第八章 国王、命を掛ける
二人を乗せた馬車は街道を軽快に進む。
古びた馬車は四人掛けの席だったが思ったよりも狭く、窓も無い吹きっさらしの簡易な造りだった。しかし天気が良いためか風が心地よく、シルビアが心配していた馬車酔いも今のところ顕れてはいなかった。
カランカラン
馬車の御者席には、銅で出来た鈍い色の小さな鈴が掛けられており、それが風に靡き涼しげな音を響かせていた。
結局、買い物に思ったよりも時間を取られてしまい、二人が次の町まで行く乗り合い馬車の待合所に着いた頃には、長蛇の列が出来ていた。そうして最後尾に並んだ二人に残されていたのは、今乗っている古びて走る度にギシギシと鳴るこの馬車だけだった。最後尾だった為、他に乗る者も居ない馬車はひどく寂しげな装いだ。
「アル、あの鈴は何なのかしら?」
シルビアは前にぶら下げられた鈴の存在を不思議に思い、向かいに座るアルに問い掛けた。
他の者が乗って行った全ての馬車にも示し合わせたように同じ鈴が付いており、ずっと気になっていたのだ。
「ああ。あれは、レイリーンの鈴だ」
「レイリーンの鈴?」
シルビアは初めて聞く言葉だ。
「……この先、危険な森があると言ったな。そこの森の名をレイリーンの森と言う。太古の昔、レイリーンという獣の姿をした女神が棲みかにしていたらしい。この鈴は、レイリーンの存在を敬い、無事に森を抜ける為の護符の役割をしている。……まぁ、気休め程度の迷信だろうがな」
「……そう」
エトワールの王族の祖先は海神だと言われている。だから、エトワール国民は皆、神を敬い深く信仰している。戦が多く、新興の大国であるリトグラ王国にもそのような風習や伝説があったことにシルビアは驚いていた。
最も、目の前の人物は迷信だと言って信じてはいないようだったが。
「兄ちゃん、それは違うなぁ」
突然、前の御者席から男の声がした。古びた馬車を扱う御者は人の良さそうな中年の男で、アルミレッドをたしなめる様にゆっくりと語りかける。
「レイリーンの森には、本当に神がいらっしゃるよ。俺ぁ、見たことは無いが、仲間は瀕死の怪我をおったとき、金色に輝く虎に助けられたらしい。巷じゃそれがレイリーン様のお姿だと言われているよ」
「……金色の、虎」
「ああ。だから、俺達乗り合い馬車の仕事に就く奴は、必ずこのレイリーンの鈴を付けて走る。この鈴の音はレイリーン様がお好きな音らしいからな」
「「……」」
アルミレッドは胡散臭そうに右から左に流していたが、シルビアには、なまじ嘘とは思えなかった。
金色の虎。
それはそれは、美しいお姿なのだろう。
シルビアは幻想の世界に浸る。
近い将来、リトグラ王国に嫁いだら、一度くらいそのお姿を見ることが出来るかしら。淡い期待が胸に広がる。
「私、レイリーンの森に早く行ってみたいわ」
夢うつつの状態で呟くと、御者の男が豪快に笑った。
「わっはっは!レイリーンの森に早く行きたいなんて、この国の者じゃ絶対に言わないなぁ。なんせ、狂暴な獣がうようよしているからな。まあ、昼間は姿を隠しているし、鈴の音があれば安心だがなぁ。……おっと、噂をすればもうすぐその森だ」
御者は静かに前を示す。
目の前には確かに鬱蒼とした森が迫っていた。
シルビアは無意識のうちに背筋を伸ばした。
「……一応、用心の為に、森を抜けるまでは静かにしてて下さぁ」
御者も心なしか緊張しているようだ。
「……」
一人、その状況についていけないアルミレッドは馬車の枠に肘をつくと顔をあらぬ方に背けた。
アルミレッドからしてみれば、居るかどうかはっきりしない神になど祈るつもりは無かった。万が一、本当に居たとしても最後に頼るのは自分の力。神頼みなど無意味なことは決してしない。
それが、戦場で生死を分ける剣を奮ってきたアルミレッドの考え方だった。
「「……」」
そんな、バラバラな考えの一行をよそに馬車は静かに森へと入っていく。
ガラガラガラガラ
古い木の車輪が軋んだ音を盛大にたてる。
……鈴の音があっても、この騒音じゃあレイリーンに届かないだろうな。
アルミレッドはそんな事を思ったが、目の前に座るシルビアがあまりに真剣な顔をして周囲を見渡しているため、余計な口を開くのを止めた。
「……あれ?あれは何かしら?」
しばらく森を走り、中頃まで差し掛かったとき、シルビアが訝しげな声を上げた。
静まり返った馬車の中で、目を瞑っていたアルミレッドはゆっくりと瞳を開けた。
「ほ、ほらっ。あそこよ、あそこ!」
シルビアは必死になって、右手に見える森の奥を示す。
「…………ん?」
獣でも見つけたのか。アルミレッドが鋭い視線でそちらの方向を見ると確かに何かが動いていた。
しかし、あれは。
アルミレッドは、急いで御者に声を掛けた。
「おい、止まれ!」
「えっ、ええ?!」
