死
眠りから覚める。
心情を盛大に吐露したのが良かったのか、随分と思考がクリアになっていた。
相変わらず周囲は暗いばかりで何も見えはしないが、今は恐れもかなり弱まっている。
改めて考えてみれば、あれは単なる死後硬直の影響だったのだとすぐに分かった。
本当に馬鹿馬鹿しい。
大体、死体を最初に調べた時、自分でも言っていたではないか。
それが実際に起こってしまっただけだ。
恐怖心は判断力を鈍らせると言うが、どれだけ脅えていればあんな無様に大騒ぎする破目になるのかと、少し自分を恥ずかしく思った。
頭はまだしも、身体はあちこち痛んでいた。
騒いだせいでもあるだろうし、固い地面で寝ていたせいでもあるだろうし、ずっと緊張状態が続いているせいでもあるだろう。
仕方がない。
だが、だからと言って休んでいる暇はない。
補給が適わないのだから、まだ動ける今の内に今度こそ鍵を見つけ出さなくてはならない。
重い身体を引きずって、俺は背を向けた全裸の人形たちの元へと向かう。
まずは、比較的破壊の容易な陶器とガラス製の人形からだ。
破片が他の人形に降りかからないよう、赤の壁の一角に放り投げる。
大体は一度で済むが、時々しぶとい奴がいて鬱陶しい。
割れたら、怪我をしないよう注意しつつ鍵が無いか捜索。
掴む、割る、探す。掴む、割る、探す。掴む、割る、探す。
目が合わないというだけで、中々スムーズに作業が進むものだ。
罪悪感もあるにはあるが、粉々になって人の形を失ってしまえば自然と薄れていく。
終盤、飛んできた破片に薄く頬を切られてしまうというアクシデントにも見舞われたが、すでに全身真っ赤に染まりきっていたせいか、だからどうしたという気分になってそのまま放置した。
鍵は、残念ながら見つけることは出来なかった。
金属やゴムなどの素手ではどうしようもない人形を端に除けて、プラスチックや木製の人形を壁に叩きつけ破壊していく。
もはや躊躇はない。
掴む。壊す。探す。掴む。壊す。探す。
暴虐は俺の腕が限界を迎えるまで延々と続けられた。
呻きながら、無言でゆっくりと辺りを見回してみる。
気付けばそこは、まるで凄惨な殺人現場のような様相を呈していた。
割れ物と違って、原型が残りやすいからだろう。
なぜか笑いが止まらない。
別に何が怖いわけでも、面白いわけでもないのに、ひたすら笑いが止まらない。
まるで変な脳内物質でも分泌されているような、と考えて連鎖的にひとつの仮説が頭に浮かんだ。
この液体には人体に有害な物質が含まれていて、それを吸うか浴びるか条件は分からないが無意識に接触してしまって、おかしくなったとか。
そう思い至った瞬間から、少しずつ俺の中に冷静さが戻ってきた。
惨殺地帯から離れて、寄せ集めていた人形の服を数枚掴み顔を拭う。
腕が強く痛んで、顔を顰めた。
覚束ない足取りで扉を目指し、倒れるように腰を下ろす。
普段と違いすぎる思考回路が、形容しがたい高揚感が、異常に気付けなかった自分自身が、とにかく恐ろしかった。
あのまま正気に戻らなければ、死体にすら容易く手をかけていたかもしれない。
想像して、寒気がした。
辛い現実から遁走するように、俺の意識はそのまま深く深く沈んでいく。
確実に精神が摩耗していた。
もう何日経ったのだろうか。
思考を狂わされたあの時から、俺は全ての行動を諦めていた。
またあの液を浴びるのが嫌で、人形を再び調べようとは思わなくなっていた。
とにかく寝て、寝て、寝続けた。
体感的には月単位でここに閉じ込められ続けているような気がするが、水分も摂取していない人間が生きられるのはせいぜい三日という話だから、まだそれ以下の時間しか経過していないのだろう。
確かに、喉は渇いている。カラカラだ。
いっそ、あの得体の知れない人形の中の汁でも啜ってやろうかと思うくらいには、渇いて渇いて仕方が無くなっている。
腹も減り過ぎて、食欲はないが、とにかく痛い。
比喩じゃあなく、背と腹がくっつきそうな気さえしてくる。
なんで、俺はこんな辛い目にあっているんだろう。
なんで、俺がこんな辛い目にあわなければならなかったんだろう。
