玉座の朝
魔王城の朝は、鐘ではなく水の音で始まる。北壁の内側を流れる細い水路が、夜明け前になると一段だけ勢いを増すのだ。厨房の女たちはその音を聞いて火を起こし、見張りの交代兵は湿った石段を下りてくる。
魔王ヴァルゼンは、謁見の間の扉が開くより早く目を覚ましていた。玉座の肘掛けには、昨夜、書記官が置いていった穀物の収穫報告がある。西の畑は冷え込みが早く、黒麦の実りが例年より少ない。代わりに地下茸の栽培がうまくいったと記されていた。
「西の村に、城の備蓄を回せ」
朝の報告に来た執政官メルドは、一度だけ首を傾けた。
「冬の城内分が減ります」
「こちらは石壁に守られている。村の子らはそうではない」
メルドは返事をせず、帳面の余白に小さく印をつけた。反対しているのではない。荷車が通れる道と、雪が積もるまでの日数を頭の中で数えているのだ。
玉座の正面には長い赤絨毯が延び、その先に重い扉がある。ヴァルゼンは昔、一度だけその扉を越えようとした。足は敷居の手前で止まった。何かに縛られる感覚すらなく、ただ次の一歩が存在しなかった。
そのことを知る者は城でも少ない。
「陛下、南の詰所から便りです」
若い伝令が膝をついた。彼の角はまだ短く、兜の内側に収まっている。
「街道に旅人が増えています。人間の商人も混じっているそうです」
「通行税は従来どおり。水を求める者には水を与えよ」
伝令は安堵したように頭を下げた。彼の父は南の詰所で働いている。ヴァルゼンはそれを覚えていた。
報告が終わると、謁見の間はまた静かになった。遠くの厨房から焼いた根菜の匂いが届く。今日も城の誰かが腹を満たし、誰かが畑へ向かう。
ヴァルゼンは扉を見た。開いたままの扉の向こうで、掃除係の少年が床を磨いている。そこまでの距離は、ほんの二十歩だった。