本気かい?!と、御者は走りながらも振り返ってアルミレッドを見やる。心なしか顔色が青ざめているようだ。
「こ、この森で、しかも、こんなど真ん中で止まろうなんて……」
「いいから、止まれ!」
有無を言わせず、怒気を出すアルミレッド。
「…………」
御者は仕方なく、馬車を停止させた。どことなく品があり、羽振りの良さそうな若者達だったが、こんな事なら乗せなければ良かった……。御者は自分の不運を嘆いた。
「な、なんだって言うんですかい……」
怯えるような瞳でこちらを見やる御者にシルビアが切羽詰まった様子で口を開いた。
「こ、子供が!子供が森の奥に居たの!」
「こどもぉ?!」
御者も急いでその方角を見やったが、深い森の樹が邪魔をして全く見えない。
「き、気のせいじゃあ……」
この森に入るとき、多くの者は馬車か馬で移動する。中には猛者達がいて、猛獣を狩るためにわざと徒歩で入っていく者も居るには居たが、大抵の者はレイリーンの女神に敬意を示し、そんな事はしなかった。
ましてや、子供がこの森を単独で渡るなど自滅行為だ。いかに昼時といえど、獣が皆無な訳ではない。決して生きては出られないだろう。
そんな解釈から、見間違いだと結論を下す御者。
しかし。
「いや……見間違いでは無い。微かにだが、俺も確かに見た」
「……」
この森を知っているアルミレッドまでもがこのような事を言い出す始末。
御者は本格的に頭を抱えたくなった。
「だっ、だとしても、どうしろって言うんです?まさか、森の中に入れって言うんじゃないでしょうね?!」
それだけは絶対に嫌だ。
御者はまだ小さい娘と妻の姿を思い浮かべた。
「た、確かに子供が居たんなら助けたいとは思う!だ、だが、俺にだって待っている家族が居るんだ!ここで命を投げ出す訳にはいかねぇ!」
御者の必死の訴えに、一瞬、顔を伏せるアルミレッド。
しかし、すぐに顔を上げると御者を振り返った。
「ならば、俺をここで下ろせ」
「……なっ……」
「アルッ!」
言外に自分一人で降りるという言を感じ取り、シルビアが非難の声を上げた。
「ほほほほ、本気ですかいっ?!」
御者も目を白黒させて、アルミレッドを問い質す。
「ああ、本気だ。このような危険な森に子供を放っておくわけにもいかぬ。シルビア、お前は先に森を出て……」「嫌よ!」
アルミレッドが言い終わらないうちに、シルビアのキッパリとした言葉が被さった。
「だが!」
「絶対に嫌!私が最初に見つけたのだもの。責任は私にあるわ!アル一人を残して行くなんて、絶対にしません!」
そう言うと、脇に置いた鞄を斜めに掛け、シルビアはアルミレッドに叫んだ。
「アル、あなたはとても優秀な騎士のはずよ。私と子供一人を連れて森を渡るくらい平気でしょう?!」
無茶苦茶な言い分だ。
だが、その言葉を聞いたアルミレッドは半ば呆れながらも、不思議とシルビアの事を少し頼もしく思っていた。
「……後悔しないか?」
「ええ。私も自分の命くらい、自分で責任を持ちます。あなたはとにかく、子供を救って頂戴!」
「……」
見つめあう、シルビアとアルミレッド。
しかし、先に目を反らしたのはアルミレッドだった。
「……御者」
そう言って振り返ると、アルミレッドは御者の男に金貨を差し出した。
「ここまでの賃金だ。受け取れ」
「ほ、本気ですかい?ここは狂暴な獣ばかりだ。大の男だって危険なんだぞ?そこに女の子を連れて残るなんて……」
御者は信じられない、と言った顔で首を横に振る。
「……無理は承知だ。たが、今の俺の主はシルビアだ。……彼女が行くと言うのなら、俺はそれに従おう」
アルミレッドも、無謀だとは理解していた。しかし、シルビアは今にも飛び出して行きそうだし、例え止めても行ってしまうだろう。
国王である自分の命より、シルビアの命を優先させる。事の重大さをひしひしと感じたが、どうしてもシルビアの命を諦めきれなかった。
「……」
アルミレッドの決意を感じ取ったのか、御者は黙って身を引いた。
「金はいらねぇ。……だが、絶対に生きて帰ってきてくれ!」
そう叫ぶように言うと、御者台に置いてあった袋から、レイリーンの鈴を取り出す。
「予備の鈴だ。役に立つかは分からねぇが、これを持っていってくれ」
そうして、少しささくれだった手で握り締めた鈴を差し出す。アルミレッドは、鋭い視線を少し緩めると、御者から鈴を受け取った。
「……礼を言う。必ず、生きて帰ると約束しよう」
そう言うと、ひらりと馬車から飛び下りた。
「シルビア!」
「ええ!」
シルビアもその後に続き、馬車から必死で飛び下りる。
アルミレッドの手を煩わせてはいけない。
彼の足手まといにならないよう、生き抜いてみせる!シルビアはそう心に誓い、アルミレッドから受け取った鈴を握り締めた。
二人の姿が土の匂いが薫り立つ森の中に消えて行く。
刻一刻と周囲は薄暗くなっていく。
日没はそう遠くない。