一体、俺が何をしたと言うんだ。
一体、俺がこんなにも苦しまなくてはならない何をしたと言うんだ。
あぁ、のどが、かわいた、のどが。
眠っているのか、気絶しているのか、もはや判断の付かない状態から、何度目かの覚醒を迎える。
食べて、しまおうか。
最初に思ったのはそれだった。
そろそろ女の肉も解硬して、食べやすくなっていることだろう。
ここはそんなに暑くも無いから、まだ腐っているとは考えにくい。
生きるためだ、俺が。
俺が生きるためだ。
すでに死んでいるんだから、生きている人間のためなんだから、きっと文句も言われないだろう。
とても良い考えのように思えた。
もう立ち上がるだけの体力は残っていなかったから、倒れたままの体勢で、じりじりと時間をかけて死体の元まで這って行く。
もうすぐだ。
もうすぐこの飢えが、渇きが、満たされる。
知らずうち、歪な笑みが口元に浮かんでいた。
久しぶりの肉なんだから、良く噛んで食べないとな、なんて、微妙に残っている冷静な部分が可笑しかった。
元気な頃なら数秒で辿り着くはずの場所へ、何十分とかけて移動する。
女の死体はまだちゃんとそこにあった。
息を荒げて、女の胸に突き立っているナイフに手をかける。
もう少し。もう少し。
腹を掻っ捌いて、美味そうな赤身に食らいつくんだ。
しかし、中々ナイフが抜けない。
残っている体力を必死にかき集めて、手に力を込める。
抜けろ、抜けろ、抜けろ、抜けろ、抜けろおおおおお。
ずりゅ、と少し周りの肉を裂きつつナイフが抜ける。
食える。これで、食える。
さっそく両手で柄を握り、倒れ込むように女の腹に凶器を突き立てた。
刃はあっさりと肉に沈み込んでいく。
ふと、その感触に既視感を覚えた。
なんだ。この感覚は。
馬鹿な。俺は人間を刺したことなんか無いはずだ。
いや、そもそも人間どころか、動物を捌いた経験だって有り得ない。
この現代日本に生きていてそんな特殊な経験があるのは、医者か肉処理場で働く職員くらいのものだろう。
俺はそのどちらでも無かったはずだ。
頭上に疑問符を飛ばしながら、ナイフを傾け細かく上下させていく。
そして湧き上がる不可思議な多幸感。
食欲を満たすことができるから?
それがこんなに嬉しいのか?
いや……いや、違う。これは違う。
これはそんな単純な感情じゃあない。
どこまでも甘美な、この陶酔は……。
…………っあ。
あぁ、あぁ、思い出した。
ようやく思い出した。
何が、俺だ。
何が、閉じ込められただ。
ここは僕の秘密基地じゃあないか。
そうだ、そうだ。
既視感だって、して当然じゃないか。
僕がこのナイフで君を殺してあげたんだから。
多分、痛みはなかったはずだ。
呼吸で上下する肋骨やその間の肋間筋、あと胸膜なんかに邪魔されて難しいけれど、心臓を一突きされれば人間は即死する。
君がゲームを拒否して後ろから僕を襲って来たりなんかするから、君が始まってもいないのにギブアップして僕の物になってくれると言うから、望み通りすぐに殺してあげたんだった。
でも、情けないことに僕はそこで気絶してしまったんだ。
きっと、頭を殴られた影響が時間差でやって来たんだろう。
原因が何であれ、一時でも大切な君のことを忘れてしまっていただなんて、自分で自分が信じられない。
こうして思い出すことが出来ないまま、無様にも死んでしまっていたらと思うとゾッとするよ。
さぁ、記憶をなくしてしまったせいで僕も体力の限界が近いから、やるべきことは早くやってしまおう。
まだ何時間も経っていなかったはずだから、鍵はまだ胃にでも残っているかな。
君に気付かれずに飲み込んでもらうために、組み立て式の鍵を自作したんだけど、上手くいって本当に良かった。
作るの、とっても大変だったんだ。
とりあえず、胃から順番に開けていけば全部見つかるだろう。
途中で倒れたりなんかしないように、君をつまみながら作業させてもらうね。
あぁ、大丈夫。心配しないで。
ちゃんと後で髪の毛一本すら残さず君の全部を僕の中に収めてあげるから。
約束通り、ずっとずうっと一緒にいてあげるから、ね。
永遠に愛しているよ、僕の可愛い――ちゃん。




