

 マリちゃんがうーんとうなりだす。

「一回逸くんの家まで送ってもらったことはあるけど、逸くんは直接会ったことないと思うよ」

「そっか。じゃあわからなくて当たり前だね」

 ぼくは、『マリちゃんには姉がいる』とスマホでメモをとった。マリちゃんはぼくがメモをとり終わるまで、話すのをやめてくれる。

 

 外から子供たちのキャッキャと遊ぶ声が聞こえて、ぼくは声の元を見るのにベッドから体を乗り出した。入院しているであろう子供たちが看護師さんと遊んでいる。


「あの……。無理を承知でお聞きしたいのですが……」


 急に口調が丁ねいになったマリちゃんの方を見る。ぼくではなく、田中さんに話しかけていた。

 ずっとタイミングをうかがっていたのか、何かセリフを読んでいるような口調だ。


 田中さんはマリちゃんに向かって首をかしげた。


「退院して以前のように逸くんと私、二人で逸くんのマンションで暮らすことはできますか」


「「え?」」


 ぼくだけではない。田中さんの口からも、鳥の鳴き声のようなふぬけた声がもれた。


 マリちゃんがいったい何を考えてそう言ったのか、ぼくにはわからなかった。


「また同じように生活してみたら、記憶が戻るかもしれないと思うんです」

 マリちゃんが冗談を言っているようには見えない。真剣な表情で、田中さんに訴えている。


「あの、それは、正直難しいと思います。逸くんはまだ元通りというわけではありません。マリさん一人で対処できない事態に陥ることがあるかもしれません。そのときに困るのはマリさんだけではありません。逸くんもです」

 学校の先生が怒るときみたいに、田中さんの口調は冷たいものになる。何を言っているのだ、とあきれているようにも見える。


 マリちゃんはそうですよね、と肩を落としてしまった。今のぼくにだってわかる。マリちゃんはわがままを言っている。


「本気なら一度担当の医師に相談してみるのがいいかと思います。あともちろんですが逸くんのご両親に了承を得ることも必要になると思います」

 田中さんの声がさっきより少しだけ温かいものに変わる。マリちゃんの提案を、無視してけっ飛ばしたわけではないらしい。

 

 ぼくはマリちゃんの言っていることを頭で考えた。

 

 マリちゃんとぼくが二人で住む。それが前の生活だというならぼくだってそうしたい。

 みんなと同じように起きて、大学へ行って、家に帰ってくる。その習慣を繰り返していくうちに、何か記憶のカギとなるものを見つけることができるかもしれない。


「わかりました」

 マリちゃんの声は、鋭い形をした割れない氷みたいに冷たかった。そして、さっきまで穏やかに笑っていたマリちゃんとは思えない、真剣な表情をしていた。


 マリちゃんが田中さんに担当の医師の名前を尋ねる。どうやら立花先生は、今日は病院にいないらしい。明日ならいる、ということでマリちゃんは「また、明日も来ます」と言い残して、今日は帰ることになった。


 田中さんがマリちゃんの座っていた椅子を片付け、カーテンを閉める。もう夕焼けが消えて、外は暗くなっていた。


「ねぇ、田中さん」

「何?」


「もし、ぼくがマリちゃんと住みたいって言ったら怒る?」


 田中さんは、立ち止まって数秒固まった。そして服を羽織るときみたいに、カーテンをぎゅっと引っ張った。


「怒りはしないよ。でも、反対する」

「どうして?」

「逸くんが心配だから」

「どうして心配なの?」

「だって、大切な患者さんだから」


 田中さんはそう言い残して、ぼくの夕食を取りに病室から出て行った。


